13
ノエルが私を呼んでいる。
頬を撫でてくれるこの手はたぶん、ノエルのものだ。
まだふわふわとする頭は上手く動かないけれど、早く起きなきゃいけないと思って、まだ少し重い体にそう言い聞かせて、瞼を開けた。
私は薄暗い部屋の中にいた。
体を起こして手で探ってみても、いつもの場所に眼鏡はなくて。
きっとここは、私の部屋ではない。
仕方がないからぼんやりとした視界のまま辺りを見回す。
どこにいるのかはわからないけど、ふかふかなベッドの上で寝かせてもらっていたらしい。
するとだれかが眼鏡をかけてくれた。
明瞭になった視界に最初に映ったのは、泣きそうな顔をしたノエルで。
「おはよう? って、もう夜よね」
冗談めかして言ってみたけど取り合ってくれなかった。
ぎゅっと唇を引き結んでいるけど、怒っているわけではないようだからホッと胸を撫でおろす。
ノエルの顔を見た途端、訊きたいことがいくつも浮かび上がってくるけれど、ずっと眠ったままだった私の喉はカラカラで、声が上手く出せない。
それに気づいたノエルが水を入れたグラスを手渡してくれた。
レモンの味がする水は美味しくて、すっと体の中に染み渡る。かなり喉が渇いていたようで、一気に飲み干してしまった。
「スヴィエート殿下とリュフィエさんは?」
「無事だよ。いまは何事もなく宿で寝てる」
「じゃあ、修学旅行は?」
「予定通り続いているよ」
「え?! 大丈夫なの?!」
爆発が起きたし生徒は獣化するし、なにより、敵国の国王が来たのに続けるなんてありえない。
それも、あの風紀の鬼であるグーディメル先生が指揮をとっているんだから、そんな危険な事はしないはず。
一体、なにがどうなっているのかわからない。
「シーア国王が魔術を街全体にかけたから、スヴィエート殿下があの霊薬を飲んだ後のことはみんな覚えていない。僕たちとスヴィエート殿下以外、みんな記憶を上書きされていてね。みんなの記憶では、急に魔獣が現れて、レティシアは生徒を庇って意識を失って、リュフィエが撃退したことになっている。魔獣がいなくなったから、予定通り修学旅行が続いているわけだ」
人の記憶を上書きするって、しかも、街にいる人たち全員に対してそんなこと、できちゃうの?
ルスって本当に人間?
魔王なのでは?
真のラスボスはルスなんじゃないかと思ってしまう。
敵に回しかけたけど、敵にしなくてよかった。
「どうして、国王陛下はそんなことをしたの?」
「弟の尻拭いをすると言っていたけど、実際はこのまま学園に潜入させてノックスの動向を探るためだろう」
「そう……理由はどうであれ、スヴィエート殿下が元通りの生活を送れるようで良かったわ」
あのままならオルソンはノックスにいても居場所がなくなっていたはず。
敵国の王族だとバラされてしまったし、何より、獣化して暴れていたんだから。
ゲームでは、サラがオルソンのことを思ってみんなの記憶を消していたのに、この世界では皮肉にもルスがその役割を担ったのね。
複雑な気分だわ。
「国王陛下は?」
「そのまま帰ったよ。記憶を上書きするのでかなり魔力を消費したらしい。あっさりと帰ってくれたよ」
「意外ね」
ついでにこの街を占拠しそうだと思ってた。
なにはともあれ、イベントを乗り越えられたし敵国の国王が大人しく帰ったなら、いまは平和といったところか。
良かった。
乗り越えられて、本当に良かった。
安堵すると同時に、新たな疑問が生まれてくる。
「私、どうして倒れたの?」
「獣化したスヴィエート殿下の魔力に中てられて体が拒絶反応を起こしてしまったらしい。この三日間、ずっと眠っていたんだよ」
そうだったのね、と返すとすぐに、ノエルが抱きしめてきた。
「どこか痛むところある?」
「強いて言うなら、そんなに抱きしめられると背骨が折れそうなほど曲がって痛いわ」
「ごめん。でも止めない」
宣言通り、まったく止める気はないらしい。だけど「痛い」と言ったのは気にしてくれたらしく、少し力を緩めてくれた。
息をするのが楽になって安心したのも束の間、頭に唇が押し当てられて、思考が一瞬だけ停止した。
ノエルがいきなり恋人みたいなことし始めたんですけど。
なんか妙にスキンシップが過ぎるんですけど。
状況についていけなくて頭がどうにかなってしまいそうだ。
「このまま目を覚まさなかったらどうしようかと思った」
「あ、相変わらず心配性ね。見ての通り元気だから安心して」
それを証明するかの如く、ぐうっとお腹の音が鳴る。羞恥で顔を赤くしてしまってう。それなのにノエルがクスクスと笑って、追い打ちをかけてきた。
「お腹が空くぐらい回復しているようだから安心したよ。まずは食事にしよう」
ノエルはベルを鳴らして宿の女将さんを呼び、胃に優しそうな食べ物を用意して欲しいと頼んでくれた。
ほどなくして温かなスープが運ばれてくる。
美味しそうな匂いに誘われて急に飢餓を思い出してしまい、またお腹が鳴りそうだった。
それなのに、女将さんからトレーを受け取ろうとするとノエルがパッと取り上げてしまう。
そのまま匙でスープを掬って、ふーっと息を吹きかけ始めた。
目を瞬かせているとノエルは淡く微笑んで。
「口を開けて」
なんて言って、匙を近づけてくる。
どうやら私のことを要介護の病人だと思っているらしい。
「じ、自分で食べれるからいいわよ」
そう言っても聞いてくれなかった。
手を伸ばしてみても匙もスープ皿も渡してくれなくて。
かくして至近距離で見つめられながら食べさせられることになった。
ノエルは丁寧にも一口ずつ口元に運んでくれる。
口の中に流し込んでもらえば、飲み込むまでじいっと見られているから緊張してしまい、食べた気にならなかった。
気恥ずかしい思いをしながらの食事は時間をかけて行われて、スープ皿が空になった頃にはノエルの前から逃げ出したい思いに駆られていた。
壁に掛かる時計を見れば、夜の十時くらいで、ノエルももう寝た方がいい時間だ。
「付き添ってくれてありがとう。もう遅いから、ノエルは部屋に帰って」
「いや、このままレティシアと一緒にいるよ」
「なっ……あのね、いくら婚約者でも朝まで一緒にいるのはどうかと思うわ」
「別に? 艶めいた噂を囁かれた方が僕としては好都合だけどね」
「はぁ?」
普段は真面目なノエルが急にふざけると調子が狂う。
狼狽えている私の気を知ってか知らずかわからないけど、ノエルは飄々と答えた。
「レティシアが教えてくれるまで帰らないつもりだ」
「なにを?」
「隠し事。ちょうどいい機会だから明らかにしよう」
そう口にした途端に、ノエルが纏う空気が変わった。
まるで獲物を追い詰める肉食獣のような気迫を纏っていて思わず身を竦めてしまう。
「無理には聞かないつもりだったけど、もう我慢できない。今回のことで思い知らされたよ。少しでも綻びがあればレティシアを失うかもしれないと、ね。そうならないためにも、もう秘密を放っておくことはできない。それに、レティシアが苦しむ姿を見るのは、嫌なんだ」
「待って。なんのことを言ってるの?」
隠している事は、ある。
私が転生者であることやこの世界で起こり得ることをノエルに隠しているけど、ノエルがそのことについて言っているとも限らない。
だけど心臓が早鐘を打ち、その音が耳にまで届いて頭の中を掻き乱してくる。
固唾を飲んで見守る中、ノエルは上着のポケットから折り畳んだ紙を取り出した。
「ソフィーから預かった物だ。彼女はレティシアの変化にいち早く気づいて、ずっと心配していたんだよ」
「っ?!」
見覚えのある紙だった。
実家の部屋にいつも備えつけられている紙で、独特の風合いがある物だから。
受け取って恐るおそる開けば、記憶を思い出したときに書きつけたメモが、そのままの姿で残っている。
私は捨てたはずなのに……。
それを拾うだなんて。しかも、よりにもよってノエルに渡すだなんて。
ソフィー、なんてことをしてくれたの?!
絶体絶命の状況に、ただただ閉口するしかない。
「魔術を使えば簡単に言わせることはできる。だけど僕は、レティシアの意思で話して欲しいと思っている」
ノエルの言う通りだ。
その気になればあらゆる手段を使って口を割らせていたことだろう。
きっとノエルからすると容易いことのはず。
だけどノエルは、私がなにか隠していると知っていても、敢えてそうしなかった。
本当に、私の意思を尊重してくれているんだと思う。
ゲームの中のノエルだったら、とっくの昔に魔術でもかけて白状させようとしていたに違いないから。
「聞きたいことは色々とある。スヴィエート殿下が学園に来るのを予期していたこと、リュフィエも知り得なかった光の力の使い方を知っていたこと……その他にも数えきれないほどあるんだ」
ノエルの掌が私の手に触れる。
「レティシアの秘密を、教えてくれないか?」
優しく問いかけてくれるけど、真正面から見つめてくる紫水晶のような双眸は、決して逃がすつもりはないと、暗に伝えてくる。
だけど、教えるわけにはいかない。
ノエルに、「あなたは黒幕です」なんて、伝えることになるんだから。
そんなことを聞かされるとさすがにノエルは気分を害すると思うし、なにより、信じてくれるかも疑わしい。
だけどなぜか、迷いが生まれている。
「頼む。僕にはすべてを明かして欲しい」
ノエルの指がゆっくりと絡めてくる。手に伝わる熱は、いつも寮にまで送ってくれる時に感じるものと同じで。
今日に至るまでにノエルと過ごした日々が思い出されて、ますます気持ちが揺れ動く。
回廊で話しかけたあの日からノエルは変わった。
ゲームの中のノエルが見せたことのない一面をたくさん見てきた。
だから目の前にいるノエルはもう、ゲームの中のノエルとは違う、と思う。
でも、そうだとしても、ノエルに言うべきことではないはず。
「僕のことを信じてくれているなら、聞かせてくれないか?」
……卑怯だ。
そんなことを言われたら否定も言い訳もできない。
だけど、おかげで吹っ切れた。
「ノエル、あのね……」
顔を上げるとノエルは空いている方の手を背に添えてくれて、促すようにゆっくりと撫で始める。
その掌に応えるべく、紫水晶のように澄んでいる美しい瞳に向かって、告白した。
「私には、前世の記憶があるの」
すみません……バタバタしておりますのでしばらく小話お休みします('、3_ヽ)_




