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悪魔の囁き

 メデューサは、プツリと一本自らの髪を引き抜くと、ひょいっと無造作にそれを放り出した。

 はらりと宙に投げ出されたそれは、見る間に大蛇と化し、その場で幾重にもとぐろを巻いた。しゅうしゅうと耳障りな音を立てながら、ちろちろと先の割れた真っ赤な舌を出し入れする、その首をそろりと撫でながら、彼女はとぐろを巻いた大蛇に半ば寄りかかるように腰掛けた。

 「その娘がそういう事にならないために使い魔が必要なのだと、あの方から頼まれたから、わざわざこんな陰気な城へ足を運んでやったというのに。既に適役が居るのではないか! 妾を当て馬にしたのか、あの狸め!」

 豪快に足を組み、ぷりぷりと怒っている。うねうねと髪を逆立てながら、清士を睨みつけた。 

 「大体、何故わざわざ使い魔探しなどする必要があったのだ? ああ、その娘に使い魔が要る理由を尋ねておるのではないぞ、そのくらい見れば分かるからの」

 少しでも答えを誤れば、即座にその視線が清士を物言わぬ石像へ変えるだろう――そう確信させるだけの威圧が、声音に滲む。


 「……我では、器が足りぬ。この娘に宿る魔力の元は、我が兄のもの。双子として生まれ落ちながら、かつて天にあった頃、我と兄の間には位という形で誤魔化しようのない力の差が存在した。――堕ちた後も。それを覆すことの難しさを、同胞たる貴方ならご存知のはずだ」

 ちらりと一瞬、視線を魔王へ向け、苦々しく吐き出す。

 「我では、兄の魔力を受け止めきれぬ。だから、他をあたるしかなかったのだ!」


 そのセリフを受けた魔王は、凄絶な笑みを浮かべて立ち上がった。

 「……言ったな」

 幼い、大きな瞳が、らしくない冷酷な光をたたえる。

 「ああ、そうだとも。天使に位を授けるのは神だ。その位に相応しい力を与えるのも、神だ。それ以外の方法で、天使は力を増すことはできない。……だから、俺はかつての戦で神に敗れ、天上一の位を我が片割れに譲り渡し、今こうして魔界の王として君臨しているわけだが」

 圧倒的な魔力が、ズンと清士の両肩に伸し掛った。

 凄まじい重圧に、清士は潤を抱えたまま膝をついた。

 「だが、堕天し、神の支配から逃れた俺達はそれを覆す術を手に入れた。……難しくとも、不可能ではない」

 牙を剥きだして笑いながら、彼は何かを掴み取るように、強く握り締めた拳を片方、掲げてみせる。

 「――俺は、王だ。魔界の王、そして堕天使の王。今の俺は、気に入りの臣下に力を与え、位を授けてやる事ができる。未だ神に縛られた我が片割れには為せぬ事も、俺ならできる」

 握られた拳の中に、凄まじい力の気配を感じる。無意識に、全身の毛が逆立ち、鳥肌が立つ程の力。

 「俺なら、お前をサハリエルより上位に引き上げてやる事ができる。――無論、相応の対価はいただくがな。……どうだ? ――力が、欲しいか?」


 ――まさに、悪魔の囁きだ。


 堕天使たる清士にとって、差し出されたそれはまるで甘露だ。

 この世で、これ以上は有り得ない、最上の力。……欲しくない、はずがない。兄を越えることことこそ、清士の願いなのだから。

 あれを手に入れさえすれば、今すぐにそれが叶う。


 だが――。脳裏に、かつて、彼のその言葉に唆された人間が神の怒りを買い、楽園を追われた。――あまりに有名な聖書の一節が浮かぶ。

 身に余る力を得るために失うであろう代償は?

 安易な選択によって、ミカエル様から餞別だと賜ったこの天使としての力を失う結果に……先刻声高に叫んだ思いを曲げる結果になったりすれば……どうする?


 しかし、清士が迷う間にも潤の容態はどんどん悪化していく。


 「既に、お前を手足として使う権利は俺のもの。……どうせ使うなら、丈夫な方が良い。お前に、智天使クラスの力をくれてやろう。俺に次ぐ力だ。シェムハザ程度なら軽くあしらえるぞ?」

 葛藤する清士の耳に、ルシファーは甘く聞き心地の良い声音で囁く。

 「何より、お前を縛っている、主従の鎖も解ける。その手綱を握るのは、お前の兄の魂を取り込んだ吸血鬼。お前が兄を越える力を手にした時点で、主従は逆転するぞ?」

 そろりと心を撫でるような声が紡いだ言葉に、清士はハッとする。

 「お前、その娘が大切だと言ったが……確かその娘には姉が居たはずだな? なあ、お前はもしもその娘たち2人が揃って命の危機に瀕し、どちらか片方しか救えぬとしたら……お前はどちらを救う?」

 チクリと清士の心に爪を立て、魔王は笑う。

 「どちらかしか助けられぬとしたら……普通は、より益になる者を選ぶのが定石だ。老いと若きなら若きを、要人と一般人なら要人を、主と従者ならば主を助けるのが、当たり前だ。……優秀な巫女と、落ちこぼれの巫女なら、救うべきは当然前者、だろ?」

 それは、瑠羽とて清士は幼い頃から面倒を見てきたのだから、大切な家族であることに変わりはない。

 だが、本当に。本当に、どうしようもなくて、どちらかだけを選ばなければならない局面に立たされたとき。

 「お前は、その娘を見捨て、その娘の姉を救う決断が、できるのか……?」


 清士は息を飲み、言葉を喉に詰め、咳き込んだ。――胸が、痛い。清士の心の中で、その答えは明確に出ている。――出来ない。

 「つまり、お前にとって大切なのは社でも、その社で祀ってる神とやらでもない。お前にとって真に大切なのは、その娘だけ。……いいのか? このままではその大事な娘が死ぬぞ?」


 違う。……潤以外だって、大切に思っている。

 けれど、やはりどれか一つと限られてしまえば、清士が選ぶのは――


 「ああ、一つ先に断っておこう。例えどんな対価を差し出されたとしても、俺直々にその娘を助けるつもりはない」

 魔王は無情に、もうひとつの選択肢を潰した。


 「今、お前に許された選択肢は二つ。その娘を救うか、見捨てるか。――この力を受けるか、拒むか。さあ、どちらを選ぶ?」



 じりじりと迫る緊迫の空気に、ふと背後から小さな声音が割り込んだ。

 「……ぶのか」

 清士ですら辛いプレッシャーの中、息も絶え絶え、相当に辛いはずのサラの声が低く小さく響く。

 「お前は悪魔の誘惑に屈し、自らの意思を曲げる道を選ぶのか?」

 弱々しいのに、先ほどのルシファーのものよりはるかに強い怒りの込められた声と眼差しが、清士を射抜く。

 「お前は身分は堕天使でも悪魔ではないと言ったくせに、舌の根の乾かぬうちに私の前で、悪魔に成り下がるというのか?」


 ――もしもそれが現実となったなら、その瞬間、相討ちとなろうともお前たちを殺す。

 

 言葉に出さずとも、そう悠然と語る瞳は、まだ揺るがぬ光を放っている。

 勿論、それは清士の本意ではない。


 ああ、でも――。

 この瞬間にも、刻々と、刻限は容赦なく迫ってくる。

 二度とやり直しのきかない、重い選択。……選ばなければ、潤は確実に助からない。

 仮に助かっても、大切な何かを失う。


 (……本当にもう、それしか道はないのか!?)


 潤を失うかもしれない恐怖と、迫る刻限に圧される焦り。魔王と、サラとから迫られる、両極端な選択に惑い、揺れる心の中はもうぐちゃぐちゃで、気分は最悪だった。

 そこで、ふと思いつく。

 (いや、もうひとつだけ、方法はある)


 清士は少しホッとすると同時に、つい先刻感じたばかりの憤りを思い出し、苦しい笑みを浮かべた。

 きっと、彼女を深く傷つけてしまうだろう。

 けれどもう、この方法しか潤を救う術はないのだ。


 「許せよ、潤」

 時間はもうほとんど残されていない。一刻の猶予も許されない。清士は即座に決断し、覚悟を決める。


 「……申し訳ないが、貴方の申し出はお断りさせていただく」

 清士はきっぱりとそう告げると、潤の指に残る、治りかけの傷に口を寄せ――そのままぱくりと口に含んだ。

 

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