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セシアは森の中で一人闘志を燃やしていたが、彼女は失念していた。
何故ジュリエットが、セシアに内通者の正体をバラしてまであんな騒ぎを起こしたのか。
アニタが内通者である以上、セシアがただのメイドではなくマーカスが指揮する経理監査部二課の執行官だということは知られていた筈だ。だとしたら、セシアがメイドに扮しジュリエットに仕えているのは監視の為だともバレていたのだろう。
結果、元からセシアを嫌っていたジュリエットが、邪魔な監視役を排除しようとしたのだとばかり思っていた。
突然の出来事に体も心も疲弊していたセシアはすっかりと見落としてしまっていたのだ。
ジュリエット・ラニ・グウィルトという女の、狡猾さを。
時間は少し遡る。
ジュリエットがポットを床に叩きつけて、盛大に割れた音が響いた時。
隣室でロナルドのおしめを替えていた王太子妃・イーディスは、驚いて隣室へと続く開口部を見遣った。
彼女達がいた場所はサロンの横にあり、普段ならば使用人達が待機したり次のお茶など必要なものを用意する為の控えの間にあたる。その為廊下へと続く扉はあるもののサロンへと続く部分に仕切りとしての扉はなく、豪奢なカーテンが上から垂らされているだけだった。
あり得ないことだとは思うがサロンの方に何か脅威が現れたと仮定すれば、扉という隔たりのない控えの間は無防備に危険に曝されていることになる。
咄嗟に彼女は、母親の本能で赤子の横たわる長椅子の前に立ちはだかり庇う姿勢を取った。しかし何が起こったのかは想像もつかず、不安だけを募らせる。
そこでロナルドの傍らに膝をついて彼を見守っていたメイヴィスは、青褪める義姉見兼ねて立ち上がった。
「お義姉様。わたくしが様子を見てきます」
「メイヴィス様、でも危険ですわ……」
イーディスは咄嗟に義妹の細い腕を掴んで止める。けれどメイヴィスは、気丈にも首を横に振って微笑んでみせた。
「大丈夫です、向こうにはアニタもセシアもいますもの。セシアはああ見えて結構強いんですよ」
「でも……」
言っいる間に、ジュリエットの悲鳴がこちらにまで大きく響く。メイヴィスはイーディスの手を握って、ハッキリを頷いた。
「大丈夫です。お義姉様はロニーとここで待っていてください」
「あ……では、せめてお前達、メイヴィス様と一緒に行って。必ずお守りしてちょうだい」
義妹のことが心配だったイーディスは護衛二人と侍女の一人に声を掛けて、メイヴィスと共に隣室へと送り出したのだ。
そして、あの騒ぎが起こる。
そのどさくさに紛れて、イーディスが目を離したほんの一瞬の内に、あろうことかロナルドが殺害されてしまったのだ。
マーカスが子供部屋に駆け付けた時、そこには様々な感情が渦巻いていた。
悲しみ、憤り、疑問、混乱、後悔。
イーディスはずっと泣き続けていて、夫である王太子・レナルドは恐ろしいぐらいの無表情で妻の背を撫でていた。護衛や侍女たちはひたすら沈痛な様子で俯いている。
「ロナルドは」
マーカスが呟くと、レナルドが僅かに視線を向ける。そちらには天蓋のついた赤子用の小さなベッドがあり、駆け寄る際に脚が縺れそうになりながら彼はその傍らに膝をついた。
そって覆いを除けて中を覗くと、赤子がまるで眠っているかの様子でそこに横たわっている。小さな王子様。
彼は小さな口元に手をやって呼吸が、ない、ことを確かめた。それでも信じられなくて胸に手を当てる。
「っ……」
喉を震わせて、マーカスは声にならない悲鳴を上げた。
ジュリエットの狙いはこれだったのだ。
セシアがジュリエットを襲ったとして、護衛に拘束されそうになったところをバルコニーから逃亡したという報は勿論マーカスにいの一番に届いていた。
当然セシアの無実を確信している彼が、何故ジュリエットがそんなあからさまな罠にセシアを嵌めたのか疑問に思ったのは一瞬、続いて知らされたロナルド殿下死亡の言葉にマーカスは心の底から怒りが沸くのを止めることが出来なかった。
相変わらず証拠はない。ジュリエットは常に誰かと一緒にいて、当然彼女が実行犯でないことは明らかだ。しかし何もかもタイミングが良すぎる。
ジュリエットの指示だということは、この状況ではマーカスには疑いようもなかった。
少数での茶会、そこに暴れながら連れて来られた赤子、メイドが他国の賓客を襲ったという騒ぎ。かねてからの予定に偶然が組み合わさって出来た、一瞬の隙。
だが、それが偶然ではないとしたらどうだろう?
ロナルドがあの場に来ることが、仕組まれていたとしたら。
ジュリエットは、わざとあの場所にロナルドが来るように何らかの細工をしてセシアを陥れるついでに、否、ロナルドを殺害するついでにセシアを陥れたのだ。
あの場面で、恐らく本当のイレギュラーだったのは、ロナルドを抱いて登場したマーカス自身。どんな手段でロナルドを殺害し、セシアを陥れたかは後で考えるとして今は、ジュリエットの策の穴を見つけることが先決だ。
マーカスは、あの時サロンで見聞きした短い時間を何度も反芻する。
「……ロナルドは母親を求めて暴れる所為で、サロンに連れてこられた…………」
マーカスは小さく呟いて、ロナルドの遺体の腕に触れる。
昼間、マーカスが抱いてサロンに連れて行った温かな体は今や何も反応も返さない。しかし、その袖を捲って現れた柔らかな皮膚を見て彼は確信した。
赤子の腕は昼間には赤く腫れていた痣が見当たらず、柔らかな皮膚そのままだった。
いくら代謝が高かろうと、亡くなってしまった後にぶつけた痣が治るとは考えられない。
「兄上」
「……どうした」
マーカスが声を掛けると、さすがに普段は峻厳な様子の王太子も今は萎れた花のような風情だった。我が子を失うという辛さは、マーカスにはまだ理解出来る立場にいない。
けれど、その辛さを今振り払ってやることは出来そうだった。
「これはロナルドの遺体ではありません。うちの課員に、遺体を調べる許可を下さい」




