天界の木の実
サラは、黙々と自らの荷物から取り出した、乾燥ハーブとドライフルーツの入ったクッキーと暖かい紅茶、それにほんの少しの葡萄酒の夕食を食べ進める。
堕天使である清士、そして魔物の血を引く潤の事をよく思っていないという事は元々言われていたこと。信用しない、と宣言され、だからこそ彼女はこの旅についてきたはずだ。
それをあえてわざわざ、今更名指しで“嫌い”と言われる理由が分からず、潤は困惑の眼差しでそんな彼女の様子をちらちらと盗み見しつつ窺う。
清士と共に、荷物の中に入っていた、不思議な木の実を詰めた瓶詰めを開け、潤は真っ白いピンポン玉サイズの桃の様な形をしたそれを指でつまんで瓶から取り出し、目の前にかざしてみた。
「これは……?」
見たことのないそれに、潤は戸惑う。――果たしてこれはこのまま口に入れてしまって良いものなのだろうか?
「これは……!」
その隣で清士が驚きの声を上げる。
「……知ってるの? これが何なのか。どうやって食べればいいか知ってるの?」
「ああ、そのまま口に入れてしまえ。甘くて、旨いぞ。食感は……あれだ、誠人が前にハワイの土産だとか言って持ってきた菓子に使われていた……あれは、何といったか、チョコレートの中身のナッツに似ている。味は、練乳のように甘く、仄かにヨーグルトに似た酸味がある。――天界でしか育たん木から穫れる木の実だ。栄養豊富で、滋養強壮、疲労回復に抜群の効果がある、天界でも希少な木の実だ。我も、こうして間近に見るのは2度目だ」
清士に促され、ぱくりとその実を口に含んだ潤は、舌先に触れた瞬間に感じた極上の甘さに思わず目を見張った。
「甘い……」
歯で実を噛み砕くと、確かにその食感は清士の言うとおりマカダミアナッツに似て、程良い歯ごたえがある。そして噛んだ瞬間に、さらに極上の甘さが口に広がる。
練乳のような甘さだが、決してくどくもしつこくもない、さらりとした甘み。そして甘さの最後に仄かに香るヨーグルトに似た酸味が爽やかな後味を演出する。
「すごい、美味しい……」
感動に、口を手で押さえながら、飲み込み空になった口の中に残る旨みを惜しむように堪能する。
上品な甘さが、疲れた頭を癒し、爽やかな酸味が身体の疲れを癒していく。
木の実としてはそれなりのサイズがあったものの、たった一つでは食事としては大した量ではないはずなのに、お腹の中には結構な満足感を感じる。
「だろう? これはな、仕事を評価された天使が褒章として貰う以外に手に入れることのできない、天界でも幻と呼ばれる木の実だ。――我も、以前我が兄がまだ天使であった頃に一度、兄が頂いたそれをひとつ、分けてもらって食べたことがあるだけだが……。あの味は、今も忘れられん」
そっと、潤の抱える瓶に横から手を伸ばし、そっと脆いガラス細工でもつまむように静かにそれを一つ取り出し、じっと眺める。
「え……?」
天界でしか、獲れない木の実。それも天界に住まう天使ですら、滅多にお目にかかれない代物。
「……いくらファティマー殿が優秀だとしても、そうそう手に入る代物ではないはずだ」
もう一度、潤の抱える瓶に視線を落とし、複雑な顔をする。
「それも、こんなにたくさん……。と、すればこれは……あの方の差金なのか……?」
半ば独り言のように小さく呟きながら、その実を口にする。
口の中に広がる味は、あの日と寸分違わぬ極上の甘み。本来、落ちこぼれの自分では決して味わえなかったはずのそれを、――褒章としてほんの3つか4つばかり下肢されたそれを、兄は迷わずひとつ、不出来な弟に分け与えた。
階級の違う兄とは、顔を合わす機会もどんどん減っていたあの当時。双子である自分たちへの風当たりは強く、特に不出来な自分は、自らの心に分厚い防壁を張り巡らし、その硬い殻の中に閉じこもって自らを守る事しか考えられず、どんどん視界を狭め続けていた、あの頃。
木の実はとても美味しく、それを分けて貰ったことはとても嬉しかったのに……。あの頃の自分は、周囲の悪意に自信を散々踏みつけられ、素直になることができず、自分は兄に憐れまれているのだと思った。
不出来な弟を憐れみ、慰めるため上から飴を与えて……そうする事で、より自らの優位と優秀さを確認しているのだと。
そう、とことん卑屈な考えしかできなくなっていた。
だが、天界という枷から解放された今、一気に視界が広まり、ようやく素直に過去を振り返れるようになった。
本当なら、光となって消え散る運命だった自分を救い上げたあの方は、一体今、何を考えているのだろう。
――至高の存在とも言われるあの方の考えなど、清士には到底思いもつかない。
だが……こんなものを用意できる者を、清士は他に思いつけない。
と、なると、潤が今身に着けているファティマーの腕輪の代金を支払ったのも、あの方なのだろうか?
だとすると、あの方の思惑には元天使たる自分だけでなく、半人半魔の潤も入っているのだろうか?
一体、どうして――?
清士は、胸にしまったそれを確かめるように、そっと手で触れる。
「――さる方から、預かり物がある。……持って行け、との事だ」
潤より先に小屋の外へ出たあの時。そう言って、ファティマーに渡されたもの。
「これは」
見覚えのあるその気配に、清士は息を飲んだ。
一見、飾り気のないシンプルな短剣――。
だが、それが放つ気配には覚えがあった。……忘れようもない。
かつて、かの方に兄の討伐命令を下された際に下賜された、神剣。その日からずっと事あるごとに振り回し続けた愛剣が放っていた、この世に比類なき聖の気をまとった神々しいその気配をそっくりそのまま受け継いだ、剣。
剣の形こそ、あの美しい長剣とは全く別物の、素っ気ない短剣だが、それは間違いなく神剣だった。
それを持つのはただ、あの方のみ。
その真意を問おうとした清士を、ファティマーは止めた。
「済まないが、詳細を語ることは止められている。一切の事情をお前に語ることは許されていない」
そして、ただ一言、彼女は告げた。――かの方からの伝言だ、と言って。
「その短剣に込められた効果は一度しか使えない。一度使えば、剣は砕け散り、二度とは使えなくなる。――真に力を必要とした時、使うといい」
――この後、シェムハザとの戦いを控えていることを思えば、とても心強い。
(だが……一度きりしか使えぬ武器、か。使いどころに迷う代物だな)
かつて、強い力に縋って頼りきり、使っているつもりが振り回されていた過去の愚を思えば、尚更使いどころは間違えられない。
身の丈に合わない強すぎる力が毒にしかならないことを、今はよく知っているから。
そこで、ふと思いつく。
(この剣の力を使えば、潤の魔物の血のみを消し去ることも、不可能ではない)
神剣は、この世に比類なき最強の聖具だ。――使いようによっては、潤の中から魔物の血だけを消し去り、彼女を半魔からごく当たり前の普通の人間にしてやることも出来る。
清士は、一瞬迷った。それを、潤に告げるべきかどうか。
(……だが、潤が我を視ることができるのは、半魔だからこそ)
まだ未熟な、竜姫に宿る新しい神龍の加護だけでは、清士や、稲穂や久遠を視る程の霊能力は得られない。
潤や瑠羽が、清士や稲穂や久遠を視る事が可能なのは、晃希の方の血によるもの。
――まあ、事によっては誠人のように、神崎の血の奥底に眠る血を揺り起こすことは可能かもしれないが……確証はない。
そう考えたら、何故か怖くなった。
……清士の姿を視る事ができる者は多くない。社の関係者を除けば皆無といっていい。
これまでずっと、長い生の中それが当たり前だと思って過ごしてきたが……。
他でもない、幼い頃から面倒を見続けてきた潤に己の存在を感知してもらえない――その状況を思い描くと、とたんに内腑が凍りつくような気分の悪さを感じる。
やはり疲れているのか、こんな荒野の中だというのに、潤は清士にもたれかかり、すよすよと寝息をたてはじめた。
清士は潤の手から瓶をそっと抜き取り、蓋をして荷物の中へ戻す。
ふと、サラが面白くなさそうな顔でこちらを睨んでいる視線と、目が合った。
「……そなたは、寝ないのか? 心配せずとも、寝ずの番をさぼったりはせぬぞ?」
「あんたたち2人、似たもの同士なのね。……やっぱり私、あなたたちのこと、好きになれそうにはないわ」
サラは、荷物から毛布を出し、体に巻きつけ、グリフィンのふかふかの羽毛に身体を預けながら不機嫌そうに言った。
「全く、悪魔のくせして天界の食べ物を食べても平気な顔して。……神剣を懐にしまいながら、弱る様子も見せない。規格外にも程がある」
――本物の魔物が天界の食べ物を食べたら、大抵は悶え苦しみ、食中毒のような症状が表れる。場合によっては死に至ることすらある。
ましてや神剣の気に当てられればじわじわと浄化され、弱るのが当たり前だ。
「言ったはずだ。今の我は天を追われ、身分としては確かに堕天使には違いない。だが、我は、心だけは今も天使であるつもりだ。……今は、かの大いなる神ではなく、豊生神宮に祀られた神々に仕える狛犬をしているが、少なくとも悪魔ではない」
……だが、そう答えながら清士は思う。果たして今、自分は本当にあの場所に戻りたいと思っているのだろうか。あの息苦しいまでに清浄なあの場所に。
他に誰か親しい者が在るわけでもなければ、強く願い、望むものがあるわけでもない、あの場所に。
気心知れ、他愛ないくだらない言い合いの出来る居心地のよいあの社を捨て、主を捨て、兄の魂を継いだ晃希に参ったと言わせたいという願望を置いて――。
それでも、あの場所に戻り、天使と名乗る事を望むのか……?
(あの方は……ミカエル様は、一体何をお考えなのだ?)




