『文学』はどこだ!?
『文学』が溶けていく。
『人文学』が、形を無くしていく。
それは今、どこにあるのか。
*・*・*
通されたのは、無機質な部屋だった。
凡そ生活臭というものがしない。
家具らしい家具もない、必要なものしか揃えられていない空間。
私は目の前の椅子に腰かけた。
背もたれから、若干体を浮かせる。
事務的に整えられた机の上にさえ、人の気配が感じられなかった。
それらを含めた、その部屋の非常に細々とした全てのことが、私の観念を刺激し、よりいっそう鼓動が早まっていく。
人格を持たない、『権力』という生き物が、この部屋の背景に潜んでいる。
身構えざるをえない。
平生なら気にもしないような壁の時計の角度さえ、今の私には、何か意味のあるものに思えてくるのだ。
非常に、居心地が悪かった。
汗で手のひらもぬれてくる。
音がしない。
聞こえてくるのは静寂だけだ。
時間と共に、神経がすり減らされていく。
やがて。
緊張の糸がさすがにきれるかと思えてきたところで、奥の扉が開いた。
「こんにちは」
空気が、変わった。
男はその長身を器用に折り曲げて、向かいの椅子に腰かけると、私を見つめた。
「少々遅れてしまった。申し訳ない」
「いえ、そんなことは……」
彼の態度には、こちらとの、明確な温度差が感じられた。
暖かみがあるわけではない。
むしろその逆だ。
全てを事務的にこなしてきたような、変動が感じられない口調。
その一本調子な声に、肌が急速に冷えていく。
緊張がぶり返してしまった。
背筋を張る。
気を引き締め、息を整えてから、こちらも相手の視線を受け止めた。
「わざわざ、こちらの要望に応えていただき、ありがとうございます。」
「私は、自分で自分の行動を決められるような立場にないよ」
僅かに口角をあげて、男が皮肉めいて言う。
「ただ上司の命令に従っただけだ。だから、私はここにいる」
「君に感謝される謂れはない」
最後の言葉は、体を背もたれに預けながら、吐き出されたものだ。
そう断言されると、こちらにしても、もう何も言えることはない。
わずかな沈黙。
自然、視線は相手の顔をなめるように動いた。
奇妙にとがった鷲鼻。
吊り上がった目。
そして、引き締められた唇。
全てが絶妙に調和して、この男の得たいのしれなさを醸し出していた。
「どうした?」
男が問いかける。
私は慌てて視線をそらした。
と、そこで、基本的なやり取りさえ、まだ出来ていなかったことに思い至った。
「あの、ぼ……私は」
「東京大学物理学科4回生。○○文人」
私の言葉を遮ぎりながら、男がこちらを射すくめる。
私は文字通り言葉に詰まってしまった。
「成績優秀者優遇制度だったか。まあ、大したものだ。」
そして、まだこちらが正常な反応を取り戻さないうちに、どこからか取り出してきた名刺を手渡してくる。
「君ほどの人材なら、今更言うまでもないだろうが。……基本は基本だ」
覚束ない手でそれをつかむ。
実に簡素な作りだった。
必要最低限の情報しか記されていない。
「……これが」
「そう。これが、君が見たがっていた、私の『肩書』の全てだ」
こちらの反応を窺い、それから肩をすくめて、男は言った。
「『文部科学省特別人文学委任官』」
私は呆然として何も言えない。
この不毛なものに覆われた日本で。
夢にまで見た、『最後の人文学者』。
「Kだ。よろしく頼むよ」
男は私を興味なさげに眺めながら、事務的に、そう口にするのだった。
*・*・*
数か月前のこと。
「本気かね?文人くん?」
額の禿げあがった教授が、そう言って、私をまじまじと見つめてくる。
私は毅然とした態度でそれに応えた。
「ええ。僕は本気です。」
彼の小動物のような小さな瞳が、それでも驚愕で見開かれる。
その声にも、明確な戸惑いが感じ取れた。
「う、うーむ。ま、まあ、君のことだから、考えあってのことなのだろうが」
ある夏の昼下がり。
既にほとんどの学生が授業を終え、教授陣の方でもやっと自分の研究に取り組める時間が出来てきた季節だ。
物好きな者を除けば、そんな時期にわざわざ大学に出てくる輩はいない。
例え東京大学という、日本最高峰の大学であったとしても、だ。
ということは、私はその物好きの一人ということになる。
「しかしなあ~~」
私の指導監督でもある衣笠教授は、まだ何かぶつぶつと言っていた。
私は視線を彼から彼の研究室の方に向けた。
相変わらず、散らかった部屋だった。
足の踏み場がないだとか、文学的に誇張された表現がそのまま当てはまるわけではない。
むしろ、単純な物量だけを言えば、整っている方だと言える。
ただ、そこには『まとまり』がなかった。
彼の性格を反映しているのか、積み上げられた書物や器具は、その用途にしろ、形状にしろ、てんでばらばらな方向に散乱しているのだ。
全てを統一する観念が無ければ、そこは無秩序な状態にも等しい。
その研究室には、そういった、言わば秩序が、感じられなかったのだ。
好意的に解釈すれば、大学の住人らしい、自由さの表れとも言える。
「本当に、考えなおす気はないんだね?」
デスク越しに、教授がそう呼びかけてくる。
私は視線を再び彼の方に戻しながら、今度もまた、迷いのない口調で言った。
「ええ。まったくありません」
教授は頭を抱えた。
私は嘆息した。
彼の葛藤も、分からないわけではない。
いや、正確に言えば、その葛藤は、自分自身、強く意識していたものだった。
「どうして、よりにもよって、『人文学』なんかを……」
教授から漏れ出た声が、私の耳朶を打つ。
内に秩序を持たぬ性格の彼でも、まさか外部から痛烈な一撃をくらうことになるとは、思ってもみなかったのだろう。
そうだ。
そのことの『異常性』は、希望した当の本人が、一番よく分かっている。
『人文学』。
それは、21××年の日本において、大学から消滅した学問だったのだから。
「かつて、この国では、『人文学』が、最高学府たる大学で、教えられていた」
これは、一回生の時分、教養の単位で取った『虚学概説』の講義で、登壇したある教授が言っていた言葉だ。
「何と馬鹿げた時代だったのだろうな?」
挑発的な口調。
その意見に反対する学生は、もちろん皆無だった。
21世紀の最初の百年を通して、その学問の無益性は、ことさらに理解されていたから。
それらは、何も生まなかった。
そして改廃統合を繰り返す大学事情の下、大幅な学問の建て直しが図られ。
『人文学』は、大学から消滅した。
「諸君の内には、『教養』なるものと、『人文学』を混同している者もいることと思う」
典型的な神経症といった風情の教授は、眉をひそめながら、自分の意見を滔々と語っていた。
「しかしだね。『人文学』なるものは、何も『教養』の中核をしめているわけではない。『教養』は、むしろこれ以上ないくらい大切なものなのだ。『人文学』なんかとはわけが違う。」
彼の力説は止まらない。
「西洋の大学の歴史を振り返れば分かるが、そもそも『教養』にあたる学問の中には、今日でいうところの『理系』学問に該当するものが存在したし、事実、その中でもとびぬけて重要だったのは、今日でいうまさにその『理系』学問だった。よって、私は、『教養』の大切さは強調する。しかし、それは『人文学』などという虚学が中心を占めていいものではないのだ」
誰も反対意見を述べなかった。
私自身、彼の意見に多分に賛同していた。
彼はこうも続けた。
「といっても、私は『人文学』を、馬鹿にしているわけではない。矛盾しているようだがね。ただ、私は、それは『大学』に―『最高学府』にーあるべきものではないと言っているだけだ」
私が大学に入学した頃には、『人文学』の居場所は、もはやそこにはなかったのだ。
それが、私にはたまらなく悔しかった。
もっとも、在野の哲学者達は大勢いた。
文学理論を振り回すテレビのコメンテーターも存在した。
しかし、私は『学問』として、それを大学で学びたかったのだ。
だから、この国で唯一それが『担える』特別な存在への面談を、首席として要求したのである。
従来の学徒達が目指した自然科学とは軸を異にして。
「ふーむ。うーむ。」
いつの間にか、衣笠教授は顔をタコのように真っ赤にしている。
私は慌てて彼に声をかけた。
「教授。きぬがさ教授」
「お!!……おお、文人くん」
焦点をこちらに合わせると、彼の小さな瞳はわずかに瞬いた。
それからふーと汗を拭って、先ほどと同じ口調で続ける。
空気はじめじめとして暑かった。
「それで……」
「私の考えは変わりません」
「だろうねえ……」
教授はその巨体を、椅子の背もたれに盛大に預けた。
困ったように眉を奇妙な角度でひそめた様子といい、どうにも動物めいている。
そこが、彼の愛すべき特徴であるのだろうが。
私には、反省の思いがこみ上げてきた。
「すみません。こんなふうに、ご期待にそむいてしまって……」
「いやいや。確かに、君は優秀な物理の学徒ではあるが……」
ところで、私は東京大学の、物理学科の学生である。
文学部とは縁もゆかりもない。
文部科学省が行った大学改革は、至極単純なものだったと言っていいだろう。
つまりは『人文学』を、大学から排除した。
逆に言えば、それ以外のものには手をつけなかった。
それは大学側からの、猛烈な反発のためでもあっただろうし。
彼等自身の認識として、まだ有益なものが、残されたということでもあるのだろう。
ということで、物理学を私は学んでいたのである。
「私は、やはり、子どもの頃から親しんでいた、『文学』というものに、進みたいのです。」
私はその現状に、激しく憤っていた。
他の学生達にはない怒りだった。
その感情が、私の学業成績に貢献した。
「本当のことを言えば、この『制度』は、もっと君の専門に近しい分野を選んで、利用して欲しかったのだがね」
発言とは裏腹に、教授の目尻は下がり、口には優しげな笑みが浮かんでいる。
彼は、こういう暖かな人物なのだ。
「それでも、東大主席に文句がつけられるほど、私も偉くはないよ」
これは冗談だ。
いくら私の成績が優れていようと―他の学生を圧倒していようとー教授陣にかかれば、そんなものは意味をなさなくなってしまう。
それでも、彼は私の思いを汲んでくれた。
長い長い、逡巡の後ではあったけれど。
「それが、君の長年の夢だというのならー『人文学』に進むことを、許可しよう」
それは、彼の大学での立場にも、悪い方向に、大きな影響を及ぼす決断のはずだ。
それこそ、今さら、『人文学』など。
それでも、教授は、許可してくれた。
「……ありがとうございます。」
ゆっくりと礼をする。
この人についてきて、本当に良かった。
*・*・*
「それで、私の仕事の件だがね。」
私の回想は、男の無機質な声に遮られた。
前を向く。
男はこちらをその感情のない目で、相変わらず眺めている。
私は口を引き締めた。
「はい」
「率直に言って、どう考える?」
「率直に、ですか?」
「ああ」
「あまり望ましくはないと思います。」
男の目が僅かに開かれる。
私の反抗的な物言いによるものだ。
しかしその驚きが、表情に明確に現れることはなかった。
「それは……どういう意味かな?」
「『人文学』は、たった一人に担われるべきものではない」
現在、『人文学』を覆っている状況は、百年以上前の日本のものとは、比べるべくもない。
大学からそれを排除した文部科学省。
大学を従来の姿とは格段に変化させた。
それは当然、教育そのものの姿を変革させることでもあり。
各界からの批判も、当然招くことになる。
「なるほど」
そう言って、軽く頷く男。
顎をわずかに撫でる。
怒るわけでもなく、単純に事実を受け入れている風情だった。
私は続ける。
「文科省の態度は、単純に言って矛盾しています。学問を自ら破壊することをしでかしながら、あなた方のような、『エキスパート』を育成している。」
まさに、最悪の状況だった。
最初にその制度の概要を知ったとき、私はそれが、冗談であってほしいと願ったものだ。
これではまるで、教育がろくに機能していなかった、中世への逆戻りではないか。
大学から『人文学部』を奪った政府。
しかし、言わば妥協案として、彼らは同時に、<大学から離れた場所>で、学問を発達させる『制度』を用意したのである。
それが『文部科学省人文学委任官』。
『文学』を途絶えさせない為の行為。
エキスパートのみに、『それ』を率いていくことを許す制度である。
「端的に言って、馬鹿げている。」
何がここまで私に言わせるのだろう?
普段はおとなしい理系学生に甘んじているというのに。
『人文学』への―特に『文学』への―愛情だろうか。
男はこちらを黙って見据えている。
「…………」
また、肌が冷えてきた。
視界が重圧で覆われる。
政府高官に対して、一介の学生が言ってよいことではなかった。
今さらながらにこみ上げてきた後悔の念に、いっそう居心地の悪さが身に染みてくる。
この部屋の無味乾燥さは、この男そのものを体現しているのかもしれない。
「……なるほど」
なるほど、なるほど。
男は呟くようにそう言った。
「いや、これは……その」
しどろもどろになっていく。
急に冷静さを欠く私に。
男の口調がわずかに変わった。
「そんなにかしこまらなくてもいい……君の意見は、確かに『もっとも』だ」
「…………」
はっと目をあげる。
意外だった。
未だに高圧的ではある。
しかし、その瞳に浮かんでいた表情はー明瞭に読み取れるものではないにしろー柔和なものに変化していた。
男は笑みを浮かべさえして、その口を開く。
「文科省は、矛盾の極みだ。『人文学』を軽視しているのか、重んじているのか、よく分からない。いっそ、そんな制度を設けるくらいなら、大学で学問を教える従来の形に戻した方がいい」
彼は目線を下げ、考え込むように髪を撫でる。
同時に机を指先でコツコツと叩く。
それから、突然こちらに質問を寄こした。
「『人文学』を学ぶにあったて、はたして、どんな人間が相応しいと思う?」
真面目な口調。
唐突な発言。
アドリブに弱い私は、まごついてしまう。
「え、いや、ええと……」
「いや、むしろ、『高等学問』そのものを、誰に担わせるのか、と言った方がいいか」
彼はそういって、こちらをまっすぐ見つめる。
私は返す言葉を持たない。
ただ漠然とした、音を発するだけだ。
「ええと、その……」
私の矮小なそれは、男の空気に呑まれて消えていく。
彼は「もういい」というように、手をゆっくり振ると、言葉を続けた。
「政府のお偉いさんの考えなど知る由もないからね。……これは、私独自の考えになるが」
狭い空間に、煌々と響くその声。
突然始まった『それ』に。
私は耳を傾けるほかない。
「『学問』、ないしは『思想』。もっと抽象的に言えば、『観念』とでも名付けようか。まあ、正確な字義はよそに置くとして」
集中力を増していく。
「『個々人』そのものと、世界を覆う『思想』、『概念』。」
思想的なキーワードを並べていくその姿は、まるで、現実では一回も見たことがない、文学部の教授のように思えた。
静かに、しかし力強く、身振りを交えて。
これは、私にとって、初めての「講義」だ。
「私の考えでは、まず紛れもない『現実』が、この世界には存在する。そしてその現実内に存在する『個々人』が、様々な『思想』、『概念』を作り上げていく。世界を上位から覆うそれら『概念』は、個々人に還元され、『現実』を作り上げていく。人文学にしろ理系学問にしろ、それは変わらない。そうして、我々は現実を生きていく」
現象学、フランス現代思想、脱構築。
どこかで聞きかじった生半可な知識に過ぎないが、それら関連した単語が、私の頭を過ぎる。
「さて、こういった、世界のサイクルで肝心になっていくのは、なによりも、世界を構成する『個々人』だ。まずそれら『概念』が、彼等『構成員』を通り過ぎていくー彼らの頭の中を、『インプット』、『アウトプット』されていくーことによって、世界は始まるからね。」
男がちらりと視線を寄越す。
私は理解していることを示すために、こくりと頷いた。
彼は続けた。
「私がこのサイクルで問題だと思うのは……。彼等『個々人』が、どんな思想を『インプット』し、『アウトプット』しようが、『個々人』の『核』ともいうべきものそのものは、変わらないということだ。」
「『核』?」
「そう『核』だ。『本当の自分』と言い換えてもいいかもしれない」
「……その『核』というのは?」
「その『個々人』の社会的立場などからは、むろん離れたものだよ」
今度は男が、私の疑問にこくりと頷く。
「『核』というのもまた、非常に抽象的な概念ではあるが……」
それから、ひとしきりぶつぶつと呟くと、やがて思いついたように、こちらに視線を向けた。
「まあ、何も、こんな『難しい』言葉を使うまでもない。例えば、ある小説家が、素晴らしい美麗な文を書いたとしよう。多くの読者がそれに魅了される。これは、まさしく『思想』の『アウトプット』だ。そして、世間の好奇心に応え、ついに著者がその『容姿』を耳目にさらす。」
ここで再び、彼は皮肉を交えて笑った。
「しかしだね。いくら彼が、美麗な文章を書いたところで、彼の『核』ー醜悪な彼の『容姿』がごまかされるわけではない。つまり、彼の『個々人としての核』は、なんの変化も受けはしない」
「ブサイクはブサイクなままというわけだ。」
そう付け加える彼の表情には、どこか面白がっている様さえ見て取れた。
なんと身も蓋もない言い方だろう。
しかし、真面目な『文学徒』は、教授の言うことに反発しない。
「まあ、容姿だって、核とは関係ない、飾りの一つとも言えるかもしれないが……。取りあえず、私の考えでは、共通了解の取れた『個々人の核』は、容姿、人格、人種。その他、いくつかの構成要素からなり立つとしよう」
彼は大学教授然としてー一種のユーモアさえ感じさせながらー「講義」を続ける。
「例えば、世界中を感動させる映画があったとしよう。誰もが涙なくしては見られない、その映画。その『概念』を、『個々人』は『インプット』する。人権、生きることの大切さを、痛切に、噛むように胸に噛締める。しかし、翌日。彼等は気に入らない同僚の悪口に終始する」
『個々人の核』には、変化がない。
それは、ある年齢までに決まってくるものなのだ。
だから、既に定着したものは変わらない。
聞きかじった心理学の知識が、また私の頭を過る。
「理系学問にしてもそうだ。シュレディンガーの猫がどんなに難解な思想だろうが、それをドヤ顔で語る学生は、ただ痛々しいだけだろう?」
私は、中学時代の、二三の友人の顔を思い出した。
男は肩をすくめた。
「さて、話を文学に移そうか。大学教育からそれが排除された現在、文学の話が、どれくらい君に通じるか分からないが……」
「分かります。……少なくとも、ある程度までなら」
勢いこんで答えたあげく、自信を急に失して尻すぼみになる。
男の瞳が再び広がった。
「なら、この例えも通じるだろう。」
それからほとばしり出た彼の言葉は、私の心を、同様させるに十分なものだった。
*・*・*
男が両手を広げた。まるで、聴衆に相対する、一人の俳優のように。
人生は舞台である。
シェイクスピアの言葉が頭をよぎる。
「この世界に、『風の歌を聴い』た人間が、何人いると思う?『大いなる遺産』を相続した人間が、何人いると思う?『天路歴程』を共にした人間は?『緋文字』を、その胸に刻まれた人間は、何人いると思う?」
この男の、どこに、これほど強い感情が宿っていたのだろうか。
激したわけではない。
ただ、この小さな部屋を震わせるほどの、言うなれば『静かな怒り』が、彼の全身を占めていた。
「『大鴉』の訪問を受けた人間は?『アモレッティ』の愛の表現に耽溺した人間は?ディキンソンの『誌』の比喩に、唸った人間は?」
何人いる?『文学』に身を浸した人間は?
「『怒りの葡萄』を味わった人間は?『ゴドーを待ちながら』生きた人間は?『響きと怒り』に駆られた人間は?」
何人いる?
彼の強い目が問いかける。
「『風と共に去りぬ』時代の後に、何人が生きた?『鍵のかかった部屋』に閉じこもった人間は?『ライ麦畑で捕まえて』欲しかった人間は、何人いる?」
私はその迫力に、つばをごくりと飲み込んだ。
沸騰している。静かに、それでいて、激しく。
「それで、何が変わった??確かに、僅かに世界は変わりつつあるだろう。プロセスに絡み取られて、向かうべき方向は変わっていく。いわばマクロな視点では、物事は確実に動いていく。しかしそのことと、『個々人の核』には、何ら関係がない。ミクロな視点の、個々人にとっては、何ら変革を及ぼさない。何を『インプット』しようが、だ」
何人いる?文学に変革を受けた人間は?
微々たるものだ。
「だから、というわけではないが。」
男は、尚も静かな怒りを湛えながら、ゆっくりと呟いた。
「『人文学』、とくに『文学』を『正式』に担う人間は、少人数でいいーそれこそ、一人でいい。大抵の人間は、『インプット』されたものを、そうやって、上手く『アウトプット』することさえできんのだから」
彼の話は終わった。
講義は終了だ。
即座に、頭の中で復習が始まる。
何を取り入れようと、個々人の『核』には影響しない。
どんな深淵な思想を描いていようが、そいつの立場は変わらない。
私は身近な知り合いを思い描いてみた。
本当に、難しい言葉を使うまでもない、簡単な話だ。
その知人は優秀な工学者だ。
数々の有益な『概念』を排出している。
しかし、彼個人の、『核』。
その陰湿な性格やら、やぼったい唇から成る、およそ恵まれたとはいえない容姿。
工学的な知識が、残念なことに、彼自身に変化を及ぼしているとはとうてい思えない。
つまりは、そういうことだ。
だが……
「それではまるで」
「私が、唯一『人文学』に適任した人間である、とでもいうような言い方だろう??……ある意味では、そうなんだよ」
そうして、彼は自嘲気味に笑う。
「私には、この『仕事』しかない。私には、『核』がないのだ。だから、私はやっていられる。『学問上の公安』、とでも言おうか。」
そうして、彼は自らの身の上を語った。
彼には家族がいないこと。
友人がいないこと。
人と接触する機会がないこと。
24時間、自らの『仕事』についていること。
私は、何も喋れない。
その圧倒的な重量に、私の浅はかな感覚が、麻痺していく。
「さて、質問だ」
私がまだ混乱の中にいるうちに、彼は口を開いた。
「君は、私の『仕事』を引き継げる覚悟があるか?」
真剣な表情。
揺るぎのない視線。
私は……
私は……
*・*・*
無機質な部屋だった。
しかし、その部屋だけではない。
私自身の中身も、また無機質だ。
浅薄だ。
人間は、世界を生きていかなければならない。
マクロな視点では、長大な思想に影響されようが。
ミクロな視点では、この一瞬一瞬を。
『人間の核』は、何を成そうが、そう簡単には変わらないのだから。
ならば、その時、『人文学』は?
『人文学』は、どこにあるのだ?
「…………私は」
周囲の壁が具体的な感情を伴って、迫りくるように感じられる。
それを振り払うためにも。
私は、男の質問に答えた。
*・*・*
『文学はどこだ!?』了。