警告
狭い小屋の中、たった二つきりの椅子があるだけの場所で、ファティマーは軽く杖を振るい、いとも容易く新たな椅子を宙空から取り出して見せた。
「さて。立ち話もなんだし、お座りよ。……そうだな、茶と茶菓子くらいは欲しいな。清士殿、見たところ中々良い腕を持っているようだ。済まないがこれで茶を淹れてくれないか?」
ファティマーは再び杖を振り、洒落た缶に入った茶葉を清士に渡す。
お茶の支度が整うまでのしばしの間、サラは険しい顔をしたまま俯いて床を睨みつけ、畑仕事から戻ったリズがそれをおろおろしながら触れるべきか触れざるべきか必死に悩み、ファティマーはそれを感情の見えない静かな瞳で眺める。
潤は、件の彼女を複雑な思いが心を占めるのを抑えながらちらちらと盗み見る。
ここではお湯ひとつ沸かすのもそれなりに手間がかかる。
潤は、切実に今、“あっという間にすぐに沸く”というのがキャッチフレーズの某湯沸かし器が欲しいと思った。
この、何とも言えない気まずい空気は、今の潤には重すぎる。
いかに手間がかかるとはいえ、湯を沸かして茶を淹れるのにかかる時間はそこまで長いものではない。
単に便利な現代技術に慣れた身には手間に思える、そのくらいの間でも息が続かない。
ようやく彼が卓上に人数分のポットとティーカップを並べ、潤の隣へ腰を下ろした時にはもう息も絶え絶えといった有様だった。
「――さて。それで? 簡単な事情は聞き及んでいるが……詳しい話を聞かせて貰おうじゃないか」
出された紅茶を優雅にポットからカップへ注ぎ、一口啜ったファティマーは、満足気な顔で目を細め、妖艶な笑みを浮かべて清士を見た。
「うむ。何よりまず、我が社に……晃希に、連絡を取りたい。気をつけるようにと、警告をせねんばならん。そしてできれば、潤を魔界から出したい。もちろん一番いいのは人間界へ――社へ帰すことだが、もしもそれが難しいようなら、せめて次元の狭間でも良い。それと、更に可能であれば吸血鬼の王に助力を仰ぎたい。その為に、渡りをつけて貰いたいのだが……」
まず、要件を先に告げた後、清士はこれまでの事情と、懸念される事項、そして自分たちの現状を説明する。
「……と、そういう訳で何の準備もないまま魔界の、それも何処とも知れぬ場所へ来てしまったのだ。潤の身体のこと、奴らの企みと晃希の件、――そして我の過去の罪。解決せねばならない事項は山積みであるのに、我一人の力ではどうともできぬことばかりで……難儀していたところだったのだ。頼む、力を貸してもらいたい。無論、無償での奉仕など願わぬ。……その、後払いになってしまうが、報酬は必ず支払おう。そなた一人に全てを委ねることも、もちろんない。……我が負わねばならぬ責は我が負う。だから、頼む。せめて、晃希への連絡と潤の身柄の安全だけでもなんとか取り計らって貰えぬだろうか……?」
清士は俯くように頭を下げたあとで、リズに顔を向ける。
「もちろん、そなたの事も中途半端にはせぬ。急ぎの要件が済み次第、気の済むまで付き合おう。……そなたもだ、サラ。済まない、後回しという形になってしまうが――」
ファティマーにしたより深く頭を下げる。
その様子を社の面々が見たならば目を見張って驚愕するであろう光景をとっくり眺めながら、ファティマーはふむ、と考え込む素振りを見せた。
「ふむ、どの依頼も受けるに吝かではないが……。思うにだ。この件、お前たち二人で解決するのが一番良いと、私は思うのだがな?」
ファティマーは、杖を振って水晶玉を取り出し、呪文を唱えてそれを杖でつついた。
――すると、水晶玉の中に見慣れた風景が映し出される。社のある山の上空を、その背の黒い翼を広げて飛びながら、しきりに下を見下ろし、何かを探す素振りをしている。
それを見たリズは、覇気のない声でポツリと呟く。
「本当に、ルー君……なの?」
顔かたちは確かに彼だが、髪や瞳の色、肌の色が、記憶にある彼の姿とは全く別物なのだ。
それを察し、清士が説明する。
「……吸血鬼に、咬まれたからな。あれの身体は吸血鬼になっている故、あのような色になっている。だが、間違いなくあれがかつてルードヴィヒと呼ばれていた男だ」
その傍らで、ファティマーが更にひとつ、ふたつと呪文を唱え、杖で水晶玉をつつく。
「……もし、晃希殿。今、よろしいか?」
静かな口調で、彼女は水晶玉に話しかけた。
一瞬ぴくりと驚く様子が、鮮明に水晶玉の中に映し出され、彼はハッとしたように中空を見回した。
「突然済まないな、……久方振りであるが、ゆっくり挨拶していられる状況ではないようなのだ。“探し物”の件について、急ぎ伝えねばならぬ事がある」
晃希は、すぐに水晶玉の中から真っ直ぐこちらへ向き直り、真剣な眼差しでファティマーを見上げた。
「……もしや、娘の居場所をご存知で?」
彼の声を聞き、リズが今にも泣きそうな顔をする。
「……ルー君の、声――」
いくら面影があるとはいえ、色味の変わってしまった彼から受ける印象はかつてと違和感があり、納得しきれぬものがあったのだろう。
しかし、変わらぬその声を聞き、ようやく実感したらしい。――彼が、間違いなく彼自身なのだと。
ファティマーは、それを横目に眺めながら、淡々と事実だけを伝える。
「ああ、ご存知どころか今隣に居るぞ。相棒殿も一緒にな。……私は今、魔界に居る。――魔界の、シェムハザの領地。どうやら2人は彼らが仕掛けた罠に誤ってかかってしまったようだ」
シェムハザ。その名が出た途端、晃希の顔が強ばった。彼自身は全く面識がないが、彼と魂を同化させたサハリエルの記憶の中にその名ははっきりと刻まれている。
「シェムハザの、罠……? 誤ってかかった、とは一体どういう事です? それに“彼ら”という事は、他にも誰かが関わっていると? それに魔界とは……、潤は? 潤は無事なのですか? 彼女の身体に、何か異変などは……!」
矢継ぎ早に、彼は尋ねた。今にも水晶玉を突き破って身を乗り出さんばかりに必死の面持ちだ。
「そうだな、百聞は一見に如かず。私がここで説明するより直に見たほうが早かろうの」
言いながら、ファティマーは潤の腕を引っ張り、自らの隣に立たせた。
潤には水晶玉が一体どこからどこまでを写し、あちらに見せているのか分からない。
分からないままに、水晶玉の中の父――少年のようにしか見えない彼にぎこちない笑みを向けた。
「あの、……ごめんなさい、心配かけて」
すると、晃希はまだわずかに不安と緊張を残しながらも明らかにホッとした顔で一息ついた。
「……全くだ。顔色があまり良くなさそうだが大丈夫なのか?」
少年にしか見えない容貌が、はっきりと父親の顔になる。
「うん。……うん、大丈夫。清士が居るから。平気じゃないけど……でも、大丈夫」
それは、丸っきり嘘とは言えない。清士が居れば大丈夫、その気持ちは本当だから。――けれども、その一方で、本当は今すぐ彼に迎えに来て欲しいと、……ここから連れ出して欲しいとそう思う気持ちもある。
だが、それを言えない事情がある今、潤は自分に言い聞かせるようにそう言った。
その背後に、清士が立つ。
「……だが、時間の問題だ。なるべく早く、そちらへ帰すつもりでいるが……、少々厄介な事になっている」
なんの前置きもなく、彼は水晶玉の中の晃希に厳しい眼差しを向けた。
「……だろうな、――シェムハザなんて名前が出たとなれば」
普段、顔を合わせれば一言二言三言くらいはくだらない言い合いをするのが常の彼らだが、流石にそんな場合でないのは互いに分かっているのだろう。
晃希も即座に真剣な眼差しを返してくる。
「……心して聞け、晃希。今回、罠を仕掛ける命令を出したのはシェムハザ、……我が兄の元上官だったあやつだ。罠の目的はお前の身柄。……だが、お前を捉える罠を実際に仕掛けたのは奴ではない。奴の協力者の正体は、お前を吸血鬼にしたあの純血種。――その名は、ドラク伯」
晃希は、それを聞いて驚愕に目を見開き、言葉を失った。
「ド、ドラク……伯、だと? あの……?」
かろうじて溢れてきた言葉は、普段の彼からは考えられないほど力なく、震えていた。
その名も、やはり彼自身のものではない記憶の中に記されたものながら、確かに識った名だ。
「何を考えているのか。――奴らの真の目的は我も知らん。だが、一先ずの奴らの狙いがお前の身柄であることは、我自身の耳で、奴らから直接聞いたから間違いない。奴らは、間違いなくもう一度、お前を捕らえるための罠を張るだろう」
清士は、言葉をオブラートに包むことなく簡潔な警告を放つ。
「ドラク伯の実力は、我も正確な情報を持たぬ。だが、これだけは確実に言える。――シェムハザは、サハリエルより確実に強いぞ。何しろ奴は、我が兄の上官だったのだからな」
天界に於いて、人間界のように実力以外の理由での出世は有り得ない。賄賂を積んだからといって、堕とされる事はあっても、位が上がることは有り得ないのだ。
そして、シェムハザは確かに、サハリエルより高い位を戴いていた。
「こちらのことは、我がどうにかする。……いいか、お前は間違っても魔界へ来るんじゃないぞ」
言いながら、清士は水晶玉の中の晃希を睨む。
「……お前が? ……どうするつもりだ。サハリエルより強い奴を相手だと、たった今お前が言ったんだぞ」
少し青ざめた顔で、晃希が負けじと睨み返す。
「ふん、お前に言われなくとも考えている。吸血鬼王に援軍を求め、奴らを叩く。他にもいくつかこちらで片付けねばならん用事が出来たのでな。しばらくそちらへは帰れない。だから、先に潤だけ帰す。――お前は、そこでお前の世界を守れ」




