結果にコミット 多民族社会
打ったボールが、ボールチャイルドに当たった。
多民族の社会では、この客観的事実が重要であって、どのような意図があったかは重要視されない。日本の国内法の多くは加害者の意図によって罪が決まる。例外は、車の運転ぐらいだった。しかし、それも危険運転というあいまいな言葉によって、変わろうとしている。
少数の民族で構成された国内法であれば、価値観も均一であると見なせるだろう。しかし、価値観の異なる多民族社会では、殺意というだけでも定義は困難である。だから、意図に関わらず結果に対して罰が定められなくては不公平になる。
当てるつもりは無かった。
これで通れば、野球のデッドボールは成立しいない。ボールが当たったか、当たりにいったか。この客観的行動だけで判定される。
一方スポーツマンシップは逆で、結果ではなく、意図に対するものである。だから、スポーツマンシップに反するという抗議は大いにありうるが、意図がなかったから結果がおかしいというのは、国際的ではない。
プーチンもまたしかりである。かれの意図は裁けるものではない。しかし彼の行動は裁くことができる。それは核を使ったとしても同じである。




