潤の選択
どうするか――。
尋ねられた潤は息を飲んだ。
どうするもなにも、提示された二択では、潤に選べるのは一つだけ。魔物に堕ちる訳にはいかない以上、使い魔を得るという選択肢しかない。
潤は、仮にも神に仕える巫女なのだ。
確かに清士は堕天使だし、父も魔物である事は間違いない。――どころか稲穂や久遠だって元は立派な妖怪だった。
けれど今はそれぞれ立派な狛犬として、神として毎日務めを果たしている。
彼らは皆、“魔物”である事を厭い、社を守り、土地を守ることを誇りにしている。
潤も、あの社で生まれ育った矜持くらいは持ち合わせている。安易に魔に身を堕としてまで、力を制御したいとは到底思えなかったから。
――と、なれば自然と選ぶべきは決まってくる。
「でも、使い魔を探すって、具体的にどうすれば……?」
魔界といっても広い。そこに棲まう魔物たちも多種多様。使い魔にするのに全く向かない種族だって少なくない。
そもそも、いま自分たちが魔界のどの辺に居るのかさえ定かではないというのに。
「――そうだね。まずは地図を進呈しよう」
望んだ応えを得たファティマーはにっこり微笑んで丸めた羊皮紙を宙空から取り出し、卓の上に並べた。
「そちらの彼が欲しがっていた魔界の地図だよ。我らが今居るのはここ――、先程から話題に出ているシェムハザの領地、その城から少し離れたここだ」
そのうちの一枚の紐を解き、広げて見せ、その一点を杖で指し示した。
「そして、ここから北東にずっと行った先に、吸血鬼王の居城がある。さらにその東に進むと、魔王の城がある」
「……魔王の、城」
呟いた潤にファティマーが微笑む。
「もちろん知っておろう? 堕天使の王、ルシファーを」
魔界の頂点に立つ悪魔の、さらにその頂点に立つ存在。――魔界を統べる王。
「当然、吸血鬼王のお膝元は吸血鬼だらけだし、魔王のお膝元は悪魔ばかりだ。ちなみに吸血鬼王の城から西へ進むと竜が多く棲む山がある……が、あれはなかなかの難敵だ。味方につければ心強いが……、まあ、仮にも龍神に仕える社の巫女だ、そのへんは私よりもお前の方がよく分かっているだろう?」
「北へ行けば魔狼、南へ行けば小鬼や水棲馬みたいな魔性の妖精の多い高原がある。……が――」
地図を見下ろしながら清士が険しい面持ちでその詳細を眺める。
彼は、兄を追って魔界を行き来していた時期が長く、やはりそれなりの知識があるらしい。
「……言ったとおり、潤には時間がない。悠長にゆっくり品定めなどしている暇はない。……が、それだけの契約を結ぶ相手となれば、いい加減に選ぶわけにもいくまい?」
渋面を浮かべる清士に、水晶玉の向こうで晃希も似たような表情をしている。
「うむ。そこでもう一つ。これを贈ろう」
そう言って、ファティマーはもう一度杖を振った。
すると、小さく丸く削り出され磨き上げられた石が数珠繋ぎになった腕輪が現れ、彼女はそれを潤に差し出した。
「一時的に身の内の魔力を鎮め、魔界の毒を浄化する呪いを込めた、ファティマー様お手製の特製魔法具だ。これで月が欠けて再び満ちるくらいの間は保つ」
差し出されたアクセサリーを身につけた潤は驚きに目を見張った。
「……本当だ。魔界に居るのに、いつもよりも身体が楽だなんて」
嘘みたいだ。
隙を見せればその瞬間に抗おうと常に待ち構えている魔の気配をほとんど感じない。――こんな感覚は初めてだ。
普通の人間にとっては、これが当たり前の感覚なのだろうか?
「……言っておくが、あくまでそれは一時的なものだ。ついでに言えば、それだけの物を造るとなれば、いくら私でも簡単ではないからな。普段ならこのくらいは頂いているところだ」
ファティマーは両の手のひらを開いてこちらへ向けた。
「十……万円、とか……?」
「……なに、馬鹿なこと言ってるのよ」
だが、それを否定する声が、すぐ後ろから飛んできた。――酷く冷たい、強ばった声。
「その石一つがいくらするものだと思ってるのよ。天然石よ? それも、本当に力を持った希少な石。しかもそれひと粒ひと粒に呪いを施して、繋げて、さらにその腕輪自体にも術式を仕込んでる……。少なく見積もっても10億が妥当よ」
強い憤りを込めたサラの言葉に、潤は一気に青ざめた。腕輪をつけた腕が突然重たくなった気がする。
「じゅ、十おく……?」
潤には十万だって十分すぎる大金だというのに、十億などと、もう想像もつかない。
社をひっくり返しても、そんな大金は出てこない。
隣で清士も青ざめる。
「ま、待て……、そ、それは……分割払いにしてもらえるのか? その、何回払いまで可能だ?」
人間の寿命では、死ぬまでかかってもそんな大金は返せないだろうが……清士なら時間をかければ返せるかもしれない。
だが、ファティマーの方は人間なのであって……。
「心配するな。今回に限りは別口で既にいただいてる。遠慮なく使うといい。だが、“次”はもうない。だから、そいつの効果が失われる前に、使い魔を見つけろ」
ファティマーは、さらに杖を振り、旅支度一式を2組取り出し、それぞれ清士と潤とに放った。
「ついでだ。これもおまけでつけてやる。お代は地図代合わせて5千円、しっかり後で社に請求書を送るからな」
ぴしっと人差し指を突きつけながら立ち上がる。
「……さて、こちらの用事は済んだが――そなたはどうする?」
そして、表情を緩めてリズへ尋ねる。
ファティマーの問いに、水晶玉の向こうで晃希が不思議そうな顔をした。
「……? 清士と潤以外にも誰かそこに居るんですか?」
当然だろう。魔界に知り合いなど居ないはずなのだから、一体そこに居るのが誰なのか気になるのは……。
「うむ。我が弟子が一人と、あと、もう一人。……さあ、どうする?」
リズは、右手の拳を握り締め、胸を押さえて固まった。ぱくぱくと口を開け閉めするものの、声が出てこない。
必死な眼差しで、水晶玉とファティマーとを見比べる瞳が潤む。
どうするべきか。――彼女の頭の中の混乱が目に見えるようだ。
――が、彼女の体は理性より本心に従う事に決めたらしい。一歩、足が前に出る。そろそろと、ファティマーの隣へ移動し、恐る恐る水晶玉を正面から覗いた。
不思議そうな顔で首を傾げていた晃希が、そのままの格好でビシリと固まった。
辛うじて、喉からその名を搾り出す。
「……まさか……リズ、なのか……? 本当に……? でも、どうして……?」
――とうに亡くなったものと思っていた人物が目の前に現れたなら、それは当然驚くに決まっている。
だが、父の反応はただそれだけのものではないように、潤の目には映る。
ぽろぽろと、リズの目から涙が溢れ、次から次へと頬を滴り落ちていく。
「リズ……!?」
慌て始める父を見た、リズは顔を覆って泣き出した。
「ほ、ほんとに、ルー君……」
その様子に、晃希はさらにオロオロし始める。
それを眺めていた清士が、大きくため息をついて、彼女の背後に立った。
「先程申した通り、我らが今居るのはシェムハザの領地。……そのシェムハザに加担しているのはドラク伯、お前を吸血鬼にした張本人で……そして、この彼女は奴が血を得るために契約を交わし、この数百年間この地に縛り付けている“贄”だ。……我らは奴の城から逃れた後、難儀していたところを彼女に助けられた」
事情を簡単に説明しながら、清士は苦い顔をした。
「……我が兄が、あの時お前に取り憑いたのは偶然だったはずだが。そのお前がドラク伯に咬まれ吸血鬼となり、同じ村に住んでいたこの娘がドラク伯の下で生きていて……今、シェムハザと組んでお前を召喚しようとしている。……これを偶然と考えるには少々出来過ぎだろう」
晃希も、再び表情を険しくする。
「俺はずっと、貴女が亡くなったものと思っていました。あの日の火事で、何もかも燃えたのだと、そう……。……俺が、悪魔に取り憑かれさえしなければ。吸血鬼に咬まれるなんてドジを踏まなければ、サハリエルを追っていたそいつが村へやって来ることもなく、村が火に呑まれるなんて事にもならなかった……。だから、俺はずっと叶わないと知りながら、貴女に謝りたいと思っていました」
晃希は水晶玉の向こうで姿勢を正し、丁寧に頭を下げる。
「あの日、俺に悪魔が取り憑いたのは、他の誰でもない、俺のせいだから。……俺が心を弱らせていたから、サハリエルは俺を器に選んだ。俺のせいなんです。俺が、貴女に分不相応な想いなど抱いたから……」
その言葉に、リズはふと嗚咽を飲み込んだ。
「自分で勝手に憧れて、勝手に失恋して……。その挙句に悪魔に身体を乗っ取られて弱るなんて……。そのせいで、今も貴女が苦しんでいるとしたら……俺の責任です。俺が、責任をもって貴女を開放すると約束しますから……、どうか泣き止んでいただけませんか……?」
晃希は、清士の目の前でリズに頭を下げ、謝罪の言葉を述べた。
自分の非を素直に認めてさらけ出し、その上で頭を下げ謝罪をし、責任の取り方までしっかり伝える。
――晃希なら、どうするのか。清士の疑問の答えが目の前で展開されている。
リズは、嫌々をするように首を横へ振る。
「違う、あなたのせいじゃない。それは、私の――」
言いかけた彼女を押しのけ、清士は水晶玉の向こうの晃希を睨みつけた。
「悪いがな、晃希。それは、我の仕事だ」
「……清士?」
清士は、お得意の腕を組んで胸を張る偉そうなポーズでそう宣った。
「お前に悪魔が取り憑いたのは、我が兄を討ち損じたせいだ。……お前の村を滅ぼしたのも、我だ。事情を聞くに、我が村を焼いたりなどしなければ、この娘が吸血鬼に囚われる事はなかったはず。……この娘の境遇に責任があるのはお前ではなく、我だ。だから、彼女を開放するのもお前ではなく我だ」
「……お前、それはそんな風な態度で言う台詞じゃないだろう」
晃希は呆れたような半眼でこちらを睨み返しながら、怪訝な顔を向ける。
「……それにしても、どういう風の吹き回しだ。お前の口から責任なんて言葉が出てくるとはな……明日は槍でも降ってくるんじゃないか?」
わざとらしく空を仰ぐ仕草をしながら、晃希は清士を観察するようにじっと眺めた。
「ふん。……少しばかり、己を省みる機会に出会っただけの事だ」
決まり悪そうに視線を逸らし、清士は水晶玉に背を向けた。
「……行くぞ、潤。少しばかり時間に余裕が出来たが、油断して良い状況でもあるまい。さっさと用を済ませ、戻って来よう。……他にもまだ、やらねばならない仕事は残っているしな」
ファティマーから受け取った荷物を取り、歩き出す。
「……待ちなさい」
だが、その背に冷たい声が突き刺さった。
「――私も、行くわ」