月夜のジム 使わぬ能力 なぜ欲す
最近は、体幹や筋肉を鍛える健康志向番組なども多い。
「普段使ってない筋肉をきたえよう。」
などというが、その健康基準はどこからきているのだろうか?
人間に限らず、生物は環境に順応しながら進化するものだ。筋肉は能力である。かつては使っていたが、使わなくなった能力を手に入れて何をしようというのだろう。
健康に必要な筋肉だというが、使ってないのに健康も何もないだろう。確かに老化による特定部位の筋肉の急速な衰えということならアンチエイジングの意味はあるだろう。しかし、問題はそこだろうか?
生活に必要な筋肉は、日々の生活で最低限維持されている。生活スタイルを変えるなら別だが、生活を変えないなら、不要だろう。
むしろ問題は、日々車にのって移動しているのに、休日は山に登りたいという非日常的な行動のためだったり、誰かへのアピールだったりするのではないか。
健康長寿の人というのは、同じ生活をいつも送り、それ以外のことは極力しない。毎日店先で働く店主は、旅行なんかいかない。田舎は自然が多いからというが、それは不便だからと同じである。不便だから、非日常的なことは極力行なわない。
野生の動物たちは、日常を淡々と繰り返すだけだ。人間も長寿でいたければ、日常を繰り返していればいい。体が順応する。
車にのり、ジムに通う。なんと理不尽なことだと思う。スポーツ選手はスポーツをすることが日常であるが、万一に備え大怪我をしないために、滅多に使わない筋肉を鍛えている。かれらは、非日常に備えて鍛え続ける必要があるのだ。
さまざまな業界の広告にまどわされて、非日常のための能力を手にいようとすれば、まあ体に無理が生じるのもやむを得まい。
長寿を望むなら非日常体験を諦める。非日常体験を望むなら長寿は諦めよう。




