いい子ぶる 必死の夏の 何流コメント
審判や選手の態度に腹を立てる有名人をみていると、大衆に取り入ろうととにかく必死なその姿を哀れに思う。
サッカーなどでラフプレーは当たり前。それを回避できて一流と呼ばれる。どのスポーツでも国際化すれば反則ネライや警告ネライの選手は出てくる。かれらの価値観は、品行方正よりも、勝利が有先する。
品行方正であるべきだという個人の価値観が本当に世界の標準かというと疑わしい。ルール内なら、あるいは見つからなければ、何をしてもいいという選手をどの程度非難できるだろうか。
そもそも、正々堂々と戦って負けたら、容赦なく叩く。大衆とは残酷なものである。メディアの正義は、大衆にある。どんなにきれいごとを言っても、視聴者が離れたら、経営としては失敗だ。
スポーツ以外でも、例えば政治も、忘れ去られまいと必死な人もいる。過激な言動や、メディア叩き。自分の主張が放送されない、あるいは都合の悪い質問がをされると不満を漏らす。そもそも落選した候補者の政策を後生大事に拝聴しようなどという人間がどの程度選挙速報をみるだろう。選挙速報など報道番組は候補者の政策を述べる場ではない。せいぜい当選者の政策には耳を傾けるだろうが。
どうような意見があるかの紹介ならともかく、特定の意見に迎合するような報道はどうだろう。それを望む出演者も。コメンテータは、個人の意見もいえば、大衆の中にあるさまざまな意見を意に反しても代弁することもある。誤解させる表現にも問題があるが、個人を隠して、大衆の側であるかのようにふるまうことは、仕事として正しい姿なのだろうか。
己が、ラフプレーをしながら、相手に品性を求めていないか、考えたほうがいいだろう。
多くの勝負事は、相手のミスを利用するものだ。「柔よく剛を制す」というが、相手の裏をかいて崩すことで成り立つ。勝負というのは、罠をいかにかくぐるかということだ。真っ正直に戦っている選手などというものが、はたして世界の頂点に立てるものだろうか。
 




