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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

私の子供

作者: お茶

 片田舎から大学へ通うために都市部へ引っ越してきた男、仮にこの男性をAさんとしよう。

 Aさんは大学受験に合格してからすぐに家の選定を始めた。一般的な中流家庭に生まれたAさんには、都心の綺麗なマンションに住めるほど金銭的な余裕はなかった。しかしいくつか不動産屋を見て回るっていると、目が飛び出るような物件を目にすることになった。


 駅まで徒歩10分の7階建てマンション。部屋はオートロック式の1LDKで台所はシステムキッチン。リビングはホームベースのような形をしているが広さは10畳で一人で暮らすには申し分ない。バルコニーも洗濯物を干すには最適な広さだと言える。さすがに窓は南向きではなかったが、これほどの良物件では些末なことだった。

 この近辺でマンション且つセパレートの1LDKの家賃相場はおおよそ10万円以上。死ぬほどバイトをし、奨学金も家賃に充てるというのなら話は別だが、超絶一般的な中流家庭に生まれたAさんに家賃が月10万円以上もする物件は手が出せない。


 が、この物件の家賃は同じマンションの他の部屋に比べて法外に安く、その額はなんと月5万円。半額どころの話ではなかった。


 さすがに怪しさを感じたAさんは不動産に尋ねた。この部屋はいわゆる、事故物件なんじゃないか、と。

 不動産屋は尋ねられたら答えないわけにはいかず、素直にこの部屋の値段の意味を伝えた。


 その部屋には昔、仲睦まじい若夫婦が暮らしていた。順風満帆でおしどり夫婦を絵にかいたような二人だった。マンションに引っ越してから少しして、妻は自分が妊娠したことを夫に告げた。当然、夫もそれを喜んだ。夫は妻と、将来生まれる子供の未来のためにいままでよりもさらに仕事に力を注いだ。妻もまた、そんな夫のことを誇りに思った。

 だが、悲劇は突如として訪れた。罪深くもなく、人を愛し人の誕生を願い、堅実に生き、自分たちにとっての幸福を追い求めた男女の人生を、偶然という名の悪魔が嘲笑った。美味そうな幸福に舌なめずりをし、最高に脂の乗る時期を見計らって食卓についたのだ。

 妊娠から五カ月。一回目の結婚記念日に夫は胸を躍らせながら交差点で信号待ちをしていた。信号よ、早く変わってくれ。と、心の中で念じながら、帰りの最短ルートを頭の中で検索する。あいにくの雨模様だったが、夫の心は晴れやかだった。

 車道の信号が青から黄色に変わる。続いて黄色から赤に変化した、その時だった。

 アスファルトとゴムがこすれ合う甲高い音が響いた。浮ついた意識が現実に帰ってきて、音の方向へ目をやると、黄色信号から赤信号に変わる間に急いで曲がろうとした車が一台、雨の影響でスリップを起こしていた。

 あっ、と思った時には既に遅かった。時速80キロを超過した普通自動車が曲がり切れずスリップし、夫の立つ歩道を乗り上げた。

 それは、兵器と化した鉄の塊だった。1.5トンを超える鉄塊が法定速度を凌駕した速度で突っ込んでくる。それは蹂躙と呼んでも差し支えない惨劇を生み出した。あまりに突然のことで信号待ちをしていた十人以上の老若男女は磨り潰され、吹き飛ばされ、平和な都心は一瞬にして血臭の立ち昇る異界と化したのだ。男の悲鳴が上がる。女の叫び声がする。すぐさま警察に電話をかける幾人もの傍観者がいる。

 急いでいた夫は信号待ちの列の最前線にいた。もしも対向車線をよく見ていれば、最悪の事態は免れたのかもしれない。しかし、幸せを前に上の空になっていた彼には、危険予知など端から不可能だった。故に、彼は一番に巻き込まれた最初の犠牲者となった。

車体と体が接触したが、背後に多くの人間が居たために吹き飛ばされず、そのまま車体の下に体が潜り込んだ。腕がタイヤに巻き込まれ、血飛沫が舞う。顔面が鉄に押しつぶされると同時に、下半身が折れ曲がり上半身から切り離されて千切れ飛ぶ。千切れた下半身は後輪に巻き取られてずたずたに引き裂かれた。

 紛れもなく即死だった。

 この事件により引き起こされた被害は、死者四名、重傷八名、軽傷十名という膨大な数に上った。

 しかし、悲劇はこれで終わりではなかった。

 夫の死を告げられる妻。あの日、帰ってこなかったのは残業でも浮気でもなく、ほんの些細な気まぐれが引き起こした不幸な事故に巻き込まれたからだ。もしもあの時、別の道を通っていれば。どうしてあの時、運転手は信号無視をしてしまったのか。お腹の中に新しい命を宿す妻は、自分の分身と言ってもよかった愛する夫の欠落に、ご飯も喉を通らないほどの虚無感を味わっていた。


 夫が亡くなってから一週間が経ったとある日の夜。お腹と頭の重さを感じながら食卓に座っていた妻の耳に、物音が届いた。反射的に顔を上げた妻は、物音のした台所の方へ、くまと疲労に塗りつぶされた眼を向ける。居間にも電気は点いておらず、廊下は寒気がするほど薄暗い。体のだるさを感じながらも、妻はなぜだか懐かしさのようなものを感じて椅子から立ち上がった。

 夫の名を呼ぶ。いるわけもない自分の片割れを。だけど、この時の妻は自分でも理解できない確信を覚えていた。きっと、夫が帰ってきたのだ。なんでもない顔をして、遅くなった、なんて子供みたいな笑顔を向けて。

 廊下の扉を開けたが、ひんやりとした空気が流れてくるだけで、そこには誰の姿もなかった。わかっていたことだ、と落胆を紛らわせながら扉を閉めようとしたとき、再び物音が鳴った。今度は風呂場からだった。

 やはりそうだ、夫が帰ってきたのだ。

 息も絶え絶え、といった笑い声を吐き出しながら、妻は風呂場を開けた。けれど、洗面所にも湯船の中にも、夫の姿は欠片も見受けられなかった。

 壁にかけていた手が洗面所の電気のスイッチに偶然にも触れる。パチ、という音がして明かりが灯った。


 洗面所の鏡に映る妻の姿。その背後に蒼白の男が立っていることに、妻はようやく気が付いた。


 振り返る時間もなかった。何者かに足をひっぱられる感覚を受けて、フローリングの床に勢いよく倒れた。逆流する胃液、衝撃を受ける自分とお腹の中の赤子。恐怖で体が震えあがった。

 まだ足が誰かに掴まれている。おそるおそる倒れたまま足元に目を向けると、生気のない男が足首から太ももへ腕を伸ばしていた。――這いあがってこようとしているのだ。

 妻は首を大きく横に振る。しかし、足が動かない。強力な力と体重で支えられ、身動きが取れない。

 そんな妻の耳に、足元の骸の化外が声を放った。

 一緒に行こう、という男の声だった。何度も何度も、苦しそうに、寂しそうに、つぶやいている。

 妻は夫の名を呼んだ。なぜだか、そうしなければならないような気がしたのだ。

 這いあがってくる男の顔が、嬉しそうに歪んだ。

 そうか、やはりこの男は夫なのだ。そして、彼がひとりで死ぬのは嫌だと、寂しいと言っている。

 夫の手が妻の膨らんだお腹に触れた。衝撃を受けたお腹だが、まだ赤ん坊は動いている。まだ、この子は死んでいない。

 そのとき、ようやく妻は夫の体の全貌を目の当たりにした。


 男の体には、片腕と下半身がなかった。腰から下へ伸びているのは行き場を失った内臓。大腸か小腸か、よくわからないロープのような赤黒いモノが、ずるずると床に散乱している。血の臭いもない。にもかかわらず、臭い立つ死者の腐敗の香り。それに気が付いたとたん、男の顔が瞬く間に潰れた。擦り潰れたような、焼け爛れたような、ガラスが溶けて再度固まったかのような、原型のない塊へ崩れていった。眉も、眼球も、鼻も、口も、まったくわからない。これが人間の顔なのだと思いたくもない立体物。赤い筋肉と白い砕けた骨が、まるで顔面を引き裂いて開いた花のような彩色を放っていた。

 腕がねじ曲がっていく。夫の腕が、肉体が、事故に巻き込まれた直後のように変化する。だが、お腹に爪を立てることだけはやめなかった。

 妻の悲鳴が上がる。夫から逃げようと懸命にもがく。

 置いていかないで、一人にしないで、一緒に行こう。

 囁くような声が大きくなっていく。呪詛のように妻を蝕んでいく。

 そして何度目かの抵抗ののち、夫は絶望するかのような悲鳴を上げながら玄関の方へ引きずりこまれてしまった。地獄に引きずり込まれたのだろうか。とにかく助かったと思った妻は、ため息をついた。

 それと同時に、夥しい量の血をまき散らした。それがどこから出てきたのか、言うまでもなく口からだった。

 妻の体は自分が流したの血の海の中にあった。

 なぜ、そう思い視線を下に向けると、その意味をようやく理解した。


 ――お腹が、ない。


 そこには膨らんだお腹がなく、ぽっかりと穴が空いていた。そして、そこにいるはずの赤ん坊の姿もない。

 痛みはなかった。だって、もう痛みなんて通り越してしまっていたからだ。


 ――どこに、行ったの。私の、赤ちゃん。


 意識は薄れていき、彼女は自分の手を空っぽのお腹の中へ入れる。ぐちゃぐちゃという肉と肉が重なる音が聞こえるが、どこにも愛する我が子はいなかった。


 そうして、幸せ一杯だった家族は引き離された。夫は地獄へ引きずり込まれ、自分の赤子を道連れにした。妻は今も、マンションのその部屋で、自分の子供を探しているのだという。

 それからというもの、この部屋に引っ越してきた人はみな、二週間もしないうちに夜逃げする。部屋の中から居住者が消え失せ、連絡もつかなくなってしまうのだ。


 そんな昔話を聞いたAさんだったが、この近辺でそのような大規模な事故なんて聞いたことがなかった。また、Aさんは幽霊などの話を信じる人間ではなかったし、出てきたところで強い意志を持っていれば悪霊なんぞ対処できると簡単に考えた。なにより、10万円以上の物件が5万円で借りられるという破格の安さが、彼を呪いにかけたのかもしれなかった。

 部屋の下見に行ったAさん。南向きの窓ではないにせよ部屋のなかは明るく、景色を遮る背の高い建物もない。風呂場も綺麗だし収納も文句ない。一人暮らしには十分すぎる部屋だった。

 Aさんこれ以上物件を探すことなく、そのいわく付きの部屋を借りることにした。幽霊なんて信じていないし、出てきたところで無視してしまえばいい。なにより、追い出してしまえば怖くもなんともない。


 しかし、部屋に引っ越してきてから一週間が経って、Aさんはついに我慢がならなくなった。テレビを見ていても、ヘッドフォンで音楽を聴いていても、ずるずる、ずるずる、と何かが這いずり回る音が聞こえるのだ。

 廊下の方から聞こえる。風呂場の近くから聞こえる。その音は必ず夜にやってくる。

 Aさんは何度も、音の正体を突き止めようと廊下に足を運んだ。しかし、綺麗なフローリングには自分の足跡以外に何もない。Aさんが風呂場前の廊下を確認すると、音は消えてなくなる。そして居間に戻るとまた音が聞こえる。


 Aさんはもう三日間も寝ていなかった。いや、眠れなかったのだ。布団の中に潜ると、這いずる音が廊下から居間に入ってきているように思うからだ。目を瞑っても、音が耳元で騒ぐために冴えてしまう。

 近くのお寺のお坊さんに貰ったお札を廊下の壁に貼り付けようと思ったが、どういうわけかくっつかない。粘着力はあるはずなのに貼ったそばから落ちてしまう。盛り付けた塩は翌日には炭化して使い物にならなくなる。

 一週間が過ぎて、Aさんは引っ越しをすることに決めた。いくらなんでもこの部屋にはいられなかった。自分の考えが甘かったことを後悔した。

 確かにここは事故物件だった。それどころか、部屋そのものが呪われていると言ってもいい。安いからといって手を出してもいい場所では、断じてなかったのである。

 最後に、Aさんは音の正体を突き止めようと廊下にビデオカメラをセットし、Aさん自身も居間ではなく廊下に陣取った。

 しかし、音はいっこうに現れず、外の車の音だけが聞こえるなか時刻は午前3時を回った。Aさんも数日眠っていないために、さすがに眠気が強くなってきた。

 ビデオカメラを見ながらこくりと船をこぐと、ついにあの音が聞こえた。Aさんは眠たい眼をこすり、ビデオカメラに集中する。暗視モードで覗いてみても、肉の這いずる音が聞こえるだけで動く物体を捉えることはできない。にもかかわらず、音はしだいに大きくなっていく。

 そしてついに、ビデオカメラの液晶にひびが入った。前触れもなく訪れたその現象に、さすがのAさんも小さく悲鳴を上げた。だが、まだビデオは虚空を撮影し続けていた。

 ビデオが映し出すのは廊下の床と、風呂場の扉、そして洗面所。やはり、カメラは何一つとして怪奇現象を捉えることはなかった。

 緊張の糸が張り詰める。Aさんの呼吸も次第にあらくなっていく。心臓は大きく脈打ち、怪異の存在を今か今かと待ち受ける。

 ずるずるという音は一瞬にして消えた。まるでコンポの電源を落としたかのように、プツリと途絶えたのだ。

 このときはじめて、Aさんは肩の力を抜いた。そして、自分が呼吸をすることさえ忘れていたことに気が付いた。

 ため息をつきながら俯き、額の汗をぬぐった。足が震えていることを、軽く笑って無視した。なんだかんだと、幽霊の存在にビビっていたのだ。

 結局幽霊の存在を捉えることはできなかった。だけどAさんの引っ越しの決意は固かった。だから、もしもこれから音が聞こえなくなったとしても、この部屋を出ていくことだろう。

 安堵の息をもらしながら、明日は引っ越しの準備をしようと決めて、ビデオカメラを収めるために液晶に目を向けた。


 ひび割れた画面いっぱいに、一個の血走った眼球が寄っていた。


 Aさんは喉が張り裂けるほどの悲鳴を上げた。勢いでビデオカメラをスタンドごと倒してしまったが、その先には何もなかった。ビデオが映していたような、レンズをのぞき込む人間の姿がない。その現実が、さらにAさんを恐怖に駆り立てる。全身の毛が逆立った。尋常ではない量の脂汗が噴き出した。

 過呼吸のように息を切らせながら、Aさんは立ち上がろうとする。だが、自分の後ろに誰かが立っているような気がして、動くことができなくなってしまっていた。

 口を大きく開けて肺に酸素を送り込むAさんの視界に、真っ白な腕がゆっくりと伸びてきた。Aさんはさらに悲鳴を上げる。だが、動くことができない。背後の、斜め上の方向から伸びてくる生気のない女性の腕。

 なんなんだ、これは。Aさんが死に物狂いで逃げようと顔を上げたときだった。ちょうどAさんの目先に鏡があった。洗面所の鏡である。そこにはぎりぎりAさんの姿は映っていなかったが、背後の女性の姿ははっきりと映っていた。

 青白い、背中の肉だけが残っている女性の姿だった。あの都市伝説と同じように、そこにいる女性には、腹がなかったのだ。

 Aさんは最期の断末魔を上げた。Aさんは女性の両腕に挟み込まれ、壁の中へと引きずりこまれていった。

 その一部始終を、倒れたビデオカメラが捉えていた。


 これは都心に座する、とある有名な7階建てマンションのお話。その一室では、不幸な妻の幽霊が、今日も我が子を探して這いずり回っているのだという。お腹のなくなった、目を覆いたくなるような歪な体で。

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