箸を買いに行ったら人生最大のモテ期
「さーてと、どんな箸にしようかな……」
初めての独り暮らし。
橋本光太は、引越し荷物を片付ける手を休め、アパートから一番近いショッピングモールに来ていた。
開店直後だが、既に旨そうな匂いが漂っている。
入ってすぐのイベント広場で物産展が開かれ、各地の特産品に混じって、工芸品の類も出店していた。
空腹ではなかったが、何となく匂いに惹かれて物産展のスペースに足を踏み入れる。
ご当地ラーメン、ブランド牛の串焼き、地鶏の焼き鳥、海鮮丼、ご当地バーガー、和菓子に洋菓子、特産品を使った創作スイーツ、新鮮な野菜に海産物の加工品のブースが並び、通路は大勢の客でごった返す。
人垣の向こうに箸のブースをみつけ、郷土玩具と桐箪笥の間に足を進めた。
「千円以上お買い上げで名入れサービス」と書かれたPOPの後ろで、紺色の作務衣姿の職人が、細い箸に客の名前を彫っていた。その隣で、薄茶色の木目模様の作務衣を着た弟子らしき青年が、会計を担当している。
橋本光太は、箸なんてどれも似たようなものだと思っていたが、そんなぼんやりした認識は一目で吹き飛んだ。
色・材質・模様・太さ・長さ……値段もピンキリ。下は三百円から上は万単位まで幅広い。
木目が渋い質実剛健な箸、漆塗りに伝統的な模様の入った繊細な蒔絵の箸、女の子が喜びそうな可愛いイラスト入り、ナチュラルな木目調、弁当用のケース付き、子供向けの短い箸、持ち方を矯正する箸……二畳くらいのスペースにありとあらゆる箸が並んでる。
どの箸にすればいいか、種類が多過ぎて目移りしてしまう。売り場の前をうろうろ往復する様は、さながら動物園の熊だ。
「どのようなお品をお求めですか?」
和服姿のしっとりした美女に声を掛けられた。蒔絵の箸と同じ、黒地に金で鯉と流水紋を裾模様にあしらった着物がよく似合う。老舗料亭の女将を思わせる大人の女性だ。
「あ……明後日から大学生なんで、何か、それっぽい箸を……」
橋本光太は、自分でも思った以上に緊張して、声が上ずった。
女将風の美女は、純朴な青年の視線を涼やかな目で受けとめ、品のある笑顔で言う。
「ご入学おめでとうございます。それでしたら、わたくしがぴったりですよ」
「は?」
「兄ちゃん、ウチの箸はな、一膳一膳、魂を籠めて作ってんだ」
「へっ?」
箸職人が名前を彫る手を止め、ぶっきらぼうに言う。
「スペックや洗い方は、本人に聞いてくんな」
「……」
橋本は和服の美女を見た。
「わたくし、塗り箸でございます。こちらの鯉の滝登りは、立身出世の吉祥紋。これから勉学に励み、世に出られるあなた様に相応しい柄ですのよ」
自称「塗り箸」の女将が、着物の裾模様と袖の滝模様を掌で示し、艶やかな笑みを浮かべる。
「これから毎日……いえ、毎食、わたくしが食べさせて差し上げますね」
箸として。
「毎食……? えっ、いや、あの、俺、朝はパンなんで……」
「わたくしを差し置いてパンを召し上がるなんて、おやめ下さいましね」
そう言った女将の顔は笑っているが、その目には、凄みのある鋭い光が宿っていた。
朝食にパンを食べるとどんな目に遭わされるのか。
「えっと、俺、今、あんま手持ちがないんで、そんな料亭っぽい高級なのは、ちょっと……」
「ご安心下さい。わたくし、こう見えて、ご家庭用の普段使いに耐えられますよう、ウレタン塗装されておりますの。食洗器も平気ですよ」
滝登りの女将は営業トークをしながら、そっと橋本の肩に手を添え、作務衣を着た会計係の前に導いた。
よく見ると、着物は化繊の安物で、袖には税込千円の値札シールが付いている。
視界の端に入った木目が渋い黒檀の箸は、ゼロが一個多かった。
「あ、じゃ、じゃあ……」
「待って! 光太ッ!」
凛とした声が橋本光太を呼んだ。
実家から遠く離れ、知り合いが誰一人として居ないこの街で誰だろうと、イベント広場の入口を見る。
他の客も、よく通る声とただならぬ雰囲気、何より彼女の装備に釘付けになった。
人々のさざめきが止み、店内BGMだけが静かに流れる。
「……カメリアナイト?」
橋本の呟きに、近くの客がスマホを取り出した。
「ホントだ。懐かしいコスプレ……って言うか、何でそんなダメージ受けてんの?」
彼は撮影モードの起動も忘れ、工芸箸のブースにふらふら近付く彼女に見入った。
カメリアナイトと呼ばれた美少女は、満身創痍だった。
ピンク色の椿をモチーフにした鎧はボロボロ、下に着込んだミニドレスもあちこち破れ、千切れたレースが垂れ下がっている。ミニドレスの裾から覗く足も傷だらけで、ピンクのニーハイソックスには幾筋も横方向の破れがあった。
「光太、私はどうなるの? 小さい頃からずっと一緒だったじゃない」
ピンク髪の彼女は見れば見る程、花園王国の姫騎士カメリアナイト・プリンツェッサにそっくり。橋本が幼稚園児の頃に放送していたテレビアニメのヒロインが、そのまま画面から抜けだして来たようだ。
色んな意味で痛々しい姿をした少女に、誰もが複雑な視線を向ける。
……そんなバカな。
「兄ちゃん、その箸、よっぽど大事にしてたんだな。付喪神が宿ってるぞ」
箸職人が腕組みして頷く。
カメリアナイトは、傷付いてふらつく足を踏みしめ、何度も首を縦に振った。八重咲きの椿を象ったボロボロの髪飾りが、ボトリと落ちて床に転がる。
彼女の進路上に居た客がドン引きして通路を空けた。
床に転がった髪飾りが茶色く変色し、朽ちて消える。
カメリアナイトは、橋本光太以外の誰も目に入らぬかのように、一直線に工芸箸のブースへ向かう。
橋本は、箸職人の自信満々な言葉と姫騎士プリンツェッサの勢いに飲まれた。
「あっ、えっ? いや、マジで? って言うか、実家に置いてきたのに……」
「光太が淋しがるだろうからって、お母様が引越しの荷物に入れて下さったの」
カメリアナイト・プリンツェッサはそう言いながら、橋本光太に近付いた。
買物客らが次々とボロボロの姫騎士を避け、工芸箸のブースを遠巻きにする。
……オカン、いらんことすんなや。
「あのコ、ボロボロじゃん」
「ウチらのがマシだよねー」
クスクス笑う声に振り向くと、ギャルが六人、イベント広場向かいの百円ショップ前に並んでいた。
「木霊の宿る木を割り箸にしたか……」
箸職人の重々しい独り言が、イベント広場にずしりと響いた。百均の前からさっと客が居なくなる。
「実家からついてくるとか、ストーカーじゃん」
「ウチら、そんな粘着しないしー」
ギャルは六つ子なのか、全く同じ顔で見分けがつかない。
お揃いのチューブトップの白いミニワンピースは、草書体で「いろはにほへと」と書かれた大胆なデザインだ。
「ウチらは、洗うの面倒なら、捨ててくれてもいいしー」
「ウチら、間伐材だからエコだしー」
ニヤニヤ笑う六つ子ギャル。その声には随分、トゲがあった。
「光太は使い捨てするような怠け者なんかじゃないッ!」
カメリアナイト・プリンツェッサが、百均の六つ子に鋭い視線を向けた。その怒声にギャルたちだけでなく、周囲の客や出店者たちまでびくりと肩をすくめる。
ブランド牛の串焼きから脂が滴り、コンロに火柱が上がった。
カメリアナイトは細い眉を吊り上げ、無礼な六つ子に叫んだ。
「光太は小さい頃から食器洗いしてたイイ子なのッ!」
だが、調子に乗ってゴシゴシこすり過ぎたせいで、イラストが剥げてしまった。
今、光太の前に立つ椿の姫騎士も、鎧がすり減り、カメリアソードとリーフシールドを持っていない。
原作通りの性格なら、六つ子に斬りかかっていただろう。剣がなかったのは不幸中の幸いだ。
「でもさ、彼ってば」
「その年になるまで」
「昔のアニメの箸……」
「使ってたのー……?」
「マジ、引くわー……」
「うわー……ないわー」
六つ子のギャルは、ユーザにも容赦なかった。
複数の客が忍び笑いを漏らし、工芸箸のブースから目を逸らす。
実際、その通りで、姉にもほぼ同じことを何度も言われている橋本には、ぐうの音も出なかった。
「細かいコト、気にしなくてヨロシ」
百均の棚から、チャイナ服の少女がのっそり這い出した。スタイルのいい美少女は、乱れた裾を直すと、六つ子とイベント広場の間に進み出た。薄緑地に描かれた鮮やかな竹の葉模様が、照明にきらめく。
姑娘は六つ子の肩をポンと叩き、姫騎士プリンツェッサに手を振ってカラカラと笑った。
「みんな、仲良くするネ」
「何と……竹の割り箸までもが……」
これには流石の箸職人も絶句する。
チャイナ服のスリットから、竹の内側のようになめらかな太腿がちらりと見えた。
橋本は赤面して、思わず目を逸らした。姫騎士と視線が交錯する。潤んだ瞳が橋本を見上げていた。元が子供用弁当箱付属の短い箸だから、小柄なのだろうか。
「光太は、これからもずっと、私がごはん……食べさせてあげるんだよね?」
箸として。
「今までずーっと一緒だったもん。絶対、捨てたりしないよね?」
姫騎士の言葉で、橋本光太の胸に数えきれない思い出が次々と甦る。
幼稚園は、給食ではなかった。
両親と一緒に、地元で一番大きいデパートへ行った。
売り場に並んだたくさんの弁当箱を前に散々迷った。そして、「生まれて初めて自分で選んだ物」が、この弁当箱だった。
蓋には、当時大好きだったアニメの主人公、冒険者シプレのイラストが描かれていた。
買ってもらった夜は嬉しくて、弁当箱を抱きしめて眠った。
幼稚園で友達とおかず交換をしたランチタイム。
初めてのお弁当は、タコさんウインナーと卵焼き、ブロッコリーとプチトマト、おにぎりだった。
自分専用の弁当箱が嬉しくて、光太は毎日、家に帰ると自分で洗った。
キレイにしなければと思うあまり、洗い過ぎてイラストがすり減って、アニメに登場する回復魔法を必死に憶えて唱え、直して下さいと神様にお祈りした。
もちろん、そんなことですり減ったイラストが元通りになるはずもなく、それ以降は慎重になり、スポンジでやさしくそっと洗うようになった。
春と秋の遠足、運動会のお弁当は特別だった。
祖母と母が早起きして、二人掛かりでいつもより豪華なおかずを作ってくれた。
家族で行ったお花見や海水浴、秋のピクニック、スキーも全部、幼い頃の楽しい思い出は、冒険者シプレの弁当箱とカメリアナイトの箸が一緒だった。
姫騎士プリンツェッサの箸だけは毎日、家でも使っていた。
握り箸でサトイモを突き刺そうとして、テーブルに転がしてしまったことがある。
「こらッ! 行儀悪いことするんじゃない!」
父に叱られ、手を叩かれそうになり、思わず姫騎士の箸を庇った。
「こうちゃん、お箸はおしゃぶりじゃないのよ」
「えー……?」
「そんなことしたら、お箸のお姫様、気持ち悪いって」
祖母にたしなめられ、舐め箸をやめた。
他の箸マナーも「そんなお行儀悪いと、お箸のお姫様に嫌われるよ」と言われ、美しい所作で食べられるように練習した。
「こうちゃん、お箸、上手に使えるようになったのね。偉いわ」
母に褒められたのは、おせち料理の黒豆をつまんだ時だ。
あの瞬間の誇らしい気持ちも、焼魚の小骨に四苦八苦した日も、昨日のことのように覚えている。
あたたかな食事風景には、いつもカメリアナイトの箸が一緒に居た。
小学校に上がる直前、春の番組改編でシプレとカメリアナイトの冒険は終わった。
友達に、流行遅れのグッズを使っているのを知られたくなくて、弁当箱を買い替えた。それでも、カメリアナイトの箸だけは捨てられず、家で使い続けた。
それから十年以上、橋本は本体を失った弁当箱付属のキャラ箸を使い続けた。
「これ、あなたが噛んだ傷。だから、私はあなただけのものなの」
カメリアナイトのほっそりした足は、見るも無残に傷付いている。幼い光太が箸先を齧ったから。
祖母に教えられ、箸のマナーを特訓した。カメリアナイトは戦友でもあった。
姉にバカにされても、祖母との思い出が残る箸を買い替える気にはなれなかった。
すり減って傷だらけの箸は、ほんの数日前、引越しの直前まで使っていた。
「箱がないから、お弁当はもうムリだけど、おうちでなら、私、まだまだ戦えるよ」
箸のケースは、弁当箱の蓋の一部だった。
蓋に描かれた冒険者シプレは、原作では姫騎士プリンツェッサの恋人だった。だが、「このカメリアナイト」は光太を選んだのだ。
傷だらけになった姫騎士カメリアナイト・プリンツェッサの頬を一筋の涙が伝う。
「だから、光太……私を……捨てないで……!」
「……」
悲痛な声に橋本の両腕が、姫騎士を抱き寄せようとゆっくり持ち上がる。
「お客さん、こんなお箸があったのでは、お部屋に彼女さんを呼べませんよ」
冷ややかな声にその手がぴたりと止まる。
滝登りの女将が、橋本の耳元で甘くささやいた。
「おうちデート、したくないんですか?」
「ハイハイ! ワタシ、来客用にぴったりネ! 木の割り箸みたいにトゲないアル! 家族用の使い回しみたいな心理的抵抗感もないアル!」
百均の前で、チャイナ服の娘が手を振ってアピールした。
隣で六つ子のギャルが睨み、周囲の野次馬たちがさっと離れたが、全く意に介さない。
「……俺、まだ……彼女とか居ないんで……」
橋本が屈辱的な事実を述べる。
姫騎士が瞳を輝かせたが、滝登りの女将は慌てず騒がず言った。
「お友達と宅飲み。二十歳になったら、してみたいでしょう?」
「はい、はいっ!」
「ウチら、みんなで」
「おつまみ食べるのに」
「ぴったりでーす!」
「洗わなくていいから」
「酔っ払ってても楽ちんでーす!」
六つ子のギャルが口々にアピールした。
カメリアナイトが橋本の瞳に迷いを見出し、肩を落として萎れる。大粒の涙が傷だらけの頬を伝い落ち、床に小さな水溜まりを作った。白い両手が顔を覆い、持ち主の名を呼びながら泣きじゃくる。
「光太……光太……もう、その唇で……私には……触れてくれないの?」
……何これ、愛が重いんですけど……?
「俺、軽いノリで大人用の箸、買いに来ただけなのに……」
橋本が、箸のプロに目で救いを求める。
箸職人はフライヤーを一枚取り、ボールペンで何か書いて手招きした。
橋本が前に移動すると、細長い紙片を差し出す。余白には、寺の名称と電話番号が走り書きされていた。
「寺に預けちゃどうだ?」
「寺?」
橋本と姫騎士の声が揃った。
箸職人が眉間に皺を寄せて、カメリアナイトを見る。
「確か……箸供養は、郵送でも受け付けてたはずだ」
「光太、私……私……」
橋本が、カメリアナイトの震える手を取り、両手でやさしく包み込む。いつものぬくもりに、姫騎士の涙に濡れた顔が綻んだ。
工芸箸のブースを遠巻きにした買物客から、小さなどよめきが起こる。
橋本はひとつ深呼吸すると、その大きな瞳をまっすぐみつめ、静かに言った。
「ごめんな。俺……まだ、彼女は居ないけど、大人にならなくちゃいけないから……」
「光太……ッ!」
橋本の震える声に、カメリアナイトの涙がとめどなく溢れた。
滝登りの女将と六つ子のギャルがほくそ笑む。
和菓子屋のおばちゃんがエプロンで目尻を押さえ、海鮮丼屋の板前があらぬ方を向いて洟をすすり上げた。
二人に目を釘付けにした客たちも、固唾を飲んで事の成り行きを見守る。
「今まで楽しかった。君との思い出は忘れない。ありがとう」
「光太……私こそ……今まで大事にしてくれて、ありがとう」
カメリアナイトの輪郭がぼやけ、淡い光に包まれた。
傷だらけの姫騎士プリンツェッサの姿がゆらぎ、一条の光となって橋本の両手に吸い込まれる。
光が消えた後、花園王国の姫騎士カメリアナイト・プリンツェッサの姿はなく、橋本の掌に一膳の古ぼけたキャラ箸が残った。
イベントスペースに居合わせた客と出店者が、ホッと安堵の息を吐き、それぞれの用に戻る。止まっていた時が動きだしたように、物産展が活気を取り戻した。
「兄ちゃん、これ……使いな」
箸職人が横を向いて洟をすすり、買った箸を入れる紙袋を差し出す。
橋本は深々と頭を下げて受け取り、愛用したキャラ箸とフライヤーを大切に仕舞った。
「ありがとうございます。……それと、これ下さい」
レジ前に並んだナチュラルな木目調の箸を手に取った。
税込み千円。作務衣姿の会計係に代金を手渡す。
会計係は、千円札と一緒に橋本の手をがっしり握った。
「俺を選んでくれてありがとう。これから二人で男の友情を育もう!」
会計係の爽やかな笑顔がぼやけ、光の粒子になる。逞しい手から圧迫感が薄れ、橋本の手の中の箸がまばゆい光に包まれる。輝きが鎮まると同時に、会計係の姿も消えた。
箸職人が顎をしゃくった。
「滝登り、次、お前がレジやれ」
「はいはい。あ、お客さん、その兄さんは私と同じスペックですから、とっても丈夫なんですよ。末長く可愛がってやって下さいましね」
滝登りの女将がにっこり笑って、落ちた千円札を拾い、いそいそと商品棚を回り込んで会計席に着いた。
椿の花言葉……控えめな優しさ、誇り、申し分のない魅力、至上の愛らしさ。
取敢えず、笑っといてください。