牢破り
「我が名は神崎潤。豊生神宮の始祖たる巫女の血を引き、我らが主神たる龍神の加護を受けし者なり」
潤は、普通の人間にしては少し鋭すぎる犬歯で人差し指の腹を咬み、血の滲んだそれで清士が首から下げた鈴に触れる。
彼が下げるこの鈴は、彼の魂を狛犬として縛る枷のひとつ。
普段は抑制されている彼の力を開放する、封印解除の術式を行えるのは、彼が仕える神、稲穂と久遠、当代の巫女である潤の母竜姫と、彼女の娘で次代の巫女であり、潤の姉でもある瑠羽と――そして、自分だけ。
だが、歴代でも特に優秀だとされ、その上次代の主神でもある竜姫や、母の力と、少々特殊な生い立ちを持つ父の魔物としての力を受け継ぎ、異能の力に恵まれた瑠羽に比べ、潤の持つ力ははるかに劣るのだ。――力の総量はもちろん、それを扱う腕も。
面と向かって言われたことはないけれど。潤は常に劣等感と無能感に苛まれていた。――自分は、役立たずなのだと。
社の跡継ぎには、既に瑠羽が居る。何の役にも立てない自分など、彼らに必要ない。……いつか、自分など要らないと言われるんじゃないかと、怖かった。
「――汝の名は清士。我らが仕えし神々を守護せし狛犬なり」
どんなに努力しても、適わない。その悔しさと、やるせなさを、この彼は身をもって知っている。
潤などより遥かに永い時を、その鬱屈とした感情を持て余しながら存在してきた彼は、潤が抱える悩みをすぐに見抜いた。
彼が、潤にくれる言葉は、きっと彼自身がその永い時の中で欲し続けた言葉。誰かに与えて欲しいと願い続けた言葉だ。
薄っぺらな表面だけ取り繕った慰めの言葉ではない、それらの言の葉は、言霊となって潤の心に響く。
(大丈夫、できる。できるって信じる……)
潤は自らに清士から貰った言葉を繰り返し言い聞かせながら、封印開放の術式を編んでいく。
もしも失敗して術式を暴走でもさせれば、自分だけではない、清士の魂にもダメージを与えてしまう。場合によっては消滅させてしまう可能性だってあるのに。
それでも清士は潤にそれを委ねてくれたのだから。
せめて、その信頼には応えたかった。
「我、神崎潤の名に於いて、汝、狛犬清士の封印を解く。汝が力を我が剣となし、憂いを払え!」
カッと、鈴が眩しい光を放つ。
潤の血に宿る力と、鈴に刻まれた術式がぶつかり合う反動が、ピリリとした痛みとなって潤の指を襲う。
「――っ」
潤はじっと痛みに耐え、それをやり過ごす。やがて、パシン、と鈴の術式が弾け、リン、と小さな音が鳴った。
――成功、だ。
術を破った反動で火傷をしたように赤く腫れた指がじんじん痛むけれど、潤はホッと胸を撫で下ろした。
「良かった……できた……」
「ふん、だから言っただろう。失敗などするはずない、自信を持てと」
清士はともすれば横柄にも見える態度で言いながら、潤の額を指で弾いた。……世に言うデコピン、というやつだ。
「いたっ」
大して痛くはなかったけれど、つい反射的に手を額に当てた潤に、清士は意地の悪い笑みを浮かべてみせた。
「――そら、手を貸せ。傷を治してやる」
“元”天使の彼しか使えない癒しの術で潤の指の怪我を治してくれようとしているのだ。
「待って、……ねえ、清士も怪我してるでしょ?」
先ごろ、散々ピンヒール攻撃を背中に喰らっていた際、その幾つかが彼の背に埋まるのを潤はしっかり見ていたのだ。
堕天使である彼の身体は、半人半妖の潤のものよりはるかに丈夫だ。……怪我自体はおそらくとうに治癒しているだろうが。
「さっき、あいつらが仕掛けたっていう術式に引っかかった私を庇って、怪我して。……力も相当使ったでしょ?」
潤を異界へ引きずり込もうとする術に対抗してそれに反発する力を放ち、その反動から潤を庇って背に受けた傷痕を、執拗に攻撃されていたのだ。
色々特殊な事情で力が不安定な父と違い、純粋な堕天使である彼の力は安定してはいるが、彼自身が先程認めた通り、兄より数段位の低かった彼の魔力の総量は父に比べはるかに劣る。
見栄っ張りな彼は平気な顔を装っては居るが、それこそ生まれた時からずっと傍で見てきた潤には、彼の不調などすぐに見抜ける。
相当に疲弊し、本当なら立っているのも辛いはず。そんな状態でこんな小さな傷ごときに力を使うなどかなりキツいだろうに。 格好つけの彼が自らそれを認めることはまずないだろうと、潤は知っていたから。
「ねえ、清士。途中で格好悪く力尽きるのと、格好良く華麗に逃亡成功を果たすのと、どっちがいい?」
まだ血の滲む指を彼に差し出しながら尋ねた。
「――む」
清士は堕天使で、吸血鬼ではない。潤の父のように人間の血を飲んでも大して効果ははない。
だが清士は晃希の眷属でもある。潤の血の半分は晃希のもので、血に含まれる晃希の魔力は彼にとっては貴重な糧となる。
潤の血を飲めば、清士は魔力を回復させ、身体の傷を癒すことができる。
もちろん、お互いそれは良く知っているから、清士も潤の行動が何を思っての事なのかすぐに察し、眉をひそめた。
身体は、やはりそれを求めているのだろう。清士の瞳が揺らいだ。
しかし、彼の心はそれを拒絶する。
もともと、魔物に堕ちながら、それでも天使であろうとしている彼にとって、血を啜るという行為は許されざる行いだ。
しかも今のこの状況、いくら半人半妖で並みの人間よりは多少頑丈であるとはいえ、ここでは一番の弱者である潤から血を奪うなど、尚更耐え難いのだろう。
清士の表情が一気に険しくなる。
「ねえ、清士。今清士が倒れたら、私、何もできないから。清士に守ってもらわなきゃ、私はここから逃げることすらできないの。だから……、ね、……私を巫女として認めて守ってくれるつもりがあるなら、……お願い、私の血を飲んできちんと回復して」
だから、潤は卑怯だと知りながら、そう彼に願った。
清士は顔をしかめながら渋々潤の手を取る。
「……仕方ない。我が主の願いとあらば、無下にはできまい。……だがその代わり、痛くとも文句は聞かぬぞ」
少し強引にも思える力強さで潤の手を自らの口元へ運び、それを口に含んだ。
傷口に舌を押し当て、傷口から滲む血を搾り出すように指の腹を揉みしだく。
腫れた傷口に、唾液がしみてピリピリと痛み、そこを舌で乱暴に嬲られじくじくとした痛みが幾度も幾度も襲う。
じっと痛みを堪える潤の目尻に生理的な涙が溜まる。
ようやく解放されると、思わず安堵のため息が漏れた。
清士はそれを見下ろしながら、もう一度潤にデコピンを食らわせた。
「いたっ!? 何するの!?」
「ふん。嫌ならそんな表情をするな。……ここは魔物の棲家の只中だ。魔物相手に己の弱みを自ら晒すような真似をするな。忘れるな、お前は我が仕えし社の主。この我が護衛をしてやるんだ、光栄に思え。胸を張っていろ」
清士は、何もない虚空から、光り輝く剣を抜き放つ。――すべての天使が生まれながらに持つ剣、聖剣だ。
「潤、――少し下がっていろ。壁をブチ破る」
彼がそれを構える姿はなかなか堂に入っている。慣れた仕草をなぞるように、剣を正眼に構え、一瞬間を置き――目の前の壁を鋭く睨み、一気に振り下ろす。
剣の軌道が空を切り、放たれた衝撃が岩の壁に派手にヒビを刻んだ。
清士は返す刀で今度は空を切り上げ、ヒビの入った岩を衝撃波で吹き飛ばす。
轟音ともに壁に大穴が空いた。
部屋全体にもうもうと粉塵が舞い、視界を閉ざす。
「さて。まずは一旦退却するぞ。さすがに我一人で奴に歯向かうのは分が悪すぎるからな」
剣で埃を薙ぎ払いながら、清士は自らが開けた大穴から外へ出る。
「行くぞ、潤。追っ手が来ぬうちに、な」
清士がにやりと笑いなら振り返り、こちらへ手を差し出してきた。
潤は彼の手を取り、散乱する壁の残骸を踏み越え、外へ出た。
地下というから、地面を掘って作ったものだと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。
目の前にそびえ立つのは、そそり立つ崖。
背後には、その崖の上にそびえ建つ豪奢な城。前にはその城よりなお高い崖と、その上に鬱蒼と広がる暗い森。
牢を出たはいいが、結局逃げ場など無いように見えるが……。
だが、清士は得意げに笑った。
「潤、しっかり掴まっていろ。――振り落とされるなよ?」
「へ!?」
清士は剣を虚空へ戻し、空けた両腕で潤の身体を抱き上げた。――世に言う、お姫様抱っこというやつだ。
「ふえぇ!?」
間抜けな声をあげる潤を軽々抱え、清士は背中の翼を広げ、ふわりと飛び立った。