内なる戦い
シェムハザの城の地下牢でそうしたように、潤の指を口に含み、血を吸い出し飲み込む。
一口、二口程度の量なら、身体を程よく癒し回復させる良薬となりうる力だが、清士はあの時のようにそれで済ませはしなかった。
どんな良薬も、量が過ぎれば毒となる。――そもそもが毒素である力だ。吸い上げるごとに、清士の小さな器をあっという間に満たしていく。
満ちた力は、内側から器を浸食し、ゆっくりと全身に回っていく。
ここで自らの魔力でもってその毒に対し抵抗し、ねじ伏せれば、この力はそっくりそのまま自分のものとなる。――潤という存在ごと、自分のものにできる。……狛犬と、その主という主従を逆転することができる。
――が、今の清士にそれだけの力はない。……例えあったとしても、自分はそんな事は望まない。
だから、取り込んだ魔力に従順に、むしろあっさり服従の意を示し、自らを明け渡す。
全身を回る毒素がゆっくり清士の身体を蝕んでいく。
蹂躙できる獲物を見つけた魔力は、本能的に清士に向かい、暴走し荒れていた魔力が統一される。
それに伴い、少しずつ潤の容態も落ち着いていく。
清士は、魔力に侵される苦痛に顔を歪めつつも、望んだ結果が得られたことに満足し、僅かに笑みを浮かべた。
含んでいた潤の指を離し、清士はゆっくり潤の身体を床に横たえ、先ほど放った神剣を目で探す。
――過ぎたる力に侵されたこの身が、完全に染まりきってしまった時、力は暴走を始める。潤のそれより耐性に優れた清士の身体は、自らだけでなく周囲にまでその影響を及ぼし、害を与える。
だから、その前に。清士は、目当てのそれに手を伸ばした。
まだ、心が自分のものであるうちにと、それを掴み取る。
ぴりりと、先程までは感じなかった痛みを手のひらに感じながら、それでも強く、それを握り締めた。
今、この刃を自らに突き立てれば、間違いなくその神気によってこの身は焚き尽くされるだろう。……そう、それでいい。
自分を失い、せっかく救ったはずの彼女をこの手にかけてしまうなんて事にならない様に。
ひと思いに、それを振り下ろす――
……が。
「おい、こら待てよお前」
しゅるりと、細身の小蛇が清士の腕に巻き付き、その体躯からは考えられぬほど強い力でその動きを阻害する。
「お前、先だって俺と交わした契約を反故にするつもりか?」
ぎりぎりと腕を押し戻し、清士の拳を強引にこじ開け、神剣を無理矢理引き剥がした。
カラン、と軽く甲高い音を立てて、剣が床に落ちる。
「きゃあ!」
同時に、背後でサラの悲鳴が鋭く空気を裂いた。
「――忘れたか? そいつの身の安全と引き換えにしたのはお前の使用権だ。……お前に消えられちゃあ使用権も何もあったもんじゃねえ。契約破棄、って事で……勿論、その娘がどうなってもいいと、そういう事でいいんだろう?」
ぎりぎりと、大きな蛇が素早くサラの身体に巻きついていく。
今はまだ肌に触れるだけで締め上げられてはいないようだが……年頃の娘の目にはそれだけで充分恐ろしい光景に映るだろう。
だが、今はともかく魔王は勿論、それだけで済ませるつもりはないはず。
「その魔女だけじゃない。……そこの小娘も」
潤にも、蛇が近づく。
清士はかろうじて聖剣を握り、蛇を牽制するも、聖剣から放たれる聖気はどんどん弱々しくなる。
けれど、もう清士の身体の内には既に潤の――高位の悪魔の魔力が満ちている。もう、やり直しはきかない。
この状況を打破するための方策は、ひとつだけ。……万に一つの可能性に賭ける以外にない。
この身の内の魔力を自分の力で抑え込み、自らのものとする。
苦痛で朦朧とする頭で、一度は否定したはずのその道を見据える。
白い翼を広げ、自らを庇うように身体を包む。――立ち上がる余力は、ない。床にへたり込み、蹲り、苦痛の呻きを漏らす。
意識を、己の内へ集中し、魔力の流れを読む。……痛む胸を、手で押さえ――その手のひらに違和感を感じ、ふと意識を逸らした。
そして、思い出す。
ここへ来る前、懐へしまいこんだあの瓶。天界の木の実の入った瓶。
(……あれなら)
天界に実る聖なる実だ。あれなら、魔力を抑えられるに違いない。
清士は必死で瓶を叩き割り、中身を鷲掴み、口へ放り込んだ。
途端、相反する力が体内で反発し、途方もない激痛が襲う。
だがその一方で天界の木の実は清士の疲弊した身体を癒しつつ、清士の身の内で暴れる魔力の矛先をずらした。
清士を蝕んでいた力が、一時的に木の実が有する聖なる力を駆逐せんと暴れ始める。
清士は、その隙を逃すまいと、漁夫の利を狙って一気に攻勢をかける。
聖剣に縋るように体重を預け、苦しい吐息を吐き出す。
「ほう、抗うか? なら初めからそうしていれば良いのに。成程、結局お前に一番足りないのは思い切りと覚悟ってわけだ。……なら、いい機会だ。ついでにもう一歩踏み出してみろ」
ルシファーは、メデューサに目配せした。
「……ふん、面倒なことこの上ないが、一度引き受けちまった仕事だ。仕方ない、協力はしてやる。だが、後で相応の見返りは用意しておけ」
彼女は眉間にしわを寄せ、渋々といった様子で髪を一本、引きちぎった。
ルシファーは、髪から蛇へ姿を変えたそれに、拳に握りしめていた魔力を食わせ、けしかける。
蛇が標的にするのは、清士の聖剣。するすると刀身に巻き付く。
――魔王の魔力を秘めた蛇の身から、強力な邪気に満ちた魔力が染み出し、聖剣の聖なる力を侵食していく。
聖剣を形作っているのは、清士の力。……それが、浸食される、という事は。
天界の木の実で得た僅かな余裕が、初めからなかったように失せ、身体が一切言う事を聞かなくなる。
身の内に巣食う魔力は野放図に暴れ回り、清士の意識はその濁流に今にも押し流され消え去りそうになる。
そう言えば、前にもこんな感覚を味わったことが、一度だけある。
晃希の前に敗れ、天から裁きを受け一度光となって消え散ったあの時。
あの時は、苦痛を味わう間もなくあっという間に凄まじい力に意識が押しつぶされた。
……あの時に比べれば、清士の意識を苛む圧力は随分と弱い。まだ、清士にも抗う余地がある。
清士は、先ほど無理矢理引き剥がされた神剣に、もう一度手を伸ばした。
ほんの少し、指先が触れただけで、熱した鍋に触れたかのような痛みが肌を焼く。
だが、これに触れられないという事は完全に悪魔に堕ちた事を意味する。
清士は、それを拒絶するように、神剣を振り下ろす。
今度は自らの身体にではなく、聖剣に巻き付く蛇の身体目掛けて。
その結果、どうなるかを考える余裕は、もうなかった。ただ、ひたすら思いついたままに腕を振り下ろした。
ただ、一度きり。……その忠告も、頭から吹き飛んでいた。
――瞬間、だだっ広い謁見室に、目を焼く強烈な光が、爆発的に満ちあふれた。