誰が為に ナイチンゲールよ カナリアよ
皇帝のために鳴いたナイチンゲール。炭鉱夫に安全を知らせるために鳴いたカナリア。日本なら、ホトトギスだろうか。そして、ウクライナ戦争の中、クリミアの地でナイチンゲールの意思を受けついだ医療従事者たちは、誰のために涙するのか。わがままな、一部の人間のために、犠牲を払う者がいる。それは、時には財産、時には命をも奪い去る。それを栄光と信じて疑わぬ者もいる。
ナイチンゲールやカナリアにとって最も大切なものは自由だろう。しかし、自由を奪われ、機械のような生き方を求められる。それは、戦場の兵士も同じだ。自由経済は否定できても、自由意志を否定することは、誰も好まない。
ウクライナの強さは、個人の自由な意思によるものだ。今のロシアには自由意志はない。それは、選びようの無い選択肢を突きつけられ、あたかも自らの意思で選んだように思い込まされている「見せ掛けの自由」だ。社会主義的国家の問題は、情報統制による怖さがある。が、自由主義的国家では、フェイクも含め、情報過多による疲弊が起きている。統制も自由もダメとなれば、人々は何を求めるのだろう。
今、日本では多くの若者が自身が信頼するカリスマが発する情報だけを信じる傾向にある。それは宗教に似て、判断する自由ではなく、信じる自由を求めているようだ。それは最も楽な選択肢かもしれないが、最も危険な道であると言えよう。




