日本国 物差一つで 民評価
日本の異常さは、「社会的物差」と「個人的物差」が同一であることだ。これは、現代でも続いている。
一つには「個人的評価」基準がない。近代以前から、個人評価は地域社会での評価の上に行われていた。これは、どの共同社会地域でもありうることだ。ただし、そこで低評価を受けても、別の地域社会では別の評価を受けることができた。
しかし、近代以降、国という大きい単位の中で、個人を評価するために、国が定めた評価基準だけを地域社会にまで押し付けた。
バンクシーは社会的には犯罪者だが、多くの人の個人評価は芸術家である。しかし、日本は犯罪者は、個人評価も犯罪者。関わった作品は、世間から隠される。
西洋が法は個人を評価する指標ではないという認識に対し、日本は法だけが個人を評価する最大の指標と成っている。
法を理解している人間には住みやすいが、理解していないに人間には住みずらい社会だ。
それをよく知っている議員たちは、いくつもの尺度を使い分ける。しかし、民には一つの尺度しか与えない。上級民ほど尺度をいくつも持っている。そろそろ誰かの尺度を使うのではなく、自分で尺度を決める必要があるだろう。




