予兆
生まれた子供は男の子だった。
ようやく抱けた男の曽孫に曽祖父直平は久しぶりに笑みを浮かべていた。
そして母の庵に行って父の墓に手を合わせていたらしい。
すっかりすべてが自分の手を離れてしまった。
そのことにいくばくかの寂しさを思いつつ久しぶりの明るい話題に次郎法師は喜ぶことにした。
しかしその様子に複雑な色を隠せないものもいる。
お花は次郎法師のことを案じているがゆえに、世捨て人の様になってしまった次郎法師を案じていた。
「気にするな、私の仕事はまだあるのだ、私は井伊の娘だからな」
陰ながら直親を助けるという仕事。しかしそれが次郎法師がこの場にいていいという証なのだから。
井伊の家に生まれた以上、井伊谷の役に立たねばならない。
最初に出家しようとしたときはただ逃げようとしただけだった。いろんな重みから、しかし今は何かしなければならないと思っていた。
「次郎法師様、ご自身のお幸せは?」
「とりあえず、今は生きていけるだけでいい、それ以上望まない」
ある程度の家の娘にとって、幸せとは追うものではないのだ。
家のためという重しでがんじがらめにされ、意志というものは持つことは許されない、その中で自分なりの才覚で生きていかなければならない。
その結果たまたま幸せになれる運のいい姫君がいるばかりだ。
そんなことはお花にはわからないようだ。
お母は最近膨らみだした腹を撫でる。
嫁いで早数年、若いとは言えない花嫁だったが、なかなか子供が授からずにいたがようやく生まれるようだ。
次郎法師はその腹を見て目を細めた。
「そろそろ仕事を休んだほうがいい。誰かに代われるなら代わってもらう」
もっともなり手がいるとは思えないが、もはや次郎法師は井伊谷でも不要の人となりつつある。
そんな次郎法師に仕えようとするものなどいないだろう。
「いいえ、子を産んだら、すぐに次郎法師様の元に戻ってきます」
「そうか、乳をやるのは無理だが、襁褓の替えぐらいならできるだろう」
「そんなことをおっしゃって」
少しだけ笑いにまぎれた。
直親はその時書状をしたためていた。
あて先は松平信康。
彼は先を焦っていた。ようやく生まれた息子、その息子に自分と同じ目に合わせることはできないと。
ようやく見えた今川支配から逃げる糸口、義元の死とともに治世は混乱している。
その隙を縫えば井伊の家は今川から逃れることができるのではないか。
もしそのことを次郎法師が見ていれば止めたかもしれない。ここではわずかな動きすら命取りになると骨身にしみていたがゆえに。
氏真は今生贄を欲していると薄々感づいていた。
見せしめの矛先を探しているのだ。
かつて支配者だったものが追い詰められたときどれほど残虐になるか彼はわかっていなかった。