旅立ち
「……サラ?」
その声に、清士が振り返る。
「姐様が何と言おうと、やっぱり私はあなた達を信用できないし、認めたくない。私の出した条件を満たさないまま欲しい物だけ手に入れて……姐様手製の貴重な品まで身につけるだなんて……そんなの、許せない。だから、私もあなたたちに付いていくわ。あなたたちを見張るために」
お前たちなど信用しない、と。
その口から吐き出された台詞以上にそれを突きつける瞳が、清士を睨んだ。
「姐様の腕輪を持つに相応しくないと、私が判断した時点で、私はそれを破壊する」
潤の命綱たるそれを壊すということは、潤の命を脅かす行為だ。
――そんな事はさせはしない。そう言い返すのは簡単だ。……けれど、彼女の言うとおり、彼女の出した課題を達成できなかったのは事実で、それなのに欲しいものを手にしてしまったのも確かだ。
自分たちはまだ、彼女に納得のいく答えを返せていない。
「……それは、構わないが。流石にこの広い魔界を移動するのにゆっくり道に沿って行くのでは時間がかかりすぎる。我らは、空を行く。付いて来れるのか?」
潤一人なら抱えていける。だが、長い旅路の間ずっと、大人と変わらない体格の少女二人を抱え、空を飛び続けるのは流石に厳しい。
「……なら、私のグリフィンを貸そう。存分に、見定めてくるといいさ」
ファティマーは肩を竦めながら言った。
「いい機会だ。サラ、お前もそろそろその呪縛から解放されるべきだ。一度、じっくり己の心と向き合ってみるといい」
ファティマーは立ち上がり、リズに声をかける。
「……その水晶玉は進呈しよう。積もる話が、あるのだろう? 申し訳ないが、私もドラク伯がいつやってくるかもしれない場所に無闇に長居はできない。店を空けとくわけにもいかないからね。……契約とあれば、話は別だが。まあ、その罪滅ぼしだと思ってくれ」
そして、そのまま戸口へ歩いていく。
「サラ、おいで。グリフィンとの仮契約を済ませてしまいなさい。……それを終えたら、私はお前の車で帰る。お前が戻るまで、うちで預かっておいてやろう」
さくさくと場を取り仕切り、次から次へと物事を取り決め、状況を動かしていく。
停滞していた場の空気が、流れ始める。
清士を追い越し、ファティマーはさっさと戸口から表へ出て行く。それを、慌ててサラが追い――。
それを見送る格好になった清士の隣に潤は立った。
彼の顔を見上げながら、問いかける。
「ねえ、清士。本当に、見つけられると思う? あの人の言うような、使い魔を……」
すると、清士は憮然とした顔でこちらを見下ろした。
「当たり前だ。我がついて行くんだからな。最高の使い魔を見つけてやる」
そう言って、彼は自信たっぷりに胸を張る。
「だから、お前は大船に乗ったつもりでいろ。……いいか、我が間違いなく最高の使い魔をお前のものにしてやる。だが、実際に契約を結ぶのは我ではなく、お前だ、潤」
そう、言い聞かせるように、清士は言う。
「使い魔にする魔物は、魔界の魔物。当たり前だが、弱肉強食の掟に骨の髄まで浸かりきっている。……それと契約を結ぶのに、何が一番大切か、言わなくても分かるな?」
――魔界に棲む魔物に、肉体的に勝る事は不可能。であるならば、潤は彼らに精神的に勝らなければならない。……それは、今の潤に一番欠けている事。
そこを克服しなければ、使い魔は得られない。
潤はそっと後ろを振り返る。水晶玉を見つめる少女の姿――。
潤とて年頃の少女だ。
どちらかといえば鈍いほうだという自覚はあるが、流石に彼女の様子にピンとこない程鈍くはない。
「……あの人、もしかしなくても、お父さんのこと好きだったのかな?」
いや、もしかしたら過去形ではなく、現在進行形で……?
娘として、少しもやもやと複雑な想いを心に抱きながら、その姿を見つめる。
清士は、その潤の様子に逡巡しながらも、誤魔化しても無駄だと考え、彼女から聞いた話を正直に潤に明かした。
「あの当時には、珍しくない事だっただろうな。――身分違いの、すれ違いの恋。……それでも、我が関与しなければ、あの2人には今とは違う未来が拓けていたかもしれない。その未来が、果たして彼らにとって幸福なものになったかどうかは、我には何とも言えない。それこそ、神のみぞ知る、というやつだな」
潤以上に複雑な眼差しをそちらへ向け、清士はため息混じりに言った。
「だが、現実は我があの2人を決定的に引き離し、その上で行きがかり上奴とお前の母親が出会うきっかけを作る事になり……今となっては奴は社にとって失えない存在になっている。運命とは、まったくもって分からんものだな。――運命が導く現実は、一方にとって益となっても、他方にとっては残酷なものとなりうる」
清士は、ぐしゃぐしゃと乱暴に潤の頭を撫でくり回し、苦く笑う。
「罪は罪として償うにしろ……、社として、奴を失う訳にはいかない。そこは、譲れない。だが……だからこそ、我は口出しすべきでないだろう。あれは、奴と、彼女の問題だ」
潤以上に複雑であろう清士にそう言われてしまっては、潤は頷くしかない。
「さあ、支度をしろ、潤。今は、少しでも時間を惜しむべき時だ。日の暮れないうちに行くぞ」
ファティマーに渡された荷物を少々強引に潤に押し付け、清士は小屋を出ていく。
彼女が私てきた荷物には、一揃いの衣服が別にされていた。
少し厚手の、丈夫そうな衣服。
――魔界を旅するのに、潤が着ていた服では不相応なのは間違いない。……清士に抱えられ、空を行く旅なら尚更だ。
城から逃げる間の、あの寒さがこれからずっと続くのだから。
それを鑑みて、彼女はこれを用意してくれたのだろう。
潤はありがたく着替えることにして、部屋の隅に移動する。
幸い、今小屋にいるのはリズだけだ。
潤が着替えなければならないと分かって、清士は表へ出て行ってくれたのだろう。
とても着心地の良い長袖シャツに、動きやすいズボン。
厚手で丈夫な生地で出来ているのに、とても軽く動きやすく仕立てられたロングコート。
そしてしっかりした革製のブーツ。
少し古風な、英国風の出で立ちだ。
脱いだ衣服を、荷物の中へと押し込み、荷物を背負う。軽い、ナップザック風の鞄だが、これもまた生地は丈夫そうな生地で仕立てられている。
全てが、過酷な場所を旅することを考慮したコーディネートになっている。
それでも、最低限のお洒落な装いになるのは、ファティマーのセンスの良さを窺わせる。
「……お父さん」
感極まったように水晶玉と向かい合ったまま黙り込むリズの後ろから、遠慮がちに声をかける。
「……じゃあ、私、行ってくるね」
父と、彼女の問題。――そう言った清士の言葉を理解はしても、やはり娘としては完全に黙りを決め込むことはできなくて。
せめて、自分の存在を主張するように、潤は水晶玉に自分の姿を映した。
「使い魔を探しに、行ってくる。……どんな結果になるか、分からないけど」
晃希は、潤に苦笑いを返した。
「安心しろ、お前がどんな奴を連れ帰ってこようと、俺たちは家族の一員として受け入れるよ。大丈夫、うちの連中は皆そういうのには慣れてるからな。だから、お前は自分の事だけ考えていれば、それでいい。お前の決めたことなら、俺たちは受け入れる」
彼はもどかしそうな顔で笑った。
「潤、お前は俺の娘で、神崎の血を引く娘だ。……だけどな、血に縛られる必要は、どこにもない。お前は、自分の心のままに生きていいんだ。お前が抱える荷物は、本当なら俺が背負わなければならないものなんだからな。だから、お前は自分を信じればいい。お前がどんな決断を下したとしても、俺は全て受け入れる。――気をつけて、行ってこいよ」
潤と、ほぼ同い年の様に見える外見。――吸血鬼に咬まれ、魔物になった時から、彼の肉体は一切歳を取っていない。
母と出会った時からずっと、この姿のまま。
だが、彼の浮かべる表情は、間違いなく娘を心配する父親のものだった。
娘に触れ、頭の一つも撫でてやりたいのに、それがかなわないのが、もどかしい。そう言いたげな笑顔に、潤はぷいっと顔を背けた。
「大丈夫だよ、清士が居るもの」
素直でない娘に、晃希は苦笑を深めた。
「全く、お前は昔っから俺よりあいつにばかり懐きやがって。……でも、まあそうだな。今回ばかりは奴に任せるしかない。だから、お前に一つ預けたいものがある」
彼は、不意に真剣な表情で娘を見つめる。
「今のあいつは、豊生神宮の狛犬。……けど、同時に俺の眷属でもある。狛犬としての枷と同時に、俺の眷属としての枷が嵌められている。あいつの様子を見るに、潤、あいつの狛犬の枷を外したな?」
潤は、晃希の問いに控えめに頷いた。
「う、うん……。何の用意もないまま魔界に連れてこられて、悪魔の城の牢屋に入れられて……。他に、どうしようもなかったから……、その……、――ごめんなさい」
謝る潤に、晃希は首を横へ降る。
「謝る必要はない。……咎めるなんて、誰もしないよ。何より、俺がお前にこれから預けようとしているのは、あいつのもうひとつの枷を外すための鍵なんだからな」
一息ついて、晃希は静かにその呪文を唱えた。
――人間では理解できない、悪魔の使う、特殊な魔術語だ。不思議な響きのそれは、不思議とすんなり潤の脳に刻まれた。
「そこは、魔界だ。いくら奴でも、力を抑制された状態では厳しい状況に陥る事も在りうるだろう。その時の状況をよく見て、お前はお前の判断で、必要だと思ったなら、迷わずその呪文を唱え、奴の封印を解け」
「でも……」
そうなれば、最早彼を縛るものは何もなくなる。彼を、社に繋ぐものは、なくなる。
「――言っただろう? お前の判断なら、俺は受け入れると。大丈夫、お前は自分を信じればいい」
晃希は、何かを確信しているような表情で、苦笑した。
「だから、行ってこい。ああ、一つだけ。……くれぐれも、無事で戻って来いよ」
ひらひらと、手を振りながら。
潤ももう、父親に縋るような歳ではない。
だから、ふいっと水晶玉の中の父に背を向けた。
「……行ってくる」
ただ、それだけ言い残して、小屋を出る。
「遅いぞ、いつまで待たせるんだ」
表では、既に我が物顔でグリフィンに跨るサラと、それを少し疲れた面持ちで眺める清士と、さらにそれらを牛車の御者代に座りながら愉快そうに眺めるファティマーが待っていた。
「さあ、行くぞ」
清士が、背中の白い翼を広げ、潤に腕を差し出してくる。
潤は、いつもの通り、彼の首に腕を回し、横抱きに抱え上げられるまま彼に身体を預ける。
パサりと軽い羽音と共に、ふわりと彼の足が地面を離れる。
同時に、背後でバサリと少し重い羽音が重なり、グリフィンが力強く羽ばたき、ぐんぐん高度を上げていく。
「さあ、行くぞ。潤、しっかりつかまっていろ」
清士は、負けじと翼をはためかせ、空高く舞い上がる。
たちまちのうちに、リズの小屋が小さくなり、遠ざかり――周囲の空気が、ぐっと温度を下げる。
だが、ファティマーが用意してくれた服の保温効果は素晴らしく、先日の様な寒さは感じない。
「清士、まずは何処へ行くの……?」
清士はふっと微笑み、答えた。
「――北だ」