複雑な思い
――正直な感想として。
社の狛犬として言いつけられる仕事の数々をこなす事は、清士にとっては面倒で厄介で退屈な仕事だった。
日々、広大な世界を飛び回って宿敵であった兄を探しながら魔物と戦う殺伐とした、あの頃。強力な封印を施された“彼”を監視する為、山奥の学園で日々平穏極まりない日々を送っていたあの頃。ひたすら独りで居たあの頃は、ひたすらに自由だった。
兄を討伐せよ、“彼”の封印を守れと、基盤の命令を除けば、その他全ては自らの判断で、一日の過ごし方から何から好きにできた。
だが、あの社の狛犬になって以降、毎日毎日暇を持て余す余裕など一切なくなった。
狛犬として、一番大事な仕事は社にちょっかいをかけようとする悪霊悪鬼や魑魅魍魎の退治なのだが、これがかつて相手にしていた魔物に比べ全く手応えのない相手ばかり、それも大した数が居る訳でもなく、清士にしてみれば眠りながらでも片手で祓えてしまう有象無象ばかり。退屈な事、この上ない。
狛犬として、二番目に大事な仕事は主――神の世話、なのだが。一般的な神と比べ破天荒な豊生神宮の御神体様方から命じられる仕事の大半は、雑用の手伝いばかり。
行事や神事の支度の手伝いなどはまだ良い。社や境内の掃除も、まあ、分かる。
だが、彼らにとっては嗜好品にすぎない食事の支度のため、野菜を刻まされたり、魚を捌かされたり、肉を焼いたり、煮物を作らされたりするのはどうかと思う。
しかも茶を淹れろ、の命令は最悪だ。茶葉を急須にぶち込んで、湯を注げばいい日本の緑茶であるなら、まだ良い。
だが、厄介なのが紅茶だ。そもそも淹れ方が面倒くさい。ティーパックでいいじゃないか、と思うのに、某王子様の入れ知恵にて、美味しい紅茶というのに目覚めてしまった女性陣は、頑なにティーポットで淹れる茶に拘る。これが、茶葉によって蒸らし時間やら何やら色々違って実に面倒くさいことこの上ない。
――ずっと、そう思っていたのだが。
今日、初めて清士は一から丁寧に紅茶の淹れ方を親切に教えてくれた人物に心から感謝した。
紅茶の淹れ方の完璧なマニュアルが完全に頭と身体に叩き込まれている。清士は、ほんの数十年前なら絶対に考えられなかった程慣れた手つきで手早くお茶の支度を済ませ、サラとリズの待つテーブルへ運んだ。
すると、サラの眉がぴくりと不満そうにしかめられた。
「……ふぅん。思ったよりまともじゃない」
彼女は悔しそうに言った。……どうやら目一杯駄目出ししてやろうと待ち構えていたらしいのが、当てが外れたらしい。
清士は、もう一度彼――当時はまだ王子であった現吸血鬼王に深い感謝を捧げ、次の仕事にかかる。
先程自らが破壊した壁の内側をぼろ布で塞ぐ。すると、すかさず背後から刺々しい言葉が飛んできた。
「……まさかあなた、それで修繕終わり、とか言わないわよね?」
清士はため息をつきたいのを堪えながら笑顔を浮かべる。
「ほう、そなたは木屑の埃の舞う中で茶を楽しむ趣味があるのか。それは済まなかったな、我としては気を利かせたつもりであったのだが」
笑顔のまま、さらりと皮肉を投げつける。
「まあ、もし不要であるなら好きにすれば良い。我は表の作業をしてこよう」
不機嫌そうな表情をしたままのサラを置いて、清士はそそくさとその場を退散する。
――もしもつい数十年ばかり前の自分を知る者が見ていたら、おそらく驚愕していたに違いない。かつての自分であれば、即座に神剣抜刀し、問答無用相手に斬りかかっていた場面であっただろう。
だが、ここ数年の生活の中、晃希や久遠らとの言い合いや、瑠羽や潤といった子どもの相手をし、地元の人間らと関わりあう中で、剣に頼らずともそららをいなす方法の数々を習得してきた成果が今、大いに役に立っていた。
清士は複雑な面持ちになりながらもまずは数ある工具の中からのこぎりを手に取った。
剣でぶち破った、歪な形の穴を、まずはきちんと整えるべく、ささくれだった木片に刃を当て、穴を長方形に整えていく。
幸い、壁材に使われている木材は比較的柔らかく、刃を引くのに苦はないが、古いせいもあって、埃が酷い。やはり、事前に布地でカバーしたのは正解だった。
もし怠っていれば、今頃先程のものとは比べ物にならない叱責が、この向こうから飛んできていただろう。
整った長方形のサイズに合わせ、新たな木材を切りそろえ、しっかと組み合わせていく。
――釘を使わず、木材を組み合わせる。……この技術もまた、狛犬として雑用を手伝わされながら、地元の宮大工に教わったものだ。天使であった頃は、大工仕事など一切した事などなかった。特に必要を感じることもなかったし、汗水垂らして労働するなど、天使のするべき事ではないと、固く信じていたから。
だが、一度習得してしまえばこれが中々便利な代物なのだ。ふと欲しいと思いついたものを、自らの手で造りだせる。子どもたちに玩具など作って与えれば思った以上に喜ばれた。……気づけば、いつの間にか自ら知識と技術を求め、それなりの腕を得ていた。
最後に修繕の跡を目立たなくするため塗装を施せば、完璧――。散らかした道具と木材を片し、工作作業で出た大量の埃を滅するべく、清士は工具を掃除用具に持ち替え、再び屋内へと戻った――の、だが、見ればまだサラたちは茶を嗜んでいる最中であるらしい。
お茶の最中に掃除などして埃を立てれば当然、サラの不機嫌な声が飛んでくる事は想像に難くない。清士は先に魔牛の餌遣りをしてしまうことに決め、掃除用具を部屋の片隅にまとめて置き、再び表へ出た。
その様子をじっと眺めていたサラは、不機嫌そうな顔を怪訝な顔へと微妙に変化させながら、頬杖を付いた。向かいに座るリズは、まだ青白い顔色のまま、無言でカップを傾けている。ただ、目だけがちらちらと、寝台に眠る少女へと幾度も向けられる。
――無理もない。とっくに死んだと思っていたかつての想い人が生きていた、という事実だけでも動揺を誘うには十分すぎるというのに。
その想い人は、吸血鬼と契約を結んでしまっただけのリズとは違い、完全に魔物と成り果てたというのだ。
しかも、誰とも知れない女との間に娘が2人も居て、そのうちの片方が目の前に居るのだから、それは複雑な気分にもなろうというものだ。
そして、それを守る騎士気取りの堕天使は、リズをこの呪われた運命の入口へ導いた、いわば仇敵とも言うべき存在で。
しかもその堕天使は、リズを縛る呪いの因縁と浅からぬ縁のある存在であるらしい。
サラは、苦々しい面持ちで、紅茶を口に含む。――これもまた、サラの不機嫌の元だ。正直、自分で淹れたものより美味しいと思っている事実を認めたくなくて、せっかくの美味しいお茶を、しかめっ面でちびちびと嗜みながら、違和感なく綺麗に修繕が施された壁を睨みつけた。
粗探しをしようにも一切粗が見当たらないそれに、サラはつい舌打ちをしそうになり、慌てて紅茶に口をつけ誤魔化した。
男のくせに、そして悪魔のくせに、妙に小器用で、そのうえ妙な特技を色々持っているらしい。
先程から一生懸命耳を澄ませているのに、なかなか期待した音が聞こえてこない。
フゥと名づけたあの魔牛、もちろん人を襲わぬようしっかりしつけてはあるが、基本的にはサラにしか懐かない、気性の荒い彼女に、慣れない者が近づけば――足を踏まれるとか、角で引っ掛けられるとか、体当たりを食らうとか……そんな事故は十分起こりうる。
あの男の情けない悲鳴を今か今かと待ち望んでいるのだが……待てども待てども一向にそんなものは聞こえてこない。
イライラしだした頃、彼は何事もなかったように普通に戻ってきたかと思えば、こちらを一瞥すると呆れたようにため息を吐いたかと思えば――
「……まだ、終わらないのか。――女の雑談のきりのなさは嫌というほど良く知っているが。……掃除を言いつけた以上、そろそろきりをつけては貰えぬか? 食事の支度を先にしてしまえば、それまで埃をかぶってしまうだろう」
などと説教じみた事を言う。
ムッとしながらもお茶の片付けを命じ、リズを連れて小屋の外へ退避し、そっと中を覗き見る。
彼は、やはり手馴れた様子でさっさと食器を片付けてしまうと、早速掃除に取り掛かる。
さっさとはたきがけを済ませ、テーブルや椅子を拭き上げ、床を掃く手際は、どう見ても日々掃除に慣れている者の手つきだ。
上級悪魔であれば、そんなものは使い魔にでもやらせればいい仕事であり、下級悪魔でも魔法を使えば一瞬ですむというのに、一体何故?
彼は、自らを堕天使と認めつつも、狛犬であると言った。
天界、人間界、魔界と渡り歩くサラだが、欧州系の地方を回る事が多く、東洋の文化にはあまり明るくない。一応、基本知識として、狛犬という単語の定義は知っている。己の仕える神を守り、その世話をするもの――。だが、基本的には文字通り犬である事が殆どであり、希に蛇や兎、狐であったりする場合もあるが――。
「元天使、って、要は悪魔なのに。悪魔が神に仕える、ですって? ――かの偉大なソロモン王ならともかく、そんなことが本当にありえるの……?」
サラは、無意識のうちに腰のレイピアの柄に手を添えながら、呟いた。
かの島国が、いわゆる唯一神信仰ではなく、多神教の国である事は知っている。そして多神教を進行する場合、唯一神信仰では悪魔とされるような悪神も、彼らは“神”と称ぶことも知っている。
だが、悪魔が神に仕え、魔物の血を引く娘が巫女だなどと、そんなことがありえるのか――。
「……そんなもの、私は認めない」
剣の柄を強く握り締めながら、サラは小さく呟いた。
「リズは、私が守ってあげなきゃいけないんだから……」