上洛前日
今川義元が上洛する、そんな噂が春先に聞こえてきた。
そして駿河まで来るようにとの知らせが井伊谷にまで届いた。
留守居をする予定だったが、次郎法師も駿河まで呼び寄せられることとなった。
父はともに上洛するという。
次郎法師は出家の身として徒歩で進む。
雲一つない明るい空だった。
旅の中つらつらと曽祖父直平が語る。
「お前には辛い役割を振った。だが、お前もわかっているだろう、井伊の家は井伊谷のためにある、井伊谷のために滅私して働くのが井伊の家に生まれた定めだ。そのためなら、孫曾孫の人生も捧げねばならん」
次郎法師は黙ってそれを聞いていた。
お花は顔をこわばらせていた。
「お前と直親、どちらが可愛いという問題ではない、井伊の家、井伊谷のすべての民のためのことをなすのが井伊の家に生まれた宿命と思う、いざという時にはこの皺首も差し出そう」
「曾お爺様、私は別段恨んではおりません、井伊の家、井伊谷のためというご決断なら私も従うまでのこと」
次郎法師はただそう答えた。
今庵でのうのうと暮らせているのも井伊の家に生まれたが故、そうでなければ今頃は野良稼ぎをしていなければならなかったはずだ。
「次郎法師様」
お花はもう涙目だ。
「気にするな、今の暮らしも悪くない」
本心からの言葉だったがそれが余計にお花の涙を誘うらしい。
騎馬の父親と腰に乗った母親は複雑そうな顔で次郎法師を見下ろしている。
新緑の香りがあたりに漂う。
かぶった傘のうちで次郎法師は目を細めた。
今川の本拠は次郎法師の想像を絶した。
まず人が多い、見渡す限り人の姿が絶えることがない。
そして、その周りの建物の立派なこと、そして道行く人間の様子も明らかに井伊谷の人間よりいい暮らしをしていることが見て取れた。
ぽかんと口を開けてお花は周囲を見ている。
見るものすべてが珍しい。
今川は大陸との交易にも噛んでいるので、唐渡の珍品も商店に並んでいる。
「まるでこの世のこととも思えません」
お花は震える声で呟く。次郎法師はただ絶句していた。
「これが今川なのですね」
かつて井伊の家は今川と戦をしたという。しかしこの貧富の差を見れば到底勝てる戦ではなかったと実感できた。
そして駿府城、その規模にもはや言葉もない。
これから義元は上洛する。もしかしたら義元が将軍にとって代わるかという噂すら聞こえた。
今川の家は室町将軍初代足利尊氏が生まれる三代前に分家した名門だった。
この時点の将軍足利義輝は十三代だ。
そして次郎法師はこの時初めて今川義元を見た。
妻妾であろうか有職文様をまとった袿姿の女達が付き従っている。
集まった臣下とその妻子、使用人に至るまで色鮮やかな衣装をまとっている。
そしてこれよりまず織田を滅しその後京に上洛する。
すでにことはなったかという浮かれぶりだ。
片身よりや段代わりの奇抜な衣装をまとったものも多い、使用人すら最低でも絞り染めだ。
その中で二人墨染めをまとっている女がいる。
一人は義元の母寿桂尼、そして今一人は次郎法師、しかしその立ち位置はかけ離れたものだった。
寿桂尼は義元の母とは思えぬほど若やいで見えた。
次郎法師は下げた頭に紛れお花を見る。
次郎法師に遠慮して、決して華やいだ色柄を着ることもない。今も灰色の衣装を着ている。
上座で母が痛ましげな顔をして次郎法師を盗み見ていた。
足利尊氏の生まれる三代前に枝分かれした名門の後に(笑)とつけたい衝動にかられました。
現代人ならそれ他人と言いたくなりますよね。