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碓氷峠TTレース

作者: かんだよしひ子

普段は観光客もあまり訪れない碓氷峠にバイクのエンジンの咆哮がこだまする。砂や木の葉が積もり、ひび割れていたアスファルトは、群馬と長野から選ばれた舗装職人が、スペインのアラゴンのサーキットまで視察に行き、サーキット以上の舗装を碓氷峠全線に施した。全国からライダーが集まり、新たな聖地が生まれた。

 季節が夏だったことを忘れるほどの心地よさが漂う軽井沢。八月の午後。避暑客で賑やかな街中から東に数キロほど離れ、木々が生い茂るひんやりと薄暗い峠道を2台のオートバイが先頭を競って絡みつくように走っている。音から判断すると、おそらく2速で吹け切るほどの回転数を頻繁に使い、時折3速に入れているようだ。左足首が機械のように小刻みに動く。クロスミッションを使っているのだろうか、シフト・ダウン時での減速がスムーズだ。器用に2速と3速を繰り返し使い、半クラッチを多用しながら、エンジンの回転数がパワーバンドか

ら外れないようにマシンを走らせている。スタート直後の直線区間で4速を振り切った以外は、ずっと低いギアしか使っていない。この峠で走り続ける限り、1速と4速~6速はいらないかもしれないと思わせる。

先ほどからずっとテール・トウ・ノーズのつかず離れずの状態が続いている。コーナー入口でアウト側に並びかけるが、わずかにヤマハが前に出る。減速時には接触しそうな勢いだ。前に出るのは、横に並んでから強く握ったブレーキレバーを緩めたタイミングの差だ。イン側を絞っているため、なかなか滑り込めない。アウト側から並ぶことができれば次のコーナーではイン側を抑えられるが、フロントホイールを並べるところまではいかない。シルエットを見る限り、両者ともほとんど同じフォームに見える。同じようなラインをトレースするので、そ

っくりそのまま前車をコピーしているかのようだ。ブレーキがロックする寸前まで右手のレバーを握り込み、リヤタイヤのコンパウンドが擦れた跡を路面に残しながら執拗に追走する赤いマシンはスズキのRG200γだろうか。メッキのサイレンサーが鈍く光る。有名チューニングパーツメーカーのスガヤのチャンバーから瞬間的に白い煙を吐き出している。ステンレスを用いたチャンバーの材質のせいなのか、音質はパリパリというより、ペリペリと少し甲高い音に聞こえる。ライダーにとっては、このチャンバー1本が何ものにも代えがたい宝物だ。

現代では探しても見つからない。ヤフーのオークションにも出てこない。ワンオフで作ってくれるショップも職人もいなくなった。穴の空いたようなジャンク品でも高額で取り引きされている。同じマシンに乗るオーナーズクラブのようなものに顔を出し続け、偶然、処分したいオーナーからジャンク品を手に入れ、自分でデコボコを修復し、穴を塞いだ。つなぎ目に沿って輪切りし、修理後に再度溶接、塗装も行った。バイクの乗り方を体で覚えるように、たいていの2スト乗りは、必要に迫られてメンテナンスの技術やパーツの修復方法を覚え、器用に

なっていく。バイク屋まかせの一般的な4ストバイク乗りには決して理解できないものがある。たいていの2ストの乗り手は、「そこまでするか?」という顔をされ、変人扱いされる。さらに多くの2スト乗りは、自宅にコンプレッサーや旋盤、溶接機なども持っている。工具の数も種類も多い。マシンをバンクさせて最も接地しやすい場所はわかっており、チャンバーを叩いてへこませてある。とんでもないジャンプをして前後輪が同時にフルボトムしても接地することはない。その前にフレームかライダーが壊れるだろう。自分が整備したマシンだから

こそ、信頼し全開で飛ばせる。そう信じているライダーは多い。最近はちょっとしたショップでも修理やメンテナンスを断るところが増えてきた。儲からないことはしない。売ったらそれっきり。壊れたら買い換えてもらう、売れるだけ売る、という方針の店が増えたのだ。確かに簡単なメンテナンスは覚えれば誰でもできるのに、覚えようとしない。そもそも最近のオートバイはメンテナンスフリーだから。電子制御なので、迂闊に手を出せない。パワーが欲しければ、基盤ごと交換する。金はかかるが確かな方法だ。乗り手も飽きやすく、一過性の流行

病のように、免許を取ってバイクを買って、少し乗って満足すればそのまま放置して自宅にバイクがあったことさえも忘れる。盗まれても気づかない人がいるという。メンテナンスの基本であるタイヤの空気圧の点検やオイル交換といったことは、やる気があれば誰でもできるが、誰もしない。自分でメンテナンスすれば、構造や仕組が見えてくる。わかっていたらツーリング先でトラブルが起きた時でも対処することができる。愛着も湧くだろう。知識や経験が誰か他のライダーの役に立てるかもしれない。アクセルワイヤーがどのようにアクセルにつな

がり、燃料の吐出量をコントロールしているのか。オイルポンプがどんな加減で供給するオイルを調整するのか。そもそも現代には、キャブレターを使うような乗り物がほとんど存在しなくなってきた。ケニー・ロバーツのレクトロンのキャブなんて誰も知らない。アクセルワイヤーなんてアナログなものもない。メインジェットってどこかのプライベートジェット機?という顔をされる。アクセル開度に応じてセンサーが反応する。古いバイク乗りには全くもってブラックボックスばかりだ。最近の若者は、買って取り付けてすぐ楽しめないものに関心が

湧かない。どうでもよいようなパーツに興味は持てない。セッティングを出す苦労や、出たときの喜び、そこに辿り着くまでの過程を楽しむなんてこともあり得ない。機械には「遊び」の部分があるが、この部分を自分の好みに調整することが、2スト乗りにとっては最も重要なことだと感じている。そんなバイク乗りが増えてほしいのだが。

アクセルのオン・オフとシフトのアップ・ダウンに応じて瞬間的に白煙が増減するのが見える。前方には対照的でもあり相似形でもあるシルバーメッキタンクのヤマハSDR200。駆るライダーはヒザのバンクセンサーを擦りながら必死で逃げている。後方からSDRのマフラーエンドを睨み付けながら、ヘルメットの中でふと思う。ヤマハ特有のRD系の排気音は、どこか懐かしさと安心感に溢れている。なぜか温かい。どうしてヤマハは同じ音質なのだろうか。どこにでもあるようなピストンリードバルブなのに。空冷RDから水冷のRZに進化して

も同じだった。市販レーサーのTZも同じだった。4気筒になったRZVでも変わらなかった。単気筒のSDRでも伝統だというべきか。そうだ。ヤマハは楽器屋だからだ。好き嫌いで贔屓にしているメーカーはある。モータースポーツの世界で培われた技術の結晶にケチをつけるつもりは毛頭ない。本物のバイク乗りは、好きではないからといって、メーカーやマシンにケチはつけない。排気音が変わらないということは、変える必要がなかったということだ。それは生き方に通じるところがある。ヤマハにはヤマハの感性、カワサキにはカワサキらしい

武骨さ、ホンダにはホンダの存在感、スズキにはスズキの真面目さが満ちている。前を走るこのヤマハのマシンは徹底した軽量化なのか、各部にカーボン柄のパーツが見える。フロントフォークのストローク具合から見てチューニングの限界を超えている。単純に市販車からの流用程度では、フレームとのマッチングが悪く、落ち着きが良くない。ライダーがスプリングの柔らかさを感じている。リヤにしてもスイングアームの剛性が不足しているのだろうか。現代のマシンなら電子制御のトラクションコントロールで楽に走れるのだろうか。切り返し時の

路面追従性が鈍いように見える。たぶんライダーはわかっていない。前後のバランスの影響が出ているのだろうか、フォークオイルの粘度の問題なのだろうか、走りながらずっと考え続けていた。極太タイヤ全盛の時代にあって、細いタイヤが心許なく感じられる。先ほどからブレーキ時にパッドを引きずる音が目立ってきた。手を入れているとはいえ、限界付近で長時間にわたって酷使すればしわよせは必ずどこかにやってくる。フロントブレーキのキャリパーはブレンボの4Pに変更してある。パッドもレーシングタイプのゴールドのパッドが付いてい

る。しかし、対抗型3ピストンにすればよかったか、少し後悔している。天下のブレンボといえど純正品よりは幾分かマシかもしれないが、その程度だ。どんなに良い製品でも、酷使すると破綻が近づく。そういうところは人間の体と同じだ。こんな山奥の草レースでも、無理をすればしわ寄せが出てくる。それが制動であったり水温であったりタイヤであったり、ライダー本人の体力や精神状態であったりする。単独で練習走行を繰り返している分には、起きなかった事が起こる。だいいち普段の峠道では自分の車線からはみ出してまで走行することはな

い。ところがいざレースとなると、反対車線からやってくる対向車がいないので、道路の幅を目いっぱい使う。普段は右コーナーでガードレールスレスレのラインを通ることはない。車線をはみ出さないように試走したときよりもレース本番では自ずとスピードは乗ってくる。練習走行よりも+10km/hはアップしている。二輪でも四輪でも、峠では早いのにサーキットでは遅いライダー・ドライバーはこの病にかかっている。自ずと構える。左コーナーと同じように全開で飛び込む気力が削がれる。ガツンとブレーキをかけることが多くなる。パニッ

クブレーキではないが、常にレバーに指をかけた状態で、引きずるような走りを繰り返しているせいでブレーキが鳴きはじめる。練習では鳴くほど強く握らない。できるだけ減速したくないので、やんわりと軽いタッチでレバーを握る。パッドの裏にはカッパーグリス塗ってあるが、それでも関係なく鳴くときには鳴く。練習時に限界と感じていた場所よりもスピードが乗り、奥までブレーキを我慢しているから、強く握らざるを得ない。当然、フロントからスリップダウンする可能性も高くなる。ラジエターを大きくすれば、車体重量が増え、運動性能は

落ちる。重量が上がれば当然、タイヤやサス、ブレーキなどの足回りとフレームの負担も増える。それはパワーを上げたときも同じだ。数馬力上がっただけでも、全体のバランスは崩れるというが、そのような経験のあるライダーは多くない。すぐに影響が出るのが制動力やタイヤのグリップだ。もちろんシリンダーの冷却効率も落ちる。右コーナーを練習できないことは、全てのライダーに等しく与えられた試練のようなもので、実際にそういった部分については日頃からの経験と土壇場での適応力が試されることになる。わずか10分ほどのレースだが

、二人ともスタートから全開で飛ばし、ものすごい集中力でマシンを走らせている。狙ったラインを1mmも外さない気合とでもいおうか。相手に負けたくない根性とでもいおうか。意地の張り合いだ。2台ともコーナーの先を知っているかのように思い切りよく常人には考えられないスピードで駆け抜けて行く。出場するライダーのほとんどが、何度も走り込んでいる。トップクラスのライダーはこのコースの全てのコーナーのRを覚えている。山側の斜面からむき出しの岩が顔を出している。ヘルメットスレスレで通過する。あと数センチ内側に切れ込

んだら大事故になるギリギリの勝負だ。スリルがあるとかないとかのレベルではない。彼らにとっては命がかかった攻防だ。研ぎ澄まされた神経は、路面の砂一粒でも見分けることができる。今のところは最新のタイヤのグリップとライダーのテクニック、気力と意地で走らせている。旧型とはいえマシンの性能差もほとんど変わらない。甲乙つけがたいとはこういう状態を言うのだろうか。どちらが前でも後ろでもわからない。サーキットではないので、路面の摩擦係数μは低い。減速時にタイヤが負け、フロントタイヤがポンポンと跳ね、立ち上がりで

リヤタイヤが数センチずつスライドする。スタート時よりも熱が入ったタイヤは、しっかり路面に食いついている。昔のバイアスタイヤでは考えられない性能だ。これほど酷使されるコースでは、サスペンションの動きもテストコースやサーキットでのデータが役に立たない。しかもライダーは二人ともプロではない。峠のローリング族あがりの走り屋なのでアクセルワークがラフだ。彼らの走りの全ては体で覚えて勘で走るスタイルだ。エンジンと足回りを強化した製造販売が30年以上も前の骨董品ともいえるマシンが、山奥の峠道では最新のどんなバ

イクよりも早くてエキサイティングな走りを見せる。排ガス規制とはいえ、2ストロークマシンの開発をやめたことは、こういったモータースポーツの進化に暗い影を落とした。確かに最新の4サイクルマシンは扱いやすく燃費も良い。初心者でも乗れる。にもかかわらず彼らがSDRやRGγを選ぶのはなぜか。乗れば誰もがわかるのだが。最近のライダーはエンジン回転数がパワーバンドに入ったときの、2サイクルマシン独特の突き抜けるような爽快感を知らない。80年代のレーサーレプリカが高額で取引されるのもうなずける。2サイクルのマシ

ンは、巷には焼きついた個体も多く、いかんせんタマ数がなくなってきた。修理できるショップやユーザーも減ってきた。キャブレターのセッティングが出せない。インジェクションでは押しがけすらできない。バッテリーの電圧がわずかに低下するだけで始動できない。古いバイクでも乗ればこんなに楽しいのに、選ばない奴は愚か者だといわんばかりに、峠道を飛ばしに飛ばす。プロの目から見たらライディングも荒くていちいち動作も大袈裟で無駄が多い。サーキットと違い、ここでは何が起こるかわからない。レース直前まできっちりとコース整備

はされていても、生い茂る木の枝や葉、どんぐりの実が落ちてくるかもしれないし、野生動物が飛び出すかもしれない。先ほどから何度もリスが道路を横切っている。ブレーキレバーとブレーキペダルへの反応に備えてライダーの意識の数パーセントは指先に振り分けられていた。全開中に焼付いたときのために左手のクラッチレバーにも意識は残してある。地元の峠を走り込み、本当にヤバいと感じる予感のようなものを体で覚えてきた。焼き付く前のいやに良く回るエンジンの感じもわかる。そんな奴らばかりがここにやってきている。

下り左コーナーのブレーキングでわずかにふくらんだSDRのイン側にRGγが飛び込み、先頭が交替した。オーロラビジョンにドローンからの映像が繰り返し流れると、スズキびいきの観衆から歓声が上がった。後ろに下がったSDRのライダーは冷静で、抜かれても焦ることなく先ほどまでとライディングに変化はない。必死に走っていることはわかるが、決して無理をしている感じではない。余裕のある追走という感じだ。彼はしばらく後方からチャンスを伺うつもりのようだ。先頭で逃げ続けるより、追走しながら冷静にチャンスを伺うほうが、気

持ち的には楽かもしれない。こんなに回し続けたら、いくら丈夫なエンジンでも心配になる。ついていくことでエンジンパワーも温存したい。できるだけスムーズなライディングをすれば、置いていかれることはない。ゴールまでのどこかでチャンスは必ずあるはずだ。そういう場所は何か所もあることを知っている。実際この峠には大小200近くのコーナーがあり、これまでの記録では最速で9分半程度のタイムでゴールしている。今でも結構速いペースだが、時間はまだ半分残っている。スタートしてから5分を過ぎた程度だ。肝心なのは午後からの

ヒルクライムでのタイムになる。午前のダウンヒルは軽量マシンの方がタイムは出やすく、午後からのヒルクライムは排気量のあるマシンのほうが比較的タイムは良い。外気温や湿度、標高なども事前のチェック通り、エンジンはすこぶる快調だ。今のところ相手にとって不足はない。想定以上に早いペースだ。お互い、同じようなことを考えているのだろう。無理をしていないことがわかる。無理をすればどこかでミスが生まれる。それだけは避けたい。自分も相手も落ち着いている。「あれこれと考えないで本能でライディングを楽しむことにしよう」

。そう思っているはずだ。

初めて自分のバイクで地元の峠に行った時のことを思い出していた。最初は怖くて、こんなにも飛ばせなかったし、バイクを斜めに傾けて走るなんてとてもできなかった。しかし経験と研究のお陰で、地元では一目置かれるほど早いバイク乗りになれた。峠の楽しさを知ってからは、どうすれば早く走れるか、それしか考えてこなかった。マシンも最終的にSDRに落ち着いた。峠の楽しさを知ってからはツーリングには行く気もなくなった。学校の勉強や部活でもこれほど夢中になれたことはなかった。高校球児が甲子園を目指すことと何ら違いはない。

好きなことに夢中になる。考えては練習し、練習してはまた考える。その繰り返しで上達してきた。コーナリングスピードはどんなに早く走れても限界がある。それはエンジンのパワーやフレーム、車重やホイールの大きさによる。そこで得た結論は「軽くてホイールベースが短いマシンが早く曲がれる」ということだった。モンキーなど小径ホイールでパワーがあれば最も早く曲がれるだろう。コーナリングスピードを確保できても、コーナー進入時に減速しすぎたら理想とするスピードに上げるまでがタイムロスになる。そう考えると、ベストな減速ポ

イントがあるということにも気づいた。しかし、コーナリング中にブレーキを握ればバイクは転倒しやすくなる。マシンが垂直に立った状態のときにできるだけ短時間で減速を終えることができれば、理想的な走りに繋がる。それでも実際には、誰もが減速しすぎてコーナリング中にアクセルを開けてスピードを上げる。適度な減速とコーナリングスピードがあればアクセルは開けなくてもよい。排気量があれば、コーナーの奥まで突っ込み、そこからパワーとトルクで立ち上がる方が速い。その違いもわかっているが、やみくもにアクセルを開けると無駄

にガソリンを使っているように感じられて、そういった「大量にガソリンを送ればパワーが出る」というような乗り方はあまり好きではなかったというだけのことだ。理論的にはアウトインアウトのライン取りで走ることが理想的だが、クリッピングポイントを過ぎてからの立ち上がりでどうしてもアクセルを開けるので、定常円周回よりも少しいびつになる。理想通りにいかない部分は体を使って修正するしかないこともよくわかっており、無理なコーナリングでは何度もハイサイドを体験し、そのうちの何度かは持ちこたえて大事に至らなかった。バイ

クに乗るということは、頭でわかっていてもその通りにいかないことも多く、対処できる引き出しを多く持っている奴が速くて安全だということを学んだ。良い例が降雨時の走行だろう。好きこのんで雨の日に峠で走る奴はいないので、普段からモトクロスやエンデューロのコースで練習を重ねるようにしたお陰で少しずつマシンの扱いがわかるようになってきた。軽量ハイパワーのマシンがベストだという結論は揺るがなかった。4ストマシンに乗ってもそれなりに早く走れる自信はあったが、究極的には軽量ハイパワーの2ストマシンにかなわないと思

っている。碓氷でも当初は125cc位の2ストロークマシンが有利だと囁かれていた。しかし、コーナー番号が2ケタになってからゴールまでのハイスピードセクションのことを考えると125では役不足だった。偶然ヤフーのオークションに出ていたSDRを見つけたのはラッキーだった。ほとんど手を加えなくても峠を走らせることができそうだったからだ。素人が思いつく限りの軽量化とパワーアップは前のオーナーがほとんど全て済ませていた。ステップやハンドル位置を変更し、自分に合ったポジションに替えて試走してみたが、思った通りの

マシンだった。それを手足のように扱えるほどに走り込み、ようやくこの場所へやってきた。相手のRGγの男も同じような境遇だろう。マシンのチョイスでわかる。ヤマハの2サイクルの名誉と誇りに賭けてこの勝負は負けられない。強くそう感じていた。奇しくも今年は10回目の記念大会で、メーカーのレース関係者も多数顔を揃えている。この場での快走が目に留まれば本格的なレース活動も夢ではない。ファクトリー入りは夢でも、声くらいはかけてもらえるかもしれない。走りに賭ける純粋な思いの裏では実に様々な欲望が渦巻いていた。


 軽井沢プリンスホテルの一室にこの日集まったのは長野県知事の山崎と群馬県知事の川端、加えてそれぞれの副知事が2名と国土交通省信越事務所長の柳沢ら5名が表向きのメンバーで、そのほかに長野県選出の古参の国会議員も顔を見せていた。ほぼ全員が顔見知りで名刺交換や自己紹介などをすることもなく、唐突に山崎が「例の件ですが‥‥」と口を開いた。「この辺はインバウンドとかあまり関係ないけど、夏はやっぱ若い人には来てほしいよな」と議員。「問題は世間の風当たりですかな」と川端。「道路は大丈夫だな」「はい、改修予算の方

もよろしくお願いします」と所長。「よし、決定だ。大々的に両県合同でパーッと会見やるか。一切合財は大手の広告代理店に任せる。国内4メーカーの後援は国土交通省から内々で頼むか。まずは乾杯だ。」と、驚くほど軽くて速い展開で話が進んでしまったのが、これからお話しする「碓氷峠TTレース」の開催だ。碓氷峠は長野県軽井沢町と群馬県横川をつなぐ峠道で、昔から走り屋たちの間では全国的に有名だが、近年はほとんど通る人もなく、維持管理費用ばかりが膨れ上がり、観光の面からその利用価値がたびたび議論されていた。そんな中で

、活用できるアイディアとして、碓氷峠をイギリスのマン島TTレースのような二輪のレース場所にできないかという長野県知事の山崎の発案だった。小諸市生まれの山崎は軽井沢高校の卒業生なので軽井沢の事は良くわかっている。彼自身もプライベートではカワサキの750ccに乗り、オートバイライフを満喫し、二人の娘の気持ちはわからないが若いライダーの気持ちはわかっていると思っていた。「できれば単発のイベントではなく、毎年開催できたら面白いじゃないか」と相談した国会議員の黒坂先生が大いに乗り気となり、とんとん拍子に話

が進み、今回の顔合わせとなった。両県合同プロジェクトとして県庁の職員から適任者をそれぞれ人選のうえ、細部を詰めることになっていた。「黒坂先生は気楽に言うが、県債を発行する身にもなってくれよな。」と少しムッとしたが、どこか憎めない人柄に「仕方がないな」と思っていた。黒坂は初当選したときにホンダのオートバイで長野県内を回ったことを思い出し、懐かしさに目を細めている。その頃から運動員として応援してくれたのが目の前の国土交通省で信越事務所長をしている柳沢の父親だった。選挙運動中の休憩で田んぼのあぜ道に腰

を下ろして一緒に握り飯をほおばったことを思い出した。あのときの握り飯と野沢菜はうまかった。皆が純粋に国を憂い、農業の振興を願っていた。「農は国の礎だ」というのが黒坂の持論で、今となっては古臭いと陰口を叩かれることもあったが、あの時の握り飯が自分の原点だと信じている。農を大事にする黒坂は地元では圧倒的に支持されている。苦しかった駆け出しの時代を共にした人たちとオートバイを忘れたことはない。今は写真でしか残っていないが、目を閉じればあの時の熱気を思い出せる。当時の地元紙に、あぜ道にムシロを敷いて腰を

下ろし握り飯を手に支援者と語り合う写真と記事が載っていた。今も額に入れて残してある。バイクは裏切らない。借りていたホンダは、選挙運動が終わるまで故障ひとつしなかった。並走してくれたライダーも多く、ピースサインですれ違う無言の応援が心強かった。バイク乗りも裏切らない。無茶をするバイク乗りも多いが、話してみると意外に純粋な青年が多いことも知っていた。「開催は2年後の夏だ。2年くらい、あっちゅー間だ。早いぞー」。


 それから2年。太陽が降り注ぐ夏の軽井沢にオートバイの排気音が響いていた。軽井沢駅の北側を東西に通る国道18号線の旧道脇の空き地には全国から集まったライダーたちが大会の始まりを今か今かと待っていた。計画の決定から開催までは確かに「あっちゅー間」に過ぎて行った。普段から国土交通省の道路メンテナンスが行き届いていたことや、プロジェクトのリーダーに据えた五味の根回しが功を奏し、黒坂らのバックアップで費用面での心配がなくなったこともあり、思ったより早く準備が整った。諏訪出身の五味の父親も黒坂の有力な運動

員だった縁もあり、五味が電話で黒坂に「先生、どうしましょう?」と相談するだけで、難しい問題はするすると解決し、心配したようなことは全く起こらなかった。計画にはなかったが、早く準備が整ったこともあり、夏の喧騒が過ぎた昨年秋には非公式ながら二輪雑誌主催のタイムトライアルを開催し、好評を得た。当日の様子はNHKの取材により地上波でも放映され、後日関連雑誌も多数発刊されるなど、PR面で大きな効果があった。何よりも、前年のマン島TTレースのスーパーストッククラスで優勝したM・ダンロップ選手が優勝マシンで走

ってくれたことでハクがついた。しかもインタビューで碓氷のコースを大絶賛してくれたお陰で、本番も大成功間違いなしのお墨付きを得た。会場近くのホテルまでやってきていた黒坂議員も「五味君よくやった!今宵は無礼講だ、上山田温泉から芸者を呼べ!」と上機嫌だった。

 プレ大会で手ごたえをつかんだ五味らは本番に向けて着々と準備を進めた。あまり大袈裟な工事や改修、建設などは渋滞を生むので観光客や地元商店からあまり良い顔をされない。できるだけ自然な工事を装い、舗装を直すついでに屋外トイレを増設したり、じっくりと時間をかけていつの間にか地下駐車場を作ったりと準備が整っていった。この地下駐車場構想は観光にも大きく寄与した。軽井沢の夏は人口が普段の10倍以上に増え、渋滞が問題になっていた。旧軽井沢ロータリーにある町営駐車場周辺は常に入出庫の車で混んでおり、四六時中騒然

としていた。訪れた人たちは避暑地のイメージから程遠い排気ガスまみれの環境にうんざりし、何度も訪れる気を失くしていた。地下駐車場が完成したことで渋滞は緩和され、いつの間にかバイクの整備ができる店やパーツショップ、宿泊施設や温泉なども地下に併設されていた。地下街には土産物店も立ち並び、旧軽銀座までいかなくても、雨でも軽井沢を楽しめるとあってチカ軽銀座と呼ばれ始めていた。地上に出れば駅前で、そこには碓氷峠TTレース会場入口があった。新幹線や車で軽井沢を訪れ、現地でオートバイをレンタルして、碓氷峠や浅間

山をツーリングするプランが大人気だった。オートバイのレンタルショップは横川や中軽井沢、嬬恋村にも営業所があり、途中で故障や事故があってもすぐに対応できるようになっていた。今やレジェンドと呼ばれる上田市のバイクショップの主人山崎の店を詣でるツアーも人気で、「この歳になってからサインを求められるとは思わなかっただに」と山崎はぼやいている。軽井沢の地下駐車場に広がった地下街は観光客にも好評だった。旧軽井沢までトロリーバスのような地下鉄ができ、天候や交通渋滞を気にすることなく地下からほとんどの場所へ気軽

に行けるようになっていた。噂では地下通路で万平ホテルのフロントまで行けるらしかった。しかも宿泊予約客には駅から専属の人力車が用意されているという。往復の専用通路には人工の太陽光が降り注ぎ、小川のせせらぎと小鳥のさえずりが聞こえ、いかにも避暑地に来た感じがする。涼しい風も人工だがAIのセンサーが体温と外界の気温から人がさわやかに感じる温度を割り出し、送風口から心地よい風を吐き出している。通路もよく見ると「動く通路」になっており、車夫のジョギング程度のスピードでも10分ほどでホテルまで到着できる。こ

ういった動く通路は5本ほど作られて、軽井沢の主要ポイントにまで伸びており、どの通路も避暑地らしいのどかな高原の風がそよぎ、ときおりリンゴの香りが混じり、信州に来たと思わせるには十分な演出が整っていた。地下ホテルは「巣」と呼ばれ、当初心配されていたような閉塞感も息苦しさもなく評判も上々で、特に浅間山の地下から湧き出した温泉が足腰に効くとあって、全国各地から冬でも観光客が押し寄せるようになり、これまで冬場の観光収入が乏しかった軽井沢町の税収を大きく引き上げてくれることになった。地下グラウンドゴルフ場

やゲートボール場、レストラン、映画館、スケートリンク、有名リゾートホテル、巨大ショッピングモール、病院、アウトレットなどが移転し、地下別荘の分譲も始まった。駅から続く地下通路の入り口で別荘番号を入力すれば、別荘の玄関まで地下通路の動く道路が自動で運んでくれる。またエレベーター網も発達しており、これまでのエレベーターは上下移動だけだったが、東西南北移動も同時に出来るようになり、迷うこともなくなった。このシステムのお陰で、車いすでもベッドのままでも移動が容易になった。こういった街づくりはどこかの自動

車メーカーが富士山の裾野で未来都市づくりに挑戦しており、それに続くチャレンジだが、元々財界人の別荘が多いこの場所の地下に街を作る構想は、ほとんど何の障壁もなく話が進んだ。莫大な費用も災害対策に絡めて予算化され、各県の負担分は地方債という形で資金調達できた。もちろん群馬県の負担は少なかったが、地下街の一等地には釜飯ショップと味噌でんがくの店が入っていた。一般人には気づかれないうちに工事が始まりいつの間にか終わっていた。できてびっくりの未来都市だ。おかげで国債の発行額も増え、日銀の黒田総裁が理由を言

わず「みなさん国債を買ってくださいよう」と会見していた。

地上に出れば、道路の反対側には出場者のピットが並んでいる。昨秋のプレ大会のときは、雑誌社のチームに1張ずつのテントが与えられ、まるで草レースのようにそれがピットになっていた。その時の様子がそれぞれの雑誌で特集されると、本大会への期待が集まった。そして迎えた第1回大会には、北は北海道から南は九州鹿児島までの腕自慢のライダーが自慢のマシンとチームクルーとともにやってきており、テント前は大賑わいになっていた。どこの誰ともかわらないライダーの参加は困ると主催者がうるさいので、2回目の大会からは事前に本人

確認やマシンの審査などを徹底して行い、開催1か月前になってようやく審査通過者に連絡が届いた。書類審査は走らない予選のようなものだ。また、出場者にはオンラインで事前にブリーフィングが行われたほか、目を通しておけと分厚いコースガイドが送られてきた。特徴的なコーナーの説明や標高、バンク、気象情報やピット案内なども詳しく掲載されていた。記念のTシャツも同封されており、あまりにもレトロなデザインのためネット上で高額で取り引きされて話題になっていた。テレビのドキュメンタリー番組も制作され、地方の高校生が碓氷

を走るまでの苦労が伝えられると、この大会に好意的な人が増え、大会にスポーツメーカーや学習塾などのスポンサーが多くつくようになった。


 第1回大会から第3回大会までは全国各地のいわゆる走り屋が集まった。ある程度の実力はあるが、飛び抜けて早いライダーは現れず、また転倒も多く一過性のお祭り騒ぎで終わった。そのうちにマシン性能と実力を備えたライダーもちらほらと現れ始めた。インターネットで中継されるようになると急速に参加希望者や観客が増え始めた。テントだったピットがコンクリートの建造物に変わり、コースの改修が進むとツーリングで碓氷峠を訪れるライダーが増えた。碓氷峠の路面改修は長野県と群馬県の土建屋が道路職人を集め、「サーキットを走るよ

り気持ち良い」といわれるほど手の込んだ特殊な舗装と道路整備を施し、その甲斐があってか、夏の軽井沢の人出も昭和の頃の賑わいが戻ってきていた。別荘やリゾートマンションの販売も好調だ。とりわけ3回目の記念大会からは有名ライダーがオフィシャルとして試走するなど、期待されるようになってきた。最近はモーターホームでやってくる本格的なチームもあり、大会の規模と認知度には驚かされる。しかも年々派手になってきており、今やマン島TTに並ぶとも凌ぐとも言われ、海外からの注目度も高くなってきた。しかし、本場のマン島とは

絶対的な速度が圧倒的に違い、こちらは迫力に欠ける。が、ライダーたちにはそんなものは関係なかった。自分たちの晴舞台であることに変わりはなく、出場することや、この場にいることに大満足で、それだけで十分だった。コース脇の落ち葉ひとつ、石ころひとつが愛おしかった。木漏れ日の中を無心で駆け抜けるその瞬間、アスファルトの色が変わるその場所、わずかな段差、2サイクルオイルの残り香、カムチェーンの音、ときおり車体が接地し火花を散らす。そこにあるすべてが、マシンとライダーが生きている証といえる。だから誰もがストイ

ックにこのレースを好きになり、ライダーに憧れるようになった。この神聖な場所をいつか自分も走りたい。だれもがそう思い、碓井TTレース出場を目指してマシンを仕上げようとする。そういう本気のマシンは見せかけだけのカスタムをしていない。整備も行き届いている。ちょっとしたメンテナンスでも手を抜かない。オイル汚れひとつない。良い意味でバイク乗りの鑑になっている。そんな硬派のライダーが増えた。昔は高校生のバイク禁止が当たり前だったが、今では交通安全教育と合わせて二輪の技能教習を行う学校も増えてきた。大体のバイ

クが反社会的に見られる中にあって、このレースが社会的に受け入れられる理由はそういう所にもあった。

 この大会についてもう少し説明しておこう。このレースは碓氷峠の旧道を閉鎖し、その区間をレースコースにしてタイムを競うもので、軽井沢側から群馬県の横川まではダウンヒル、その逆はヒルクライムで、1台のバイクの往復タイムを合算して競う。横川でUターンすればよいのだが、すぐに引き返すと、途中で対向することになる危険を避けるため、全員揃ったところで横川から再スタートをする。それなりに乗れるライダーでも片道10分前後の時間を要する。軽井沢をスタートするときには往復分の燃料を入れておくことになる。もちろん横川

のスタート地点にも、簡単なピットのようなものはあるが、どちらかといえばサービステントで、車載工具ほどの道具しかなくネジを回す程度の簡単な整備しかできない。焼きついたとかバルブが落ちたとかピストン交換とかエンジン下ろすとかは絶対に無理だ。第一に時間がない。腹が減っても釜飯を食べる時間もない。そのため軽井沢側で出走までにマシンの整備を完璧に終わらせておく必要があり、前日夜中の閉鎖時間ギリギリまで走るライダーが多い。大会当日の午前0時をもって碓氷峠の全線が閉鎖され、午前3時頃からコースの整備が始まる。

雨天決行。朝6時30分から全員でラジオ体操をして参加証にハンコを押してもらう。ハンコひとつでタイムを1秒引いてくれる。通常なら、1走目がスタートするのが午前8時だ。ペアでスタートするので、2番目スタートは3分後となり、全部で40台が走ることになる。5ペア出走ごとに点検のためのコースマーシャルが走り、5分後に次の出走に入る。出走順は経験値の自己申告で、前年度ベストテンライダーは必ず後半に走ることになっている。出走順番の申告があったライダーのマシンを排気量から判断し、主催者が出走順ペアを決める。この

コースでは、午前中に長野→群馬のダウンヒル、午後に群馬→長野のヒルクライムとなる。午後スタート地点の横川ではライダーとエントリーした全てのマシンが揃えばすぐにスタートする。予定では午後1時スタートだ。マシンの排気量などに制限はなく、市販車の改造にもほとんど制限はない。ナンバーが取得できるバイクなら何でも参加できる。もちろんコース内に人は入れない。それは徹底している。5ペアおきに出走するコースマーシャルからはインカムで連絡が入る。転倒したりコースアウトしたライダーとマシンがある場合は、救急車と作業

車の投入となり、しばらく走れなくなる。コースを整備した際に、走行不能になったマシンを運び入れる待避所を10か所ほど作った。連絡が入ると、最寄りの待避所からスタッフが出動し、マシンを待避所に運び込む。オイル漏れなどの処理もするが、そのスピードはサーキットより早い。コースの主なポイントには遠隔で操作できるカメラが設置され、観客は広場のオーロラビジョンで見るか、有料のインターネットテレビで観戦するしか観て楽しむ方法はない。怪我人を救急車で運ぶ間は競技をストップし、その間の放送は有力選手のインタビューが

流される。高校野球に出場した球児たちの母校での練習風景のようなものだ。地元でこんなに練習して走ってるよ的な映像と、ライダーたちが決意のようなものを熱く語ってくれる。マシンの改造ポイントの解説なども行われ、視聴者が飽きない作りになっている。7月の終わりに三重県で鈴鹿8時間耐久レースが開催されるが、それからきっちり1週間後にこの大会「通称:碓氷峠TTレース」が開催される。鈴鹿は国際A級ライセンスが必要だが、碓氷峠は原付免許さえあれば、高校生でもスーパーカブのおばあさんでも参加できる。ただし人数制限だ

けはある。前年度ベスト10に入賞したライダーには優先出場権が与えられる。ベスト10入りしたライダーはオフィシャルガイドの写真集とDVDが販売されるので、全国の峠のヒーローとして、全国のライダーの憧れの的になっている。そのため、夏になれば日本中からツーリングで軽井沢を目指すライダーが増えた。ライダー弁当を売る店や交通安全を祈願するライダー神社、ライダーお守りショップ、忘れん坊のライダーケーキの店、ライダージャム、ライダー牛乳の店、ライダーFM局などが夏に合わせて開店していた。

碓氷TTはきっちり1週間前のこの日に出場者のためにピットを解放する。それに合わせて、大会のスタート地点がある軽井沢駅近くの空き地は、大会1週間前から大会関係者の駐車場になり、ライダーやマスコミなど関係者が全国から集まってきていた。パーツショップも夏の間だけ軽井沢ショップを出している。和歌山から謎の人気ショップオーナー・カンココがやってきていた。関西発祥の店で、売っているのはどうやら添加剤のようだ。紀州の梅から抽出したオイルを独自のブレンドにより添加剤として販売していた。カンココマークは今や世界中

で有名になり、エンジンに添加すれば、トルクアップと回転数アップで最高速が伸びると信じられている。某タイヤメーカーのキャラのようなカンバンダムのゆるキャラがショップ前をウロウロしている。この添加剤は化学や物理学で説明のつかないムーパーツだ。昔から怪しいパーツがあったが、使った本人が効果ありと感じたら効果があるのだから、しようがない。今年初めてタイから参加のワンはカンココ添加剤のファンというより信者で、オーナーのカンココと写メを撮っている。言葉は通じなくても、バイク乗りは心が通じ合っているとカンココ

オーナーは初出場の若者にも分け隔てなく接する。そんな気さくな人柄も人気の理由だ。オーナーは自慢のマシン(RZV500R)を持ってきており、このあと、どうやらワンのKR150RRRを先導して碓氷を走る約束をしていた。実はカンココは今でこそショップのオーナーだが、昔は龍神スカイラインをホームコースにしており、名チューナーのウエノヤマでカリカリにチューンしたRZVで走る泣く子も笑う紀州の恐怖ライダーだった。「しょうがないですなあ」と言いつつかなり本気だった。内心、「関東のライダーがなんぼのもんじゃい」

と思っていた。ワンたちに「お前ら、日本人に一泡吹かしたれよ!」とワンにはわからないが日本語で檄を飛ばしていた。カンココはタイから苦労してやってきたワンのチームを密かに応援している。日本に来るために苦労したこともわかっているので、できるだけ滞在費を節約できるよう、ショップのスタッフらが食事をするときにはワンたちにも声をかけるようにしていた。帰国する前には小諸にあるリンゴの浮かぶ温泉に連れて行ってやるよと約束している。本心は、ワンのマシンであるカワサキのKR150RRRのメンテナンスを手伝いたく、早

く走りに行きたかった。最近、カンココショップは、ライディングギアにも力を入れ、今年はレーシングスーツやヘルメット、グラブ、ブーツも並べている。店頭ではカンココギャルが梅ジュースのサービスをしており大盛況だ。あたりにはオイルの焼ける匂いが漂っている。

「さあ、行くでえー」。キックペダルのないカンココのRZVは押しがけスタートがルーティーンだ。碓氷峠をカンココはすでに何回か走ったことがあり、ワンの前を走りながらラインとブレーキングポイントを教えていく。「タイ代表も意外とやるやんか」。離されずに付いてくるワンの緑色の派手なカラーリングのマシンをミラーに捉えて、ヘルメットの奥で少し嬉しかった。前半のポイントとなる121番コーナー進入までのスピードの乗りと121の抜け方を覚えてほしかったが、大丈夫だろうか。チラチラとミラーで確認しながら121をクリア

した。「オッケー、ボーイ、ついてこいよ」と叫び、アクセルをあおった。「その速さで日本人をタイ人恐怖症にしたれ!』。排気量や車体の差もあり、それほど参考にならないかもしれないと思いつつ、できるだけ軽量マシンで走るイメージにRZVを近づけて走っている。低速からトルクのあるRZVはダウンヒルよりもヒルクライムの方が向いている。それでもワンのマシンに合わせて、できるだけ高いギアでコーナリングスピードを落とすことなくスムーズにコーナーをつないでいく。ワンは、全てのコーナーをいかに無駄なく曲がるか、2サイク

ル150ccのパワーバンドをいかに外さずに走るか、体力をどれだけ温存できるか、午後に待つヒルクライムまでにどれほど体力を回復できるかわからない今は、とにかくベストなラインを覚えてマシンにも自分にも負担をかけないように考えながらカンココについて行くことに集中した。夏の暑さは本国と比べても随分と涼しく走りやすいので、気持ちに余裕があった。「やはり思った通りこのコースは2スト150に合っているな」カンココは排気量の差を苦にすることなく追走しているワンのKR150を見直しはじめていた。日本でも売れば売れ

るのに惜しいな、と思った。入門用として4サイクル250cc単気筒あたりが日本では良く売れているようだが、安く作れるこういった2スト入門用マシンもいけるという確信があった。このマシンを碓氷用にチョイスしたワンは見どころがあると思いはじめていた。下り後半部分はRの緩いハイスピードコーナーが多く、ベストなラインなら直線で100km/hオーバーとなる。速度にビビってアクセルを緩めるようでは優勝はおろか入賞も無理だろう。午後からの上りでは排気量差がモロに出るから、下りでタイムを稼ぐしかない。このレースが始

まったばかりの頃には悲惨なアクシデントが連続して起こった。全国から腕に覚えのある自信過剰ともいえるライダーが集まった結果、後半のハイスピードセクションで制御不能に陥り、天国から地獄までぶっ飛んでいくライダーが頻発した。その頃のことは語り草になっており、自然と注意するようになった。高性能のマシンのお陰で自分の腕が上がったように勘違いしてしまうライダーが多く、全開でスタートしひとつ目のコーナーで曲がりきれず、ガードレールの向こうへそのまま消え、自生しているモミの巨木に尻から刺さり絶命したライダーもい

た。運の悪いことに飛んだバイクからガソリンが漏れて引火し、木に刺さったまま火あぶりの刑になってしまった。消火も間に合わず、救急隊も現場にたどり着けず、本当に悲惨な事故で、あまりにも哀れだと地元の老人が詠んだ句碑が立っている。そういうアクシデントが続くと開催が危ぶまれるが、翌年度からは初めての参加者のためにオンラインでオリエンテーションが行われることになり、転倒やコース逸脱以外のアクシデントはなくなった。また、そういった恐ろしいトラブルのお陰で本当の初心者は恐れをなして出場を控えるようになったとい

う。

スタート地点に戻ったカンココたちは、ワンのマシンの整備を終え、片言の英語でコースのアドバイスを行っていた。「もしよかったら、今回のライディングギアにうちのを使ってみないか?」とカンココはワンに聞いていた。見どころがあるこのライダーなら上位入賞も可能だ。放送されたら良い宣伝になる。そう思ってのオファーだった。試着してみるとレザースーツの腕のあたりが少しきつくて、縫製をやり直す必要がありそうだった。「困ったなあ。今日はまだ職人さんが来てないねん」と途方にくれていたところ、梅ジュースをもらいにひょっこ

りと別府さんが現れた。今やレジェンドとなった別府さんは若い頃「皮があったらかぶりたい」が口ぐせの革職人だったのも有名な話だ。「簡単やー。まかせときー」とミシンでちょこちょこと修正し、ジャストサイズに納まった。一件落着したので皆で梅ジュースで乾杯し、それぞれがあたりを見渡しながらしみじみと「レースはええなあー」と物思いに耽っていた。嵐の前の静けさのようだった。


しんしんと肌寒い夜が更けていく。都会では熱帯夜が問題になっていたが、軽井沢では熱帯夜などありえない。午前0時とともにコースが閉鎖され、ピットから慌ただしく出ていくマシンはなくなり、軽井沢に静寂が訪れた。前夜も午後6時を過ぎた頃から、霧が街を包み始めた。高原の軽井沢では夏によくある現象だ。霧に包まれるとほとんど何も見えなくなる。幻想的といえるが、最後の調整をと頑張っているピットクルーやメカニック、ライダーにとっては酷な話だ。ほとんど走れなくなるのだから。そうなると運を天に任せてピットで大人しく過ご

すしかない。ある者はこれまでの道のりを思い出し、ある者は勝利の美酒に酔う姿を想像し、ある者はセッティングに悩み、ある者は恋に悩み、それぞれが思い思いの夜を過ごしていた。

スタート地点のあるピット前は、軽井沢の駅舎と道路、森に挟まれている。人がいなければ本当に静かな場所だ。ここなら早朝からマシンに火を入れても文句を言う人はいない。だからといって、あちこちのキャンプ場ではしゃいでヒンシュクを買う大人のように、酒を飲んで大騒ぎするほどのことはなく淡々と落ち着いた時間が流れていた。そういう静けさの中で純粋にタイムを競い合うストイックな雰囲気が好きな者たちが集まっていた。たまたま場所に恵まれ、軽井沢の教会やロータリーからも離れているが、ここは本当に日本なのかと思うくらい、

夏の観光地らしくない雰囲気に溢れていた。昔は中山道として多くの旅人が通ったこの場所も、現代の旅人はほとんど来ない。レンタサイクルでコース周辺をウロウロされても困るが、1週間前から峠への自転車進入は禁止になっている。ただし、車はOKなので、ときおり観光客の車が入り込みセッティングを出そうと焦るバイクの大行列をひきおこしていたが、それでもここ国道18号線は今から40年ほど前にバイパスが完成したお陰で、わざわざ旧道を走る人は少なくなった。峠を登るため線路にアプト式の軌道が敷かれた鉄道が高架を走る通称メ

ガネ橋を観ようとたまに観光客が訪れるか、昔を懐かしんで走りに来る年寄りライダーくらいしかいない。イニシャルDで有名になったインパクトブルーの180の姉ちゃんもいない。終点近くには映画「人間の証明」で有名になった霧積温泉への入り口がある。夏の渓谷に麦わら帽子を飛ばしてしまった少年の、母を想う悲しい映画であった。コースから近くて便利なその温泉を根城としてレースに参加している人もいる。広島の暴れん坊と呼ばれている松本氏だ。普段はドゥカティ2988やガンマ800で中国地方から近畿地方を荒らし回っている。

気合と根性で走るタイプで、昨年はコースレコードを上回るペースで走りながら、「これは新記録誕生か?」と期待されたが、ヒルクライム121コーナーでイノシシが飛び出し、ガンマごと崖下にぶっ飛んでしまい、松本氏は今でも首が曲がったままだ。幻のイノシシコースレコードと呼ばれている。冬の間は温泉に入って曲がった首を癒しながら、虎視眈々と今年のレースに賭けている。軽量小排気量が有利とされるこのコースで、ドリフトを多用しインジェクション仕様のガンマを駆る。ベンチで400馬力を絞り出している。負けず嫌いの代表のよ

うな暴れん坊だ。いつもは広島で牧場経営をしている。乳搾りが大好きらしい。峠のあちこちに豪快にブラックマークを残し走り去る。ファンも多く、マン島TTを走っていたガイ・マーティンを彷彿とさせるライダーだ。昔は下半身も暴れん坊だった。首が曲がってからは大人しくなったと人は言うが、とにかくドラマチックなおっさんだ。ゲンを担ぎ、前夜の夕食は温泉で「ぼたん鍋」を堪能していた。


 その昔、この軽井沢から北に向かった浅間山の向こう側で日本初のオートバイレースが開催されたことを今の若いライダー達は知らない。当時のコースといえば、今は舗装された綺麗な生活道路に変わってしまい、あの頃の火山灰が積もった高原のコースの面影は全くない。鬼押し出し近くの二輪車博物館でわずかにわかる程度だろう。軽井沢はそんな二輪の歴史あふれる場所なのだが、そういったことさえ知らない世代が増えたことには少し寂しいものがある。浅間山を登りきり、深夜の料金所手前でエンジンを切り、静寂に耳を澄ますと、古のエキゾ

ーストノートが聞こえるような気がする。浅間山の北側は群馬県なのだが、北軽井沢と呼ばれている。深夜、この場所で車のヘッドライトを消せば、本当の闇が訪れる。現代人は闇を知らないというが、ここにはまだそれが残っている。


現代のレースコースは、ちょうど軽井沢駅前の交差点から東を閉鎖して、マン島のように2台ずつペアでマシンをスタートさせる。3分間隔で次のペアがスタートする。碓氷峠には184のコーナーがあり、ダウンヒルは184番から始まる。スタート直後の直線では排気量のあるバイクが先行するが、峠に入ると小排気量のバイクの方が優位になる。コース終盤になると車重のあるバイクはブレーキが熱くなりすぎて、止まれなくなる。曲がりきれずガードレールに突っ込む者や転倒する者も多く、コースに慣れた地元ライダーが有利なコースといわれる

理由はそういうところにもある。運が悪ければ、マシンもろともガードレールの下をくぐり抜けて落ちてしまう。そうなると引き揚げるのも大変だ。競技が終わるまで待つしかないが、怪我がひどい場合はそうはいかない。場所により、群馬の病院行きか長野の病院行きかに分かれる。コース内での合図は旗を振る代わりにコーション信号機が示してくれる。厄介なのはオイルだ。その確認のためだけに、5組ずつ走った後からボランティアのライダーが試走する。大阪代表の別府さん95歳はカワサキのライムグリーンの名車KR500レプリカ「通称:

緑のたこ焼き号」で参加し、コースオフイシャルとして何度か試走することになっていた。2000年前後から各地で二輪のミーティングが開催され、RG400ガンマ改のKR500ガンマはそのカスタムの完成度の高さとカスタムに賭ける執念で人気を集めていた。今回もSNSで別府さんが走るという噂が全国を駆け巡り、今年はその姿を観たいファンが全国から詰めかけていた。実際の別府さんは、腰もヘロヘロでよぼよぼのじじいだが、このマシンに跨ると、驚異のライディングを発揮する。膝擦り肱擦りは当たり前でケツまで擦る。ダミータン

クからはネコのプーちゃんが顔をしてハング・オンを決める。そのスタイルで圧倒的に峠小僧から支持を受け、一目見たい少年少女たちが集まってきていた。またマイクを握らせても、この人はきみまろか?と思わせるほどエロ漫談パフォーマンスが面白く、若い女性からも大人気だった。R-1グランプリに出たら優勝間違いなしなのだが、業界からは来ないでくれといわれており、出場しない代わりに毎年アベノハルカスの御食事券を受け取っているらしい。この日は嬉しいことに、軽井沢のペンションから本物のKR500を駆り出し、神戸の清原さ

んがライディングすることになっている。そして今年の競技の最期にはケニー・ロバーツが駆るYZR500とフレディ・スぺンサーが乗るNS500、片山敬済氏のNR500、水谷勝氏のRG500が横川をスタートして4台でツーリングし、軽井沢にやってくる。大トリはバレンティーノ・ロッシ選手がポケバイで先導するポケバイ小学生軍団が峠を上ってくる予定になっている。なんと最後尾はジョナサン・レイ選手が務めるという。それだけでも有料でテレビを観る価値があり、世界的に注目を集めている理由がわかる。また、この競技の興味深

いところは、全国の峠小僧だけのイベントではないところで、CB750K0やZ750RS、メグロ、カワサキマッハ500、スズキカタナ1100、ヤマハRZV500R、ショベルヘッドのハーレーなどで参加するライダーがいることでもある。今や旧車と呼ばれるノスタルジックなマシンが最新のスーパーチャージャー搭載のマシンと並走する。シリンダーヘッドからガツガツと火花を散らすBMW、赤と緑が目を惹くドゥカティMHRなどの本気走りを見られる年に1度のイベントは、日本中のライダーの憧れのステージとなり、いつしか碓井峠

は聖地と呼ばれるようになった。そして、それを証明するかのように、ヒルクライムのコースレコードはカワサキ750SSを駆る地元上田市のバイク屋店主の山崎氏がたった1度の挑戦で3年前に記録したものだった。その翌年にスーパーチャージャー搭載のカワサキH2にハイグリップタイヤを装着してマルコ・メランドリ選手が必死でタイムアタックしてもその記録を破れなかった。しかも山崎氏がレコードを記録したときは、No.134と133の連続ヘアピンで連続ハイサイドを起こしたという伝説がある。その年はたまたま参加予定者のキャ

ンセルが続き、急きょ地元のバイク屋に出場者を探すよう主催者側から声がかかった。探すアテがなかった山崎氏は仕方なく自分で出ることにした。その結果がこの快走だった。ブルーの750SSはいつも店に展示していたもので、発売当時にカワサキの社内ライダーがレースをするために使っていたパーツでチューンされ、シリンダーヘッドは水冷になっていた。自身は滅多にバイクに乗らず(車検あがりの客のバイクを試走する程度)、もっぱら修理に励む日々だったが、若い頃によく走った碓氷峠なら少しは自信があった。出場を決めてからは、家

族や客にも内緒で少しずつ整備していた。山崎氏がバイク屋を始めた頃よりもずっと昔から、この峠にはいろいろと不気味な話があった。最近は夜中に首なしライダーが走っているのを見たとか、崖下から這い上がってくる血まみれのライダーを見たとか、前方からヘッドライトが近づいてきたと思ったら人魂だったとか、怪談話も多い。元来、戦国時代にはこのあたりは合戦が行われた場所も多く、落ち武者伝説も多かった。なにしろこんな山の中なので山賊や追いはぎも多く、旅の途中で命を落とした旅人を弔う墓標も42番コーナーの下に残っている

。霧の中から霊に手招きされたとかの話は不気味きわまりない。それでも鈴鹿8時間耐久レースとの対比から、こちらのレースの方に魅力を感じるライダーが増えてきた。鈴鹿の方は本気のファクトリーが大金を積んで有名ライダーを呼び、300馬力オーバーのファクトリーマシンに乗せてガチで勝ちにくる。感覚的にあまりにも庶民とかけ離れたレースの世界にしらけてしまい、今の若い世代には、その本気さが受けず、鈴鹿から足が遠のいた人も多いという。あのヨシムラでさえ、鈴鹿を休んでこっちに出ようかと思っているとかいないとかいわれて

いる。もちろん今も昔のようにその影響から、全国各地の峠で無茶な走りをするローリング族が問題になっていたが、本気で碓氷を目指すライダーとは一線を画し、愚かなローリング族は自分たちで自滅の道を歩んでいった。結果的に事故が増えて閉鎖され自由に走れる場所がなくなり自業自得だった。もちろんその前に、いい歳をして珍妙な改造で騒音をまき散らして集団で走っていた珍走団が、大規模な取り締まりによってバイクを没収され、口で音を真似して集団で歩く珍歩団になっていった。


 今年は10回目の記念大会だ。三重県から参加した高校生・森盛男は両親や友人たちとやってきていた。今回使用するマシンはRG50γ改。本人は名車だと信じている。発進のトルクは弱いがパワーバンドに入ってからの伸びは自分の中では最高で、小さなカーブが連続する碓氷峠に合っていると思っている。伊賀忍者の子孫である彼は日々このマシンで伊賀の山の中を走り回ってトレーニングに励んでいた。全国からやってきた峠少年の代表のようなわかりやすいライダーだ。自身はガソリンスタンドでアルバイトをし、将来は地元JAの職員として

給油所で働くことを夢見ている。自慢のマシンは、NS-1・TZRなどの50ccを乗り継いでたどり着いたRG50γ。16歳の誕生日に免許を取得するはるか前から、自宅近くのおすみスポーツランドのコースで走り腕を磨いていた。今のマシンには、ポート研磨、80ccボアアップ、井上ボーリングでのシリンダー・ピストンの加工、インジェクション、カーボンのリードバルブ変更、バイト1年分をかけたチタン特注チャンバーssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssss

ssssssssssssssss、ラジエター変更、フレーム・足回り強化など、工業高校の生徒であることを生かし自らの手で細部までこだわって作り上げたパーツとセッティングに自信を持っている。このマシンには、ここ一番でのパンチ力に絶対の信頼を置いている。先月に一度、軽井沢まで遠征し丸2日間走り込んだ。最初は連続するコーナーの複雑さに戸惑った。コースを覚える予定だったが、あまりの楽しさにいきなり本気モードに突入してしまった。コースはクローズされていないので対向車もやってくる。「飛ばしすぎるな」。インカム

から父の声が聞こえ、少し冷静さを取り戻した。後ろからNSRで父が追ってきている。父の走りはセオリー通りでクレバー、非常にスムーズに見える。碓氷のようなコースでは低速からパワーのあるNSRのようなバイクが向いている。NSRにはナビが装備され、次のコーナーの様子がインカムで盛男に伝えられる。「アウトから3速全開でいける」「2速まで落として半クラで立ち上がれ」「次は複合、早めにクリッピングにつけ」「路面が荒れている」といった情報をひっきりなしに伝えながら、背後から盛男の走りを観察している。盛男といえば

まるでブレーキをかけていないようなスピードでコーナーに進入し、ひたすら次のコーナーを目指していた。「雑技団か」と父は息子のライディングを後方から眺めて笑ってしまった。サーキットでもないので、それほど大袈裟な体重移動等は必要ないが、余程気合が入っているのだろう、外足を踏ん張っているのがよくわかる。排気量とパワーのハンディを、コーナリングスピードでカバーしようと必死だった。気になっていたタイヤも、一般的なハイグリップタイヤで十分なグリップを得ていた。走り慣れた伊賀の山奥の峠道と何ら変わらない。地元で

走り込んだおかげで、タイヤが少したれてきてグリップが落ちてきた感じもわかる。何よりも、マシンの限界がわかるようになっていた。この日の試走で盛男のガンマはコーナー立ち上がりで半クラッチを使い過ぎて少しずつクラッチの滑りを感じ始めていた。後続の父からは盛男の焦りが見えていた。「弱点はクラッチ。本番ではクラッチを強化してみるか」と父と息子は感じていた。あの試走から3週間たち、盛男たちは軽く流すつもりで明日の本番に備えて最後のセッティングを詰めていた。タイヤも普段から使い慣れたメーカーとし、あとはピット

に戻ってオイル交換すればよいだけだ。時折木々の間に野生のサルが顔を見せている。伊賀の山中と変わらない。そう思うと少し落ち着いてきた。碓氷峠の旧道は長野側から群馬側へは緩やかな下りになっているが、実際にその方向に走ってみると、意外にアップダウンは少ない。連続するヘアピンカーブがある134番133番コーナーで熱くなった頭を冷やしながら、前半最大の見せ場となる121番コーナーを目指す。父が若い頃には121番コーナーの外側に多くのバイクが停まり、ギャラリーコーナーと呼ばれていた。ここをアウトインアウトで

走ろうとすると、出口が狭くなっており、曲がりきれない。ブレーキングしながらもう一段回、バンクさせる必要がある。パニックになってブレーキを強く握ったり、体を起こしたら終わりだ。ガードレールの餌食になる。父は何度も死にそうになった。だからここの走り方だけは、しつこいくらいに盛男に伝えた。自分が走っていたあの頃から半世紀も経っていないが、今日のような競技会が開かれる時代が来るとは夢にも思わなかった。しかも息子が走ってくれるという。嬉しくも誇らしい気持ちで、追走しながらにやついてしまう。昔の自分ならこの

NSRでどう攻めるか、パワーを持て余しながら、少しずつ本気モードになってきた。盛男にSDR200くらいのマシンがあればなあと考えながら走っていた。大会前日ということもあり、出場する多くのライダーや偵察部隊が下見を兼ねて試走に来ていた。先ほどから後方からテールを突いてくる黒い500のウォルターウルフのガンマは滋賀の甲賀忍者の末裔といわれる犬丼さんという70還暦ライダーだ。伊賀忍者の子孫対甲賀忍者の末裔。しかも双方ともカワサキの忍者に乗っていないあたりが間抜けだ。このおっさんには何度か近所の道の駅で

会ったことがある。前後輪のホイールをマグネシウムのレース用ダイマグホイールに交換し、前後ブレンボでブレーキを強化している。ローターはフローティングだ。フロントサスはホワイトパワー製、リヤはオーリンズ社製だ。この素晴らしいマシンに弱点があるとすれば、還暦ゆえの体力不足か。アウト側から非常に思い切りよく倒し込む。支える力がなくて、倒し込んだ勢いで倒れてしまうこともよくある。今回の競技は、タイムや順位を狙うより、完走して釜飯を食べることに主眼を置いていた。森親子がペースメーカーとなり、犬丼さんはテンポ

よく下見をすることができた。「横川に着いたら釜飯を食べよう」と釜飯のイメージを頭の中に思い浮かべたときに気が緩み、不意にフロントがスリップし山側の土手にクラッシュした。碓氷峠は落ち葉が多いので、路面状況には特に気をつけないといけないのだが、年のせいで目がかすみ落ち葉がよく見えていなかった。幸い転倒のダメージはカウルの傷のみで、スペアカウルと交換すれば気にならない。しつこく追尾していた厄介な黒いガンマが消え、森盛男親子は後半を流して走り無事に横川に到着した。

 スタート直後の直線は全開で目印のポールがあるブレーキングポイントできっちりと速度を落とさないと曲がりきれずヤバいというのが親子の共通した意見だった。4速8,000回転くらいでぎりぎりレッドゾーン手前あたりで我慢するか。184直後から目いっぱい集中しないとリズムに乗れない。とにかく集中力を途切れさせないようにしなくてはと盛男はひそかに感じていた。実は夜明け直後の碓氷峠全線上りと下りの2本の映像を持っている。伊賀のインパクトブルーを名乗る母ちゃんがブルーのレガシーで早朝に走って撮影したのだ。盛男は

毎日それを観てイメージトレーニングに励んでいたので、峠の大体の感じはよくわかっていた。ただ、コーナーがこれほど連続する所は伊賀にはなく、最後は体力勝負だと考えていた。体力が落ちれば気力が無くなり、集中力が途切れる。そうなると漫然とした走りになり、気の緩みが生まれライバルから置いていかれる。ツーリングではないのだから。本気で勝負する全国から集まったライダーにも申し訳ない。傍らで眠る母ちゃんのイビキを聞きながら、レースを戦うことの孤独を感じていた。家の近くのおすみスポーツランドのレースでも、フィリッ

プアイランドのスーパーバイクのレースでもライダーの思いは同じなんだろうなぁと考えていた。そこに辿り着くまでの労力は一人でできるものではないし、チームによって事情は違うだろうが、全てが揃ってさあ乗れとマシンを差し出されたら、あとはライダーの責任だ。コケたら終わり、タイムが出なければ努力は報われない。ここに来るまでどんなにお金をかけても、結果が出なかったら、誰からも認めてもらえない。金をかけてないのも同じ。シビアな世界のことを考えたらますます眠れなくなり、意識して目を閉じるのだった。

日光からは改造モンキー軍団子猿チームが大挙してやってきていた。ここ碓氷は日光から近いと言えば近い距離にあり、カスタムパーツも豊富なモンキーはマシンを仕上げやすい。レーシングモンキーに保安部品が付いただけのようなマシンのコーナリングスピードは群を抜いて早い。歯切れの良い音を残してあっという間に消えて行く。それだけを観ていると、この峠最速はモンキーかと思ってしまう。子猿は下りは良いが、上りで弱い。そこをどう補うかがポイントだ。続いて少し変わったゲロゲーロという排気音のKR350S赤黒で迫ってきたのは

神戸からやってきた柏さん。パン職人の柏さんは六甲最速のKRと呼ばれ、地元では秀吉の再来と語られるレジェンドだ。そんな男がついに碓氷にやってきた。六甲最速とは自分で呼んでいるだけで、秀吉の再来と語っているのも自分だけだ。もう六甲を走れるようなコンディションのKRはこの世に存在しないから六甲最速のKRなのだ。しかも、バリバリ伝説の秀吉を知るライダーもいないから、秀吉の再来といっても「それ、ちゃうやろ!」と誰からも突っ込まれない。ギックリ腰のせいで、ライディングのリズムが悪い。ギクシャクしている。実は

そう見せかけて油断させ、本番で逆転する作戦なのだ。それが周囲を油断させる秀吉の戦術で、秀吉の再来と言われる所以なのだ。世間からはあまり知られていないが、KRというマシンはスリムで驚くほどバンク角が深い。タンデムツインのエンジンのお陰だ。目いっぱいリーンアングルを低くするために、ステップも短くし、サイドスタンドも短い物に変えて、極限までの軽量化を図っている。フレームも自作のカーボンモノコックだ。カウリングを外し、ネイキッド仕様にしたのも、燃料タンクをFRPに変えてあるのも、オイルポンプを外して混合

仕様に変えてあるのも勝つためだ。彼は勝つためなら何でもする男だ。地元では神戸の春団治とも呼ばれている。もちろん勝つためには嫁さえも質屋に入れかねない。ライバルを妨害するためには、イノシシを野に放つかもしれないし、関係者を買収するかもしれない。ホイール、サス、タイヤ、ブレーキすべてが現在の二輪のグランプリの世界で手に入る最高のパーツをチョイスしてあった。そのためフレームまでヨーロッパで特注し、エンジンもレーサーKRのパーツを使って350ccになっていた。どんなに深いバンク角でもスリップダウンしない

自信があった。六甲で鍛えたのは本当で、タイヤの選択にも絶対の自信があった。若い頃、オートレースで鍛えたので、限界近くでカウンターを当ててスライドさせるテクニックもあった。そのお陰で随分と腰の状態が悪化したが、カワサキの本拠地神戸からエントリーし40年も前のマシンを走らせることに誇りを持っていた。それを聞いて今回、カワサキ本社からは当時のチャンピオンマシンKR350の試作品チャンバーが倉庫の片隅に転がっていたけど、欲しかったらやるよと、チタンのチャンバーやロータリーディスクとセッティングマニュアル

の提供を受けた。さらに今回のエントリーにあたって、当時世界グランプリをA・マンクとともに転戦したメカニックを世界中から3人も呼び寄せてくれた。皆さんの平均年齢は90歳を超えているが、排気音を聞いただけでキャブの状態がわかるほど、柏にとっては非常に力強い助っ人ばかりだった。ブレーキング時のフォークの沈み込みがどうだ、アクセルオンしたときの伸びがどうだ、とマシンの挙動が気になるメカニックは、認知症のせいか本人の挙動も怪しかった。いつの間にかいなくなると、ついつい隣のピットに行って可愛いレースクイーン

にちょっかいを出している。

 その隣のテントの名古屋からやってきていたNS400R改ロスマンズの福田は、この日のために軽井沢に住んでいる。せせらぎの小道にある別荘を購入し、夏の間だけそこに住み、毎日碓氷を走ってトレーニングしている。学生の頃から、勉強でもスポーツでも、覚えるためには繰り返し繰り返し練習あるのみと信じていた。幸い、実家が裕福で熱海に所有していたリゾートマンションとクルーザーを売却し、軽井沢で小さな別荘を手に入れた。お手伝いさんを雇い、単身赴任のような生活だ。こちらに来る前に一度、マシンに大きなトラブルがあった

。インシュレーターからのエア吸入が大きく、高速でピストンに穴が開いてしまった。よくあるトラブルだが、以後のメンテナンスは念入りに行うようになった。オイルも銘柄にこだわるようになった。腰上を修復するついでに世界中で販売されていたレーサーマシンのNS500のパーツをあちこちから取り寄せ、排気量をアップすると同時にパワーも300馬力を軽く超えるほどまでに仕上げていた。碓氷のようなコースは彼の性格に合っていた。聡明な彼はコースを覚えるのも早い。毎日走っていれば、どこまで無理できるかわかってくる。攻めるも

守るもわかってくる。だから、歯を食いしばって必死になることもない。肩の力を抜いても実力を発揮できる。元々、家から近い鈴鹿サーキットを貸し切って走っていたので、経験値も適応能力も高い。非常にスムーズな走りで、無駄がない。さらっと流しているようで実は早い。ゴリゴリと走る広島の松本氏とは対照的だ。資金量も豊富で、今回のレースのためだけに10人のピットクルーを雇っていた。もちろんスタート地点でパラソルを差してくれるモデル並みのレースクイーンを3人も連れてきて、松本氏を羨ましがらせていた。しかも自慢のマシ

ンは実はもう一台同等性能のスペアも用意していた。タイヤも各種メーカーのものが用意され、ウエットの場合に備えてレインタイヤも用意されている。前日の試走でダンロップにするかミシュランにするか決めるつもりだった。感覚的にはダンロップがいい感じだったが、ミシュランは左右でコンパウンドを微妙に変えてあり、下り全開で攻める右コーナーの方が左コーナーよりも多いことから、少し迷っていた。ヒルクライムではフロントの16インチは切れ込みやすく、タイヤのチョイスは重要になる。下りでもどうしてもフロントタイヤを酷使する

ので、タイヤに関してはとてもナーバスになっていた。この競技はなにかひとつ欠けても優勝できない。そのことを誰よりも知り、決して妥協しないことを自分自身に誓っていた。最後のコンマ1秒まで諦めない。当然ながらブレーキはカーボンディスクに替えてある。ライダーの執念の塊のような男だった。今回のNSで勝てなければ、世界中からNR750を買い集めてこのレースに投入してもよいとさえ思い詰めていた。

北海道からやってきたなべちゃんは、松本氏や福田とは対照的な男で、出場マシンはスズキハスラー400。2サイクル単気筒400ccの古いマシンである。夏の間は小諸市の友人シゲちゃんの家の庭先にテントを張りほとんど自炊生活を送っていた。テントを含めて生活道具は全部ハスラーに積んで北海道の苫小牧からやってきていた。所持金はほとんどなく、行く先々でアルバイトをしていた。軽井沢に到着しても、次の日には浅間山の牧場で働いていた。この男は風来坊のように見えて、実は獣医師なのであちこちの牧場や酪農家からは大歓迎され

ていた。人懐こい性格で誰からも好かれ、また来年も来てねーと皆が待ち焦がれていた。バイクの腕も、北海道のダートで鍛えた体力とテクニックと2スト400のパワーに加えて、持ち前の精神力と集中力で、碓氷のような峠を得意としていた。タイヤはツーリングしてきたときのまんまだが、自分にはこれが一番乗りやすいと感じていた。他のマシンが軽量化に励むところを彼だけは、非常食のどさんこラーメンや木彫りの熊などを積んで郷土色で仮装し、人気を集めていた。しかも本名ではなく「なべちゃん」だけで通しているミステリアスなライダ

ーだ。「熊出没注意」のステッカー以外、ほとんど整備らしいことは何もせず、タイヤの空気圧を計っただけで前日も練習もせず北軽井沢の牛舎で壊れた柵を修理していた。

このなべちゃんの友達といわれる中国地方から出場している池谷さんは、誰もが羨む懐かしのZ400FXでの出場だ。専属メカニックに愛知のレジェンドメカニック澤田さんが随行し、セッティングからライディング、生活の全てまで口を出ししてくる。気に入らないことがあると工具を投げて壊す癖があり、穏やかな池谷さんとは対照的だ。この人の乗るFXには特別なカスタムはないように見えるが、澤田理論による徹底したエンジンのバランス取りやフレーム・サスペンションの強化、ライダーの体型に合わせたステアリングやステップのポジショ

ン、軽量カーボンホイールに加え、スーパーチャージャーとインジェクションシステム搭載などにより、3速でもフロントが浮くほどのパワーを秘めていた。穏やかに大人しく走っているように見えて本当はすごく早い。同時スタートした相手ライダーは必ず驚く。それもそのはずで、メカニックの澤田さんはAMAのスーパーバイクでMVアグスタから乞われてチーフメカニックとして転戦していたものの、工具を壊し過ぎるという理由でクビになったが、腕は確かなものを持っている。気難しい男だが、なぜか池谷さんとはウマが合った。彼の作る過激

なマシンは邪道と言われていたが、池谷さんはどんなに過激でも乗りこなし、実力的には中国地方のサーキットでも古いTZ250でコースレコードを出すほどの実力を秘めていた。それでも4ストのZ400FXで碓氷TTに連続して出場し、4スト乗りのライダーからは神様のように崇められ、今回も多くのファンからマシンやヘルメットにサインを求められていた。島根出身というだけでほとんどマスコミや二輪の媒体に顔を出すことなく、元アマチュアレスリングの選手だったというだけでなべちゃんと並んでミステリアスだった。ただその人柄か

らファンも多く、インタビューなどの口癖は「だんだん」だった。全国のFX乗りから慕われ、今回の大会にも全国からFX乗りがチームの旗を持って集まってきていた。昔なら乱痴気騒ぎに発展するような奴らばかりだったが、池谷さんの一声でおとなしくまとまっていた。噂ではイニシャルDの池谷さんのモデルになったと言われていたが、本人に確かめても笑ってはぐらかすだけで、真偽のほどはわからない。車の免許は持っていなかったのに。どういうわけか臨時のFM局でシカゴの「素直になれなくて」をリクエストしていた。

昨年までにベスト10入りしたライダー以外に、今年も新顔が30人ほど増えていた。去年10位以内だったからといって、今年も入れるとは限らない。初挑戦で優勝するかもしないし、昨年優勝したからといって今年も上位に入れる保証もない。パワーがあるから優勝できるわけでもなく、パワーがないから勝てないということもない。午後から天候が崩れれば、排気量が大きいバイクの優位性は消える。マシンの特性を知り、コンスタントにベストなラインでコーナーを結ぶことができるライダーが早い。飛ばせる場所は飛ばし、ゆっくり回る所は速度

を落とし、そんなメリハリのある走りが求められていた。ある時期は2スト125ccが流行ったり、4ストのモタードのようなものが流行ったりした。いまでもその名残はある。今年の新顔で瀬戸内海に浮かぶ広島の無人島からエントリーしている二宮さんは昔懐かしいXL250S改モタードでの出場だ。瀬戸内のミカン畑に広がる勾配のきつい山道を得意としており、ハイグリップのリヤタイヤを振り回すライディングは十分に上位を狙える走りだった。エンジンにも手を入れており、ワークスレーサーXRのパーツがあちこちに使われ、ノーマルの

パワーの2倍以上を軽く絞り出していた。もちろん足回りにもNSRのパーツがごっそりと使われ、一目見ただけではマシンのメーカーも排気量や車種さえもわからないほどだった。今年は広島レモンがスポンサーに付いたのか、マシンとヘルメットがレモン色に塗られていた。ヘルメットはそのまんまレモンだ。もちろんこの大会にはそんなスポンサーを背負ったマシンが大半だった。モタード軍団なども千葉あたりから珍走団と一緒に大漁旗をなびかせてやってきていた。珍走といっても本物の走り屋集団もいるので、チームの中から選りすぐりの乗り

手が選ばれてこういう舞台にもやってくる。カスタムは定番の珍走ぶりだが、金をかけているのと根性があるので結構速い。落花生のマークを付けてるのに想像以上に良いタイムを出している。本気のレーサーレプリカやSSと混走するので、異様な感じはするが、見ている方は面白い。最近は定点カメラだけではなく、ドローンや車載カメラも使ったりするので、テレビ的には面白い画が撮れる。峠の山の中の孤独な攻防が上空から見られている。ライダーからすれば、どこから見られているか気にならないのでレースに集中できるというメリットもある

。松本氏がレコードタイムで突っ走っていたときは、飛び出したイノシシがカメラにアップで映り、会場全体がどよめいた。そういうアクシデントまでもが映ってしまう怖さもある。どのマシンに搭載するかは主催者側とライダーの話し合いによって決まる。カメラを搭載する場合は、エントリーフィーが少し安くなる。前部と後部で少し異なるが、前後に搭載するとあとから映像をもらえる。ただし2キロほどの重量増になる。自分の走りを観たい参加者は、一緒に走るマシンの後部にカメラがある場合に走り終えたあとからデータを譲ってもらう方法で

手に入れていた。追走するマシンからの映像は迫力があり、ブラックマークを残す松本氏の800ガンマでの走りは、観る者すべてが驚愕し感動した。大会後にDVDが販売されるほどの人気で、地方のプライベーターながら大手外資系企業のスポンサーがついている。また、ファクトリーに近い有力なレーシングチームからもオファーが来るなど、街道レーサーからスターになるというシンデレラドリームのようなライダーだった。不運なアクシデントで首が曲がってしまった松本氏は、そのせいでNHKの朝の連ドラ出演の道が絶たれてしまった。何か

とスキャンダラスな松本氏との共演を心配していた主演女優が「イノシシさんのお陰でほっとしましたわ」とコメントを出したのも今となっては懐かしい話だ。

午前零時を過ぎ、それぞれのドラマを秘めて碓氷峠の東側のピットエリアは静かに息を潜めていた。ときおり、ピットで明かりが動く。眠れないライダーの話し声が聞こえる。九州の久留米から来ていた女性シナコは、地元に双子のわが子を残して参加していた。愛車はモトグッツィのレーサーレプリカV7だ。「1回だけでいいから出てみたい」と家族に頼み込み、九州から長野県まで自走してやってきた。ほとんど知り合いは誰もいないが、カンココだけはSNSつながりで昔からの友達だった。マシンのことで頼れるとすればカンココだけだ。少しの

寒さを感じながら眠れずにピットロードをふらふらと歩いていた。前日の練習走行で手ごたえはあった。手元の簡易計測ながら去年なら10位までに入れるタイムを出していた。「母ちゃんはやるよっ」とスマホに残した娘たちの写真を見ながらつぶやいた。地元久留米では高校生の頃からブラックのZⅡを転がし、知らない者がいないほど有名なじゃじゃ馬娘だった。いつでも全開の怖いもの知らずだったが、その腕前を試すことなくいつしか二輪を降り、ベビーカーで散歩中に目に入ったのが、たまたま通りがかったバイク屋の前に停まっていたモトグ

ッツィのマシンだった。レーサーレプリカのこのマシンの丸いゼッケンプレートが気に入り、その場から動けなくなった。『こいつは走る!』変わったエンジンのこのバイクは自分のために存在していると感じた。シャフトドライブのクセはほとんどなく、ZⅡより走りやすく軽くて早い。さすが生まれつきのレーサーマシンだ。特別にパワーがあるわけではないが、乗りながらセッティングを詰めていった。イタリアからパーツを取り寄せ、パワーアップも図った。ゼッケンプレートには自分の名前シナコから「47」をつけた。娘が生まれた今となって

はあまり無茶もできないが、根性だけなら日本中のどんな男にも負けない自信があった。しかし守るものができた今となっては、そのため以外に自慢の根性を見せることはない。「青春の忘れ物か」。たった1回きりのチャレンジになるが、どこまでやれるか勝負してみたい。そんな思いはカンココにも十分すぎるほど伝わっていた。カンココは試走後のメンテナンスを引き受けてくれた。「よく整備されているから、ほとんど何も手を入れる必要ないでえ」とカンココは言っていた。ブレーキパッドの残量を確認し、ミッションオイルの交換、タイヤのチ

ェックを行い、各部を増し締めするだけで終わった。カンココはタイからやってきたワンのほかに久留米からやってきたこの女性ライダーも応援していた。無事に完走させてやりたいと思っていた。「1回でいいから出場させてほしい」と家族に頭を下げて、この場にやってきた多くのライダーの中でも、この二人は特別だった。それほどまでにライダーを魅了するものが碓氷峠TTにあった。人生を賭けるほどに価値のあるものだと信じているライダーもいるだろうが、たいていは理解されなかった。最高峰のレースは限られた一握りの超人だけの世界だ

が、碓氷は違った。アマチュアでも手を伸ばせば届く。なんとしてもこの場所に身を置きたいと強く感じてしまう。勝ち負けではない。今回の大会でたった一人の女性ライダーということで注目も集めていた。久留米の方言丸出しでインタビューに答えていると人気が出てきた。モトグッツィジャパンからサポートの申し入れもあった。「気持ちだけもらっとくばい」とサポートは断ってしまった。そんな男らしさも人気の理由だった。


夜明けを待つ間にピットの中や裏ではこそこそと動く人影があった。それぞれのライダーがドラマを抱えていたが、眠れない者が数人で集まってぼそぼそと話していた。たいていが、どこから来たか、マシンは何か、エンジン出力を聞いてきた。嘘か本当かはわからない。皆がすれ違うだけの旅人のようなものだから。誰も他人の深い事情にまで首を突っ込みたくはなかった。テルオは珍しくV-maxで参加していた。地元では飛ばし屋で通っていたが、V-maxで出るというと、他のライダーからは一様に驚嘆の表情が見えた。たいていが、「よくも

そんなバイクで出るなあ。勝つ気があるのか」という反応だった。あらゆるバイクを乗り継いできたテルオにとって、V-maxは必ずしも最高に早いバイクではなかったが、2年前に病気で亡くなったノリタカとの約束があった。古いCB750Fに乗るノリタカは歳を取ってからバイクに目覚めた遅咲きライダーだったが、本当にバイク好きで、V-maxと2台でつるんでよく走った。そして、いつか2台で碓氷TTに出場しようと誓い合った。しかし、それから数週間もしないうちに、流行の感染症であっという間に帰らぬ人になってしまった。一

晩中泣き明かしたテルオは、ノリタカとの約束を果たそうと考え、碓氷TTへの出場申込書を書き上げた。そして本格的にV-maxの改造に手をつけ始めた。元々パワーは十分あるから、足回りの強化と軽量化に徹した。家の近くの鈴鹿スカイラインを試走しても、明らかに違いがわかるほど、効果が表れた。出場する者のほとんどが、「やれるかもしれない」という思いを持っていたが、テルオも同じく、「このマシンならやれるかも」と本気で思っていた。幸いというべきか、V-maxはアメリカにおいてカスタムパーツが大量に販売されており、

極めつけはボルトオンターボやニトロのキットなども用意されていた。足回りもゼロヨン仕様から耐久仕様までありとあらゆるパーツが用意されており、資金次第でどんなマシンでも作り上げることができそうだった。それでもテルオは今のパワーに十分満足しており、今回の出場にあたってはサスペンションとタイヤ&ホイールだけ交換することにした。5月の連休を利用してツーリングついでに碓氷を走ってみた。同じようなライダーが多く走っていたが、「こんな程度で大丈夫だろうという確証があった」。大会が近づき、3日前から会場入りしたテ

ルオであったが、前日の練習走行で前年度ベストテンライダーたちの切れた走りを見たら自信がなくなり急に怖くなってきた。不安で眠れずピットロードでぼーっとしていると、ノリタカの声が聞こえてきた。「はよ寝なあかんやろ。明日に備えて」「わかってるわい」「ビビッてるのか」「ちょっと緊張してるだけや」「俺も走りたかったな」「後ろに乗せてやるぞ」「コケるなよ、コケたら痛いし」「死んでるやつが痛がるか」。あいつらしい応援やと思った。ま、ベストを尽くすだけやってみるか。眠れなければ、目を閉じているだけでもよいし。と

思い直し、ピットに戻ってシュラフに潜り込んだ。明け方になって眠りに落ち、ノリタカの夢を見た。2台でどこかの山の上を走っていた。よく行った青山高原のようだった。風力発電の大きな風車のプロペラにジャンプしたノリタカがプロペラの端につかまり観覧車のように一周回って降りてきた。「テルちゃんもやってみなー」といわれジャンプして飛び付いたら意外と簡単にプロペラを捕まえることができた。上の方まで上がって回りを見渡してみると他の風車にもたくさんの観光客がぶら下がっている。怖くて泣き叫んでいる人や、おしっこをちび

っている人。下りられなくて、もう一周回っている人など、人さまざま、人生いろいろだった。「あーすっきりした」と二人で笑い合って目が覚めた。睡眠時間は短かったがノリタカのお陰で頭はすっきりした。のそのそと起き出すと、メカニックのオサムがすでに起きており、ピットロードで知らない姉ちゃんをナンパしていた。姉ちゃんは福田のスタッフのモデルだった。「さすがオサム。朝からやるなあ」と声をかけたら、姉ちゃんが逃げていった。

夜明けとともに会場に活気が戻った。ただし規定によりエンジン始動は午前7時からとなっているので、ガチャガチャと工具を扱う音や話し声、マシンを倒して大騒ぎする声などが聞こえてくる。お約束のラジオ体操に備えてジャージに着替えて準備する人が現れた。レモンイエローの上下ジャージに同色の手袋と靴のおっさんがやってきた。広島の二宮さんだ。こんなところでもスポンサーを大事にしている。会場にNHKの朝のラジオ体操の音楽が鳴り響き、「ラジオ体操第一~」と始まった。強制的ではないが、準備運動の意味もあって、ほとんどの

ライダーが参加していた。


SDRとRGγの戦いも終盤を迎えていた。相変わらずデッドヒートを繰り広げているが、後半のハイスピードセクションにさしかかると、わずかにRGγが引き離しにかかった。給水タンクをぐるりと回るように3.2.1コーナーが連続する。この№1コーナーを抜けたら1kmほどの直線でゴールだ。前半にエンジンを酷使せずパワーを温存したのが効いたのか、峠を抜けて上空が開けたとたんに快走を始めた。中低速の山道からいきなり高速セッションに突入してもエンジンは良く回っている。マン島と見間違うばかりのスピードで差を広げている

。18号バイパスのトンネル出口の上あたりを大きくS字でクリアすると、あとは釜飯屋前のゴールまで全開となる。接戦を予想したが、意外なところで早めに決着がついたようだ。遅れをとっているといっても、タイム的に遅いというわけではなく、セッティングの差が出たというところだろう。SDRもかなりのハイスピードで追走している。No.1コーナーを過ぎたところでのタイム差は1.5秒ほど。開かず縮まず追走している。沿道からはクルーが後方とのタイム差をボードで教えている。このあたりまでくると民家も多く、窓から観戦してい

る人が応援する横断幕が見える。ボードの表示は1.3になっている。わずかにヤマハが追い上げている。しばらく左右に民家がある下り坂が続き、RGγには集中力がなくなってきた。焦ると焼き付きを恐れてアクセルを緩めるクセがあるが、先ほどから悪い癖が出始めており、手が震えて落ち着かない。「もう少しでゴールだ」ラスト200mの標識を越え、ゴールまで右手のアクセルに集中する。6速全開のまま前方のメーターを睨みながらタンクに伏せ続ける。耐える。焼き付きの恐怖と戦いながらゴールラインへの到着を待つ。やっとゴール。わ

ずかに前だ。スズキがコンマ3秒差で勝った。タイムは9分41秒4。ヒルクライムに繋がるタイムだ。わずかに敗れたSDRはタンクを叩いて悔しがった。しかし本当のところはそれほど悔しくはなく、これがベストタイムだった。ハイスピードで引っ張ってもらえたお陰で、午後の部に期待できるタイムが出せた。午後からの秘策はないが、自分ではヒルクライムの方が向いていると感じていた。午後の部のスタートまでテント内にマシンを運び、仮設スタンドで保管してもらう。その場で係員が簡単にマシンをチェックしてくれることになっている。

オイル漏れ、ネジの緩みなど、軽微な点検をし、午後からの出走に備える。SDRをスタンドに乗せ、タンクを両手で包んだ。ねぎらいの気持ちだった。「なかなかやるじゃないか」。RGγのライダーが話しかけてきた。「ゴールがあと10m先だったら抜かれてたよ」。「ありがとう。ハイペースで走ってもらえて感謝してるよ」。マシンにまたがり必死で追いかけている時のような憎しみはまったくなくなっている。「午後もよろしくな」。選手控えテントで、次のパーティーがやってくるのを待ちながら、腰を下ろして体を休めている。ものすごい

集中力を使うので、一旦、マシンを降りると、力が抜けてガクガクッとなってしまう。皆がぐったりしている。高校生の森盛男は初出場ながら原付で10分の壁を破った。なかなかできることではない。めがね橋のある34コーナーを越えてから、最後のロングストレートまでの間で排気量差が大きく出る。ずっと6速全開でタンクに伏せていた。前半の峠で余程頑張ったのだろう、放心状態だ。シナコは根性の走りで9分30秒フラットだった。排気量とパワーがあるので午後のタイム次第では上位入賞も期待できる。なべちゃんや池谷さんのほか数人の

パーティーがやってきて、いよいよ前年度のランカーが登場し始めた。Z400FXで出ると思っていた池谷さんが、急きょZ1Rで出場して皆を驚かせた。シナコに遅れること2秒。なべちゃんは3秒遅れで、本当は午後に賭けてるのよ~と笑ってくねくねしている。意外な伏兵の広島レモンの二宮さんが9分20秒を切るタイムでランカーの前に立ちはだかっている。「疲労回復にはやっぱりレモンですわー、昔から疲労回復にはレモンと言うでしょ」と満面の笑みを見せている。還暦だというのに、元気いっぱい。本当に広島のレモンは疲労回復に効

くのかもしれないと思わせる。タイから出場のワンはギリギリ10分を切るタイムで無事に走り終えほっとしている。二宮さんから広島レモンの飴をもらって疲労回復に励んでいる。「ドーピングに引っかからないか?」と心配しながら酸っぱい顔をしている。ワンのマシンは峠ではそこそこ早いが、スピードが上がってくると頭打ちとなり絶対的なパワー不足が現れる。ヒルクライムではトルクが重要になるので少し心配になってきていた。SDRなどと比べ50ccの差は大きいなあと感じていた。作戦としては、前半でエンジンを回せるだけ回して、

後半はやれるだけやるとしか考えられない。スリップストリームが使えるくらいマシン差のない相手なら好都合なのだが、今の所、午後からのペアは未定だ。不安な顔をしているとウンココのスタッフが声をかけてきた。「エンジンの調子はどうだ?スーツは良く似合ってるよ」「疲れましたわ」「がんばれ。ベストを尽くせ」「OK」と話してると六甲の秀吉こと柏さんがKR350Sで降りてきた。「最後のストレートで280まで出ましたでぇ~」といっている。嘘か本当か、さすがワークスマシンのシリンダーとピストンだ。ノーマルなら焼きつい

てぶっ飛んでいるスピードだ。タイム的にどうやら午後からのワンのペアは柏さんになりそうだった。「スタート直後から引っ張ってもらえればチャンスはあるかも」と少し希望が見えてきた。同じカワサキでも昔のワークスマシンとは思想が違う。東南アジアで売られている最近のマシンはどっちを向いているのかよくわからないが、ワンの国では走り屋の間でKRは大人気だ。今回の遠征でも仲間たちから多くのサポートを受けた。国に帰ればこのレースに出たい奴がいっぱいいる。地元タイでも開催できたら、という夢を持っている。開催のノウハウ

も含めて持ち帰りたいと思っていたが、今は目の前のレースを何とかしなくてはならない状況にあった。

午前のダウンヒルが終わり、大方の予想通り広島の松本氏が9分18秒のトップタイムをたたき出したが、予想に反してマシンをドゥカティのパニガーレにスイッチして出場してきた。慣れ親しんだ800γをあきらめたようだった。パニガーレの圧倒的な動力性能はあらゆるレースで恐れられていた。2番目は岡山の国際A級ライダーの唐津さんアプリリアRS250、3番目は福岡のノービスライダーのサルトルさんRX250初期型。4番目に二宮さんがくいこんでいる。5番手以降はほとんどタイム差がなく、福田さんが午後からの挽回を狙ってい

る。午後のレースは1時ちょうどにスタートすることになった。午前中のタイムが近い順にペアを組んで同時スタートとなる。総合順位は下りと上りのタイムを合算して決定される。しかも、ラジオ体操参加のハンコがあればマイナス1秒をプレゼントされる。早いライダーはヒルクライムでもダウンヒルと同程度のタイムを出す。非公式ながらオフィシャルで走行した別府さんのKR500γは二宮さんと同じくらいのタイムだった。さすがに2スト大排気量車は侮れない。ほとんど練習もしないでそこまで走れるのは、元レーサーの別府さんの腕と尻ス

リのテクニックもあってのことだ。別府さんとまともに勝負できるマシンはNSR250くらいだろう。それでも乗り手を選ぶが。

いよいよレースも大詰めとなり、松本氏のパニガーレと唐津さんのアプリリアが№184のコーナーを立ち上がり、全開でゴールに向かってきた。この二人のタイム次第では二宮さんの優勝が決まる。観客の視線がゴールラインに注がれる。ストレートで350km/h出る松本氏のパニガーレ改がゴールラインを先行した。電光掲示板のタイムは9分16秒。総合で二宮さんのタイムをわずかに上回った。広島勢のワンツーフィニッシュだ。最後までデッドヒートを繰り広げた唐津さんと名古屋の福田さんが同タイムで3位に入った。ハスラー400のト

ルクに賭けたなべちゃんが5位に入り、6位に池谷さんがZ1Rで続いた。驚きは7位のシナコだった。シナコのモトグッツィはこのコースに合っていた。リズミカルに峠を上り切り、ゴールまでのストレートで出るはずのない300km/hに達していたが、ゴール直前で火を噴き、火を噴いたままゴールした。注目のワンは10位に入り、ワンを引っ張ってきた柏さんは150番コーナーあたりで飛び出したリスを回避して腰砕けになり大幅なタイムロスとなった。それでも、「腰が治ったら来年も来るでぇ~」と笑っている。最後にバレンティーノ・

ロッシ選手が子どもたちのポケバイ軍団を率いて峠を上ってきた。燃料切れで回収されたポケバイが回収車とともにやってきた。ロッシ選手が子供たちとハイタッチしている。ポディウムでは松本氏が月桂樹の冠と副賞の野沢菜10年分樽を受け取っている。2位の二宮さんと肩を組んで赤い帽子を頭に乗せ「カープカープ」と赤ヘルの歌を歌っている。初出場ながら10位に入ったワンにはおやき100個の特別賞が与えられた。10位までに入賞の選手には翌年の参加資格が与えられるが、インタビューで二宮さんは「面白かったけえー、もう出場する

ことはないじゃろー」と言っている。同じく7位に入ったシナコも「もう十分満足したばい」と笑っている。森盛男は途中でマシンの調子が悪くなってリタイヤした。普段から酷使しすぎたせいで、クランクが焼き付いたかもしれない。今回、SDRとRG200γを見たことで、どちらかにチェンジしてみたいと父と話し合った。体重も軽い彼が乗ればかなり良いタイムが出せるかも知れないが、タマがあるかどうか。無くても家には父のNSRがあるから、三重に戻って出直しだーと、マシンを分解してブルーのレガシーに積んで帰って行った。父はN

SRで自走して帰って行った。

碓氷TTレースのエンディングは、この場所から西と東へ帰るライダーが、軽井沢と横川に場を移し、同時にスタートして碓氷峠の途中ですれ違いざまにピースサインで挨拶して別れることになっている。横川スタートのマシンをトランポに乗せてライダーもバスで横川へ向かう。東へ帰るライダーもスタートする準備をし、スタッフも先回りして横川で待っている。スタンバイできたところで峠の力餅屋から花火が上がり、両方から走り始める。

先人が歩いた中山道を今はライダーがバイクで走る。峠の道路は我が家に通じている。レースはツーリングに始まってツーリングに終わる。90番コーナーで先頭がすれ違った。ホーンを鳴らす者、パッシングをする者、ピースサインの手がだるくなってくる。ヘルメットの中から「ありがとう」「また会おう」と叫ぶ。涙で視界がぼやける。応援に駆け付けた観客も混じり、皆で軽井沢と横川に到着して荷物をまとめて帰り支度を始めるのだった。ワンは副賞のおやき100個を持ち帰れないので、会場で観客に配布している。今回の出場で得たことは大

きかった。国を超えてもライダーの想いは変わらず、モータースポーツに賭ける情熱を十分感じることができた。タイに帰れば、どこか適当な場所で同じような競技会を開いてみよう。優勝者には碓氷峠TTレース出場権のプレゼントをつければ人気が出るだろう。いつか今日のワンの足跡が役に立つ日が来る。シナコはカンココたちと合流し、今夜は小諸の温泉で打ち上げをして明日朝から帰る予定だ。途中、和歌山のカンココハウスに泊めてもらうことになっている。和歌山港からはフェリーで帰ることにした。レースが終わってすぐに久留米に電話し

た。「7位入賞したけん」家族も子供たちも驚き喜んでくれた。「母ちゃん、気をつけて帰ってきて」と娘のトンコが言ってくれた。それを聞いたらなんだかじーんと胸が熱くなり声を出して泣いてしまった。本当は誰もが声を上げて泣きたいほどの想いとともに軽井沢を去ろうとしている。夕暮れ染まる軽井沢の夏の風景をぼーっと眺めていると、夏の終わりの一陣の風がざわざわーっと吹き抜けた。我に返ると、この場所にいることがとても不思議な気がしてきた。何もなければ九州で普通に生活していたのに。さっきまで奥歯を食いしばってバイクに

乗っていたことなど夢か幻のようでどこか他人事に思えた。子供たちの顔が浮かび、早く子供たちに会いたいと思った。カンココは火を噴いて走り終えたマシンをもう整備してくれた。シナコが子供たちに早く会いたいと無茶をするかもしれないことを知っていたからだ。とりあえず小諸の温泉まではカンココのトランポに乗せてもらって、今夜はゆっくり休ませてもらうことにする。さようなら軽井沢、さようなら碓氷峠。さようならTTレース。



学生の頃、何度も碓氷峠を走った。夏休みは軽井沢に住んでいたので、バイトのないときはダラーっと走りに行った。当時はまだ121番コーナーは閉鎖されておらず、スリックをはいたFZRが走っていた。今となっては時効だろうが。ここを閉鎖して純粋にレースしたら面白いだろうとずっと思っていた。映画化してほしいなぁ。

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