名が売れて 我が世の春と 知るカルマ
人の業とは恐ろしいものだ。
創作物に対し、感想は自由だが、それをもって作者を非難することは許されない。作品というのは、何らかのメッセージ性がある。それを理解するには、時代背景や作者の状況なくしては語れない。
ピカソのゲルニカは、あの時代だからこそ、高い芸術性が評価された。比較的平和な今の時代に描かれたら、時代錯誤と言われ評価は低かっただろう。
もし、全てが普遍的な数値で判断されるとしたら、オリンピックは不毛なものになる。人間より速い生物は多い。ましてマラソンともなれば、車や飛行機でいいだろう。だから誰が行っているかが重要なのだ。障害者なのか、子供なのか、老人なのか。ジャマイカ選手のボブスレーや、海のない地域の水泳選手など、成績は残らなくても、環境によって人として高く評価される。
優れた表現者というのは、マイナーな存在だ。だから、世間の気付かないことを気付かせられる。ラッパーだって同じ。日本のラップをアメリカでやってもただの言葉の羅列にしかならない。文化の違いが解ってこそ言葉は評価ができる。
「ピンクはきらいだ。」
「青ならよかった。」
感想は自由だ。しかし、それだけで作者を非難することはできない。技術は時代とともに進歩する。昔の稚拙な作品の芸術性が劣っているかと言えば、そうは限らない。美的には劣っててもメッセージ性は高いものもある。食べ物だってそうだ。戦時下の大根飯と今のステーキ。どちらが価値が高いかなど一概に言えない。
作品の技術的な内容については簡単に論評できるだろう。しかし、作品自体が劣っているかは見た目では判断できない。ましてや、作者の人間性を判断することなどおこがましい。




