潤の望み
「北……、ってことは、狼……?」
先ほどの会話を思い返しつつ、潤が尋ねる。
「そうだ。……流石に神の腕を喰い千切りったり丸ごと飲み込むフェンリルは無理でも、あの辺りには人狼族も棲んでいる。やはり、使い魔にするなら狼の習性は捨てがたいからな。――一度、主と認めさせることができれば、その忠実さは折り紙つきだ。……それでもダメそうなら、次は南の妖精族を狙おう」
フェンリルとは、北欧神話に出てくる魔狼の事。育ての親の腕を食いちぎり、神の中でも特に偉いオーディンを飲み込んでしまうという伝説の魔狼だ。
――いきなり挑んで勝てる相手ではない。
例えまかり間違って勝てたとしても、そんなものを使い魔にした日には各方面、面倒で堪らない。
だが確かに、人狼族なら一応人の言葉を解する分、多少やりやすそうだ。
「もっと、ずっと北へ行くと、深い森がある。真っ黒い、闇夜の森だ。それが、狼たちの棲家。奴らは、闇夜と森を好む」
現在眼下に広がるのは、未だひび割れた荒野が延々と続く荒れ果てた光景だ。まだ、そこまではかなりの距離があるのだろう。
「そして、奴らは群れるのを好む。――弱肉強食が掟の魔界では、珍しい習性を持つ連中だ。もちろん、その掟は奴らの中でも有効だがな。強いものが上に立ち、弱い者はその下につく。下のやつらが常に上を狙って牙を研ぐのは当たり前、上のやつらはそれを力でねじ伏せるのもまた当たり前。……だが、他種族からの攻撃や食料を得る狩りの時には見事な連携を見せる。それぞれ、己の順位に従い、己の仕事に従事し、全うする。そこが、厄介なところだ」
一匹だけを狙っても、もれなく群れ全体を相手にしなければならなくなる。
群れの者が襲われれば、例えそれが群れの一番下位の者でも、群れの仲間はそれを見捨てることはしない。
それは、魔界の中では非常に珍しい事だ。
「……だが、だからこそ上手く使い魔にできれば頼もしいことこの上ない」
清士は、迷いなく翼を動かし、飛んでいく。
その後ろから、ひたと続く、グリフィンに乗ったサラは感情の読めない冷めた目でじっとこちらを眺めている。
魔界の空と大地が交わる地平線の向こうまで広がる荒野の真ん中では、特に眺めて面白いものは何もない。
彼女がこの旅に同行した理由を考えれば、尚、他に眺めるべきものなどないのだろうが……。
こうもじっと見られ続けると、どうにも落ち着かない。
「でも、一匹狙ったら群れ全部相手にしなくちゃならないんでしょう? ……どうするの?」
「うむ。魔狼といえど、狼は狼。跳躍力は普通の狼とは比べ物にならないが、空を飛べるような者は数少ない。そして、狼は――木には登れない。奴らの棲家は、背の高い木の生い茂る森の中だ」
木の上にいる限りは、ほぼ安全。
「だから、まずは我一人で切り込む。お前はそれを上からしっかり観察しろ。じっくり見て、これだと思う奴を選別しろ。我は、お前が選んだ一匹を昏倒させたあとで、群れを引き剥がす。お前は、その一匹と対峙しろ」
清士は、至極簡潔にそう告げた。
とても軽く告げられた言葉が、どすんと潤の心に重く伸し掛る。
清士は、決して弱くはない。
だが、潤の使い魔に選ぶ以上、その魔狼たちも決して弱くない。ましてや、数がいるとなれば……。
清士の負担は、決して軽くない。
駄目なら、妖精族を選べばいい、と清士は言ったが――。
潤は腕のブレスレッドに目を落とす。
それが保証してくれるタイムリミットとは別のリミットが、重い。
晃希は吸血鬼だから、傷ついても血を飲めば回復できる。母の竜姫は、晃希の傍にいることで彼の助けになれる。
だが、清士は堕天使だ。晃希の血を引く潤の血であれば回復は可能だが――彼はそれを良しとはしない。潤は、清士の傍にいても助けになるどころか足を引っ張るしかできない。
けれど、使い魔さえ手に入れれば、こんな自分でも清士の役に立てるかもしれない。
そう思ったら、恐怖に竦む心が、期待に震える。
だから、潤は応える。
「……うん。頑張ってみる」
――俺よりあいつにばかり懐きやがって
晃希は言ったが……。潤にしてみれば当然のことだった。
晃希には、母が――竜姫が居た。
次代の巫女姫たる姉の瑠羽には稲穂も、久遠も居た。従兄の、
けれど、出来損ないの潤の心に添ってくれたのは、清士だけだったから。
だから、潤は彼から貰った分、彼に返したいといつも思っていた。けれど、自分にはそんな力はなくて。
だけど、それができる力を手に入れられるのなら。
(力が、欲しい……。清士のために、使える力が……)
こうして彼に抱えてもらうのではなく、共に翔べる力が欲しい。
「……念のため言っておくけれど、私は手伝わないわよ。私は、あくまであなたたちを監視するために居るんだから」
「分かっているとも。……とは言え、狼たちの相手をしながらそなたまで守るのは難しい。できるなら、そのグリフィンと共に空で待機していて欲しいのだが」
冷たく釘を刺したサラに、清士は怒ることもなく冷静に釘を刺し返した。
「……私を、誰だと思っているのよ。魔獣への対処くらい心得てるわ」
失礼千万、と不満げに返すサラに、清士は「なら、いい」と短く答えた。
空と、大地と。重くたれこめる雲が覆い尽くす陰気な空と、荒んだ大地。ただそれだけの景色が、徐々に徐々に闇にのまれ始めた。
――太陽のない魔界では、いまいち時間を計りにくいが、リズのぶどう畑を後にしてからもう随分飛んだように思う。
そろそろ、魔界にも夜がやって来る。
そんな時分になった頃、ようやく地平線の向こうに平らな地面以外のものが見えてきた。
「――見えた。あれが、狼の――黒の森だ」
一番にそう言うと、清士はスピードを一気に落とし、ゆっくりと地面へ降り立った。
「言うまでもないが、夜は魔物の時間だ。太陽のある人間界ほど顕著ではないが、やはり夜こそ魔物が一番活発になるのは変わらない。……流石にそんな中へ飛び込んでいくような真似は避けたいからな。今日はここらで一夜を明かして、明日の朝、勝負をかけよう」
「……夜は魔物の時間、確かにそうね。なのに……今自分でそう確認しておきながら、こんな荒野で野宿をするつもりなの?」
信じられない、と清士を正面から睨み上げた。
「勿論、結界は張る。少なくとも、視界の遮られてしまう森の中での野宿よりはここの方が安全だ。安心しろ、今晩は我が見張り番をする。魔物が近づいたら我が追い払う。お前たちは何も心配せず眠るといい」
だが、サラは納得がいかないとばかりに眉をひそめた。
潤も、清士の台詞に心配そうに彼を見上げる。
「でも、明日は狼と戦うんだよ? 清士こそ、休まなきゃ……」
しかし、清士はふんと腕を組んで胸を反らして笑う。
「我を誰だと思っている。我は、天使――もとい元天使だ。それも、グレゴリの一件より前からこの世界に存在しているベテランだ。天使は、人間とは身体の造りも違う。我が兄を追っていた頃など、数日寝ずに飛びまわることも珍しくなかったのだぞ。たった一日の徹夜などどうという事はない」
にやりと自信たっぷりに言う清士に、サラは不満そうな顔をしながらも黙り込んだ。
「潤、火を熾してくれ。我は、結界を張る」
清士は、二人に背を向け、五歩ほど歩いたところで背中の翼から羽を抜いた。
その場に屈み込み、羽を一枚、地面に埋め込む。
そこからまた五歩歩き、羽を一枚埋め込む。さらにまた五歩歩いて一枚、もう五歩歩いて一枚。
全部で四枚の羽を正方形になるよう埋め込み、呪文を唱える。
立ち上がった淡く光る透明で硬質な壁。
その瞬間、結界の内部の空気が浄化され、魔界とは思えない清浄な空気が満ちる。
潤は、荷物の中にマッチやライター、火を点ける新聞紙でも入っていないかと探すが、残念ながら食料は入っていても、火熾しに使えそうな道具は入っていなかった。
常ならば、薪もライターもない状態でも火を点ける方法はある。精霊の力を借り、魔法を使えばいい。あまり得意ではないが、それでも幼い頃から修行を続けている。
決して難しい事ではないが……。
精霊が居るのは、基本的には天界。次元の狭間や人間界にもそれなりに存在するが、……そういえば魔界に来てから精霊の気配を感じない。
精霊がいなければ、普段の方法で火をつけることはできない。
実はもうひとつ、潤にはそれが出来る方法がある。
これは、晃希の血を引き、自らの魔力を持っているからこそ出来る術。神崎の血を引いていても、魔物の血も、神の力も持たない従兄の竜希やその父の誠人には不可能な術。
自分の魔力を使って、火種を生む。“魔力”というエネルギーを素に術式を操り、炎を生み出す。
ルーンを描き、力を込める。
けれど、それは潤が特に苦手としている分野だ。成功する確率は三割を下回る。何しろ、魔力をしっかりコントロールしなければならないのだ。潤にとっては鬼門とも言える術。
地面にケンのルーンを描き、その上に恐る恐る手をかざす。
じっと、自分の中に流れる血の流れに意識を集中し、心臓から巡る力をゆっくりかざした手に集めていく。
だが、毒にもなりうる力は少しでも扱いを間違えればたちまち暴走し、集めた力が血管を破り、身体を痛めつけてしまう。
それこそ針に糸を通すような集中力を必要とするのだ。
じんわりと熱くなってくる手のひらに、小さく傷をつける。
ぽたり、ぽたりと血を数滴垂らし、強く願う。
――炎を。
吸血鬼の魔力は、血に宿る。晃希の血を引く潤の魔力も血に宿る。エネルギーの素をルーン文字という一番単純な術式に与え、発動させる。
上手くいけば、ルーンは青白い燐光を放ち、その威力を発揮するはず。
この“ケン”のルーンなら、炎が生まれるはず……なのだが。
ルーン文字はうっすら白く淡い光を一瞬放ったものの、すぐにシュンと力無く立ち消えてしまった。
――明らかに与えた魔力が少なすぎた結果だ。
「……何よ、あなた、こんな初歩的な魔術も使えないの?」
サラが呆れた顔をする。
「だから、言ったじゃないですか……落ちこぼれ巫女なんだって」
潤は、それを怒るでもなく諦めたように聞き流し、そう答えた。
もう一度、同じように魔力を手に集め、血を落とし、再び術を試す――が、やはり結果は変わらない。
「……自分の魔力を扱う類の術に関しては特に、からっきしなんです」
潤にとって、自分の魔力を扱うというのは、何の道具の助けもなく針に糸を通すようなもの。集中して、上手く行けば絶対に出来ない事ではないが、上手くいかない事も多くある。
「だから、落ちこぼれなんです」
「ああもう、見ててイライラする。貸しなさい、私がやるわ」
サラは潤の手を払い除け、召喚術の呪文を唱えた。サラの喚び出しを受けて現れたのは、炎の精霊だ。
「――炎を」
サラは、懐から小瓶を取り出し、中から白い小さな飴玉のような丸いものを取り出し、精霊に与えながら命じる。
精霊がふうと息を吹きかけるような仕草をすると、たちまちのうちに焚き火にちょうど良いサイズの炎が出現する。
「ありがとう、助かったわ」
精霊は、与えられたそれを大事そうに抱え、ふっと消えた。
あまりにあっさり点いた火。
潤はそれを一瞬悔しそうに眺めたあとで、すぐに無感動な無表情になる。
それを、サラはさらに不機嫌そうな顔になって睨みつけた。
そんな彼女の反応に、潤は慌てて口を開いた。
「あ、あの。す、すみません、お手を煩わせてしまって……。火を点けていただいて、ありがとうございます。助かりました」
あくまで監視のためについてきているのであり、手助けは一切しない――。そう言っていたサラの手を煩わせてしまった。
そのことで怒っているのだと思ったから、潤は謝罪と礼を口にした……の、だが。
「……私、あなたのことが嫌いだわ」
サラは、一層温度の下がった氷点下の視線を潤に突きつけ、冷たく突き放した。