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翌朝。
勤務部署である経理監査部二課に出勤したセシアは、いつもは留守で閉まっている課長室の扉が開いているのを見て怪訝な表情を浮かべた。
この部署に配属されて一ケ月。
先輩のレインに指導されつつ、多忙だと聞いていた課長に会えたことは一度もなかった。
ものすごく、嫌な予感がする。
出来れば知りたくない。
誤解されやすいが、セシアは降りかかる火の粉には全力で抵抗するが、基本的には平和主義なのだ。知らないままでいた方がいいことは、知らぬままでいたい。
平穏な文官ライフを心底望んでいるのである。既にやや崩壊しつつあることからは、目を背けていた。
しかし、運命の神様は彼女を離してはくれない。
ひょこ、と開いたままの扉から顔を出したのは、予想通りマーカスだった。
「セシア!おはよう、さっそくだがこっちに来い」
「…………拒否権は」
「あると思うか?」
彼はまたニヤリと笑う。
課長室に入るとそこはあまり広くはなく、いかにも備品といったデスクと椅子、棚が置いてあるだけの殺風景な様子だった。
書類を持ったレインもいて、彼はセシアを見て微笑む。
「おはよう、カトリン。昨日はご苦労様」
「おはようございます、先輩……」
「説明は殿下自ら聞かせてくださるそうだ。くれぐれも失礼のないようにな」
そう言って、自分の用はもう済んでいたらしくレインは部屋を出ていく。どうか置いて行かないで欲しい。
だが無情にも扉は閉められてしまい、部屋の中にはセシアとマーカス、そして執事のクリスが残った。
「……扉は開けておきますか?」
クリスが訊ねると、椅子に座ったマーカスが首を横に振る。
「仕事に関する話だ。未婚の男女がどうこうという場でもあるまい」
確かにセシアは令嬢でもなければ、当然マーカスの恋人でもなんでもない。
この場で貴婦人扱いされるのも気持ちが悪いので、セシアも軽く首肯した。開けておいた方が逃げやすいが、逃げてどうなるものでもない。
「椅子は一脚しかないので、勧めることが出来ず悪いな。普段この部屋は使わんので、あまり物を置いていないんだ」
そんなことを言いつつ、その唯一の椅子を女性に譲らないところが、いかにも王子様らしい。
「構いません」
セシアは内心舌を出しつつ、そう言った。その唯一の椅子だって、王子が座るにしてはかなり粗末なものだ。
「……では、何から説明するか」
「まず……メイ様……いえ、メイヴィス王女殿下のご様子を教えていただけますか」
セシアが口火を切ると、マーカスは目元を和らげた。
昨日、セシアが共にいられた時間内にはメイヴィスは目を覚まさず、真っ青な顔で迎えにきたアニタと他の侍女達によって彼女の身柄は丁重に城に運ばれて行った。
出来れば目覚めるまで傍にいたかったが、セシアの身分では無理な話だ。
「メイは昨夜の内に目を覚まし、湯浴みと軽食を摂った後再度夜には自室で就寝した。今朝はここに来る前に様子を見て来たが、怪我もなく元気そうだった。お前に会いたがっていたので、近々席を設ける」
「……あ、ありがとうございます」
ほっとしてセシアがつい言うと、マーカスは笑う。
「感謝を述べるのはこちらの方だ。俺の妹をよく守ってくれた、礼を言う」
「……いえ」
「ついては、正式に褒美を授けたいが何か望みはあるか?」
「ぅえ?」
急に思ってもみないことを言われて、セシアは驚いて狼狽える。
「なんなら換金しやすい金塊でも、小粒の宝石でもいいぞ」
いつかマリアに語った給金の使い道を持ち出して、マーカスはニヤニヤと笑う。
それも一瞬過ったが、結局セシアは首を横に振った。
「……いりません」
「遠慮はしなくていいぞ?今回活躍した騎士にも褒賞は与えるし、お前だけを特別扱いしているわけじゃない」
マーカスは不思議そうにそう言ってくれたが、セシアの気持ちは変わらない。
彼女はどこか清々した気持ちで微笑んだ。
「お礼なら、メイ様がまたケーキをご馳走してくれる約束なんです。それで十分です」
「……欲のないことだ」
彼の言葉に、少し違うな、とセシアは感じる。
「私があの時、メイ様を……守ろうと思ったのは、あの方が王女だからじゃありません。頑張り屋で、必死で、素直な女の子なメイ様だから、助けたかったんです。国からご褒美を受け取っちゃったら、なんかその時の気持ちも打算だったみたいな気がして嫌なので……ケーキが、一番のご褒美だと思います」
たぶんきっと、それを友情と呼ぶのだ。
セシアの言葉を最後まで聞いて、マーカスは頷く。
「……分かった、ではこの件は俺はメイの兄としても王子としても、お前に一つ借りがあると認識しておこう」
「殿下、それはなりません。王族が個人に借りを残すなど。まして、セシアとはいえ平民相手に。無理やり金塊でも押し付けましょう」
クリスが慌てて口を挟む。それだけ、本来あってはならないことなのだろう。
金塊は今回に限っては受け取りたくないが、クリスの言い分も尤もだ。セシアはじろりとマーカスを睨む。
「……話聞いてました?」
「聞いていたから、そうするんだ」
しれっと言ったマーカスは、もう言葉を覆す気は微塵もなさそうだ。頑固なのはお互い様。マリアもそうなので、セシアは溜息をひとつ吐いて発散する。
「……私は、貸した、なんて思ってませんから」
せめてもの抵抗でそう言っても、彼は取り合ってくれなかった。
「……では、次の話に移ろう」
「あ、はい」
さっさとマーカスが話を移してしまったので、彼の背後でクリスは悔しそうにしている。
その視線を受けてセシアは居心地悪く感じつつも、必要なことを聞くことにした。




