そのに。
「今日は菓子を焼いてきたんだ」
今日も今日とて、我が物顔でロイの家にやってきた男装王女は、実に優美な所作で紙袋を差し出した。
彼女がしている男装は、相変わらず、女性であることも、天上の美貌も隠せていない。
質素な傭兵の家に、国宝級の宝玉が置かれているかのような違和感がある。
そんな王女が渡してきたのは、普段ロイが目にすることのない、上質の紙で出来た袋だった。中身は手作り菓子だという。
……不安になる要素が満載だ。いろんな意味で。
この破天荒な王女が菓子なんて作れるのか。それを一介の傭兵が食べていいのか。いや、そもそも食べられるものなのか。
思考がぐるぐると巡る。
何とか遠慮する理由を捻り出そうと、王女をそろりと窺ったロイは──すぐに、彼女を見なければ良かったと後悔した。
美しいレスティリア王女は、子供のようにわくわくした顔でこちらをじっと見つめていた。黒曜石のような瞳は、ロイが菓子を食べる様子を一片も見逃すまい、とキラキラ輝いている。
これは断れない。
後で食べるとも言いにくい。
「……ありがとうございます、殿下」
ロイは決死の覚悟を決めた。戦場でもここまで追い詰められたことはない。
確か、棚の奥に腹を壊した時に飲む薬があったはず。そう思いながら、袋に手を入れて菓子を一つ取り出した。
そして──彼は、王女にバレないように軽く目を見張った。
…………案外、普通だ。
少なくとも見た目は。
いや、それより、何故王女である彼女がこの菓子を知ってるのかが不思議だった。
こんがりと焼き色がついた菓子は、この国の庶民が好んで食べる、蜂蜜入りの素朴な焼き菓子である。
ロイも、子供の頃はよく食べていた。大人になってからは、久しく口にしていないが。
王女という生き物は、マカロンとかガトーショコラとか、自分なんかにはよくわからない、上品な菓子を食べているものではないのだろうか。
なぜこのチョイスなのか。庶民の自分に気を遣ったんだろうか。
謎が深まる。
だが、考えてばかりもいられない。
正面からじーっと見つめる美女の圧と、菓子から漂う甘い匂いに負けて、ロイは思いきって一口齧ってみた。
「────とても、美味しいです」
それは、お世辞ではなく本音だった。クッキーのような食感だが、口の中でホロホロと崩れる。蜂蜜の甘さも丁度よい。
カリカリした香ばしい粒は、小さく刻んだ胡桃だろうか。
「気に入って貰えて良かった」
武骨な男による、全く捻りのない感想だったが、王女はほっとすると同時に、花が綻ぶような華やかな笑みを浮かべた。
ロイは思わず、咀嚼しながら目を瞑った。
これ以上彼女の笑顔を見たら、絶対に後戻りできなくなる。そんな予感がしたからだ。
だが、既に手遅れかもしれない……
ひしひしと撤退戦に失敗した予感があった。
「……これは、母上から作り方を教わった菓子なんだ」
雑念を追い払うように、瞑想しながら黙々と菓子を齧っていたロイは、それを聞いて思わず目を見開いた。
その反応に、「あなたは良くも悪くも、本当に私に興味がないのだな」と王女は苦笑いした。
「私の祖父は、男爵とは名ばかりの下級貴族。祖母は平民だ。祖父は領内一美人だった祖母と、大恋愛の末に結婚し、その美貌を受け継いだ母を陛下が見初めて側妃にしたんだ。つまり私の血の半分は、ほぼ平民といってよいだろう」
「……左様でしたか」
ロイは王女個人に、興味がないわけではない。だが、王族の事情には詳しくはない。
今の話を聞いて、この風変わりな王女が王宮で辛い思いをしなかっただろうか……と気になった。王侯貴族とは、強烈なまでの身分社会だ。
眉をひそめると、王女はこちらの心配を察して首を振った。
「母上も私も、陛下の他の妃や腹違いの兄弟に虐められたりはしなかったよ。だが、田舎育ちの母上は、王宮の暮らしが合わなくてね。
母娘で田舎の離宮に引っ込んで、私もそこでのびのび育ったんだ。その菓子の作り方も、離宮にいた頃、母上に教えてもらった」
なるほど、と胸の内で呟く。そういえば彼女は離宮育ちだと言っていた。いまの話を聞けば、ロイの疑問のほとんどは腑に落ちる。
のびのび育った……というには、若干フリーダムすぎると思うが。
しかし余計な口を挟まず、ロイは彼女の凛とした声で語られる身の上話に、静かに耳を傾けた。
──王女によれば、母であった側妃は六年前に儚くなったという。彼女はそれを機に再び王都に戻った。
父王はどこぞの貴族にでも降嫁させるつもりだったようだが、血筋などの理由でなかなか相手が決まらず、その時、丁度隣国から縁談の打診を受けたらしい。
「結果はあなたも知っての通りだ。私が刺客に襲われ、ご破算となった」
肩をすくめる王女は、破談に何の未練もないように見えた。実にさっぱりした表情だ。
「まあ、猫を被るにも限界があるし、隣国との政略結婚がなくなってほっとしている、というのが本音かな」
「…………」
「で、ロイ。あなたのことだが」
ロイを見て、王女はニコッと笑った。
「あなたが貴族の養子に入りたくないのなら、いっそ私が事故死したことにして、平民として生きるのもやぶさかではない。あなたと結婚できるならどんな手段を用いてでも……」
「いや、ちょっと待ってください!」
つい話を遮ってしまった。
確かに彼女は平民適性が高そうではあるが、それとこれとは別である。
「……少し、考えさせてください」
「わかった。話が前進したと受け止めよう。ぜひ前向きに考えてくれ」
……本当にポジティブだな、と呆れる。
だが、子供のように目をキラキラさせて、ぐいぐい迫る王女を跳ねのけるのはもう難しかった。
「名残惜しいが、そろそろ城に帰るとしよう」
席を立った王女を玄関先まで見送る。「また来る」と微笑する美女に、ロイは珍しく自分から声をかけた。
「……亡き側妃殿下の思い出の菓子を、手ずから作ってくださってありがとうございました。とてもうまかった……です」
「いや、こちらこそ食べてくれてありがとう」
嬉しそうに破顔した王女は、転送の魔法を詠唱し、光に包まれてふっと消えた。
去り際の笑顔が瞼の裏にちらついて、ロイは暫く玄関先に立ち尽くしていた。
王女がかなり距離を詰めてます。
そろそろチッェクメイトかな、という頃のお話でした。