壊れゆく夏
「麗らかな春」、海夏視点の話です。
不快感を与える恐れがありますので、ご注意下さい。
かつての私は容姿に自信があった。
ナンパされる事なんて日常茶飯事だったし、雑誌のスナップなんかにも時々声をかけられて、誌面に載ったりもした。
私の場合、それは努力の結果だった。
始まりは中学生の頃、当時流行っていたプリクラ。いかに可愛く写るか?という事から始まる。
この角度がベストとか、ピースの位置とかそんな事を研究しているうち、眉を整えることを覚え、次第にメイクにハマっていった。
自分の顔が変わってゆくのが楽しかった。
制服のスカートの丈に異常にこだわってみたり、今思うと馬鹿みたいだけど、ルーズソックスなんか、友人達と長さを競って履いた。
高校生になると、パーマをかけたり、髪を染めたり、ピアスを開けたり自由度が上がって楽しかった。
私服も、なるべく大人っぽく見えるように心がけ、大学生とか社会人に間違えられる事に喜びを感じた。
変わりゆく流行に乗り遅れないように、赤文字系の雑誌を読み漁り、遠出して買い物に行ったり、友達との情報交換も欠かさなかった。
メイクだって、より可愛く見えるように、より自然に目が大きく見えるように研究を怠らなかったし、スッピンで外を歩くとかあり得ない。
暇さえあれば、髪を整え、化粧を直し、ネイルを気にしていた。
美意識は高い方だったと思う。
その甲斐あってか、結構モテた。
女子高だから出会いがない!なんていう子達も多かったけれど、努力をしていたら決してそんな事はない。
通学途中にだって出会いはあるし、バイト先とか、友達の紹介とか幾らでも方法はあるのに、努力しない子達は出会いがないと嘆いていた。
高校3年間で6人と付き合ったけれど、相手に告白されて付き合うのがほとんどだった。
自分から告白したことのなかった私が、初めて告白したのは高校3年生の夏。
小学校・中学校の同級生で、割と近所に住んでいる、いわゆる幼馴染、博之だった。
博之は、昔からカッコよかった。
頭も良くてスポーツ万能。オシャレで、優しい。
中学生の頃、好きだったけれど、当時博之は先輩と付き合っていたし、私にとって彼はただの憧れだった。
中学卒業後、私は私立の女子高、博之は公立の進学校へ通った。
高校は違ったけれど、方向は同じだったから、通学途中に見かけることもあったし、会えば話もした。
高校3年生の夏休み、塾の夏期講習。クラスは違ったけれど、帰りの時間が同じになる事が多くて、帰り道が同じだった私達は時々一緒に帰ったりしていて、私は思い切って彼に告白したのだった。
結果はOK。
とはいえ、お互い受験生だったので、デートは専ら図書館かファミレスで勉強するだけ。
それでも楽しかったし、好きな人と一緒に居られるだけで幸せだった。
博之との交際は順調だった。
お互い志望校に合格して、私は一人暮らしを始めた。
博之は自宅から大学へ通っていたけれど、お互いの通う大学自体は近かったので、たくさん会えたし、私の一人暮らしのアパートへ博之が泊まることもちょこちょこあった。
大学2年生の夏まではすごく上手くいっていた。
***
大学2年生、20歳の夏、私は夏休み限定でアルバイトをする事にした。
仲の良い友人3人で、2週間ほど、住み込みの海の家でのバイト。
ちょっとした旅行気分で、開放的な気分になっていた事もある。
そこで、私はひと夏のアバンチュールというものを経験する。
相手は、私達と同じように近くの海の家にバイトに来ていた2歳歳上の大学生。
「海夏ちゃんって言うんだ?俺、裕樹。よろしくね。」
彼、裕樹くんはジャニーズ系。
彼は私に対して、「可愛い」とか「大好き」はもちろん、髪型や服装を毎日褒めてくれたし、少しメイクを変えただけでも気づいてくれた。
博之はそんな事を言ってくれることなんてほとんどなかった。好き好き言うのはいつも私だけ。髪型を変えても、気付かないのか何も言ってくれない。
博之がそんな感じだったから、裕樹くんが少しの変化にも気付いて可愛いって言ってくれるのには感動すら覚えた。
お互いカレカノがいたので、海の家にで働いている間だけ、そう約束をして恋人になった。
夢のような時間だった。
裕樹くんとは約束通り、期間限定の恋人で終わった。
別れ際、お互いの連絡先を消去して別れた。
夏が終わり、秋がやってきても、裕樹くんを思い出しては彼のことばかり考えていた。
甘く優しい言葉たちは、ずっと私の頭の中でこだましている。
博之と寝る度、裕樹くんなら大好きだって言ってくれるのに、とか、もっと優しくしてくれるのに…なんて事を考えて、比べてしまっている自分がいた。
それは冬になっても同じ事。
連絡先も消してしまったし、裕樹くんの大学は遠いし、もう会うことなんてないのだろうな…そう思うと、余計会いたくなった。
「あれ?もしかして…海夏ちゃん?」
年が明け、初詣で訪れた神社で突然声をかけられた。
振り向くと、私の目の前には会いたいと願うも、決して叶わないと思っていた裕樹くんがいた。
「俺、裕樹。覚えてない?去年の夏、海の家でさ…。」
私は運命の出会いだと思ってしまった。
まさか、こんなところで、こんな人混みで再会するなんて…。
私と裕樹くんは、迷うことなく連絡先を交換した。
そこからメールのやり取りが始まった。
メールだけでなく、数回デートもした。裕樹くんの大学は遠かったけれど、彼の地元は私の通う大学の近くだったのだ。
メールのやり取りが1ヶ月程続いたある日、裕樹くんから彼女と別れたという連絡をもらった。
そして、私は裕樹くんに告白された。
私は、迷うことなく博之に別れを切り出した。
「他に好きな人が出来たから、博之と別れたいの…。」
博之は意外にもあっさりOKしてくれた。
あまりにあっさり過ぎて拍子抜けしてしまうくらいだった…。
春になると、裕樹くんは彼の地元、つまり私の通う大学のある街に就職した。
物理的な距離が近いので、頻繁に会える、上手くすれば毎日かも?そう密かに思い、勝手に喜んでいた。
しかし、実際はそんなに上手くいかなかった。
社会人は忙しいらしい。
それでも、時間を作っては私に会いに来てくれたし、会えないときは電話で甘く優しい言葉をたくさんかけてくれた。メールだってすごくマメにくれた。
裕樹くんの甘く優しい言葉に酔いしれていた。
裕樹くんは私だけを愛していると言ってくれた。
私は、完全にそれを信じていた。
裕樹くんは自慢の彼氏だった。
イケメンで、優しくて、大人で…。
そして私はそんな彼に愛されている。
友人達にも彼を紹介した。紹介するたび、カッコイイと絶賛され、羨ましいと言われ、美男美女、理想のカップルだと周りに持ち上げられ、私は優越感に浸っていた。
ところが、初夏のある日、私は裕樹くんの秘密を知ってしまう。
その日、裕樹くんは私の一人暮らしの部屋に遊びに来ていた。
彼が、シャワーを浴びている時、彼のケータイにメールが届いた。
思わず、ケータイを見てしまった。
なぜ見てしまったのかはわからない。
それでも理由をつけるなら…出来心、それが一番しっくりくる。
私は見てしまった事を後悔した。
彼のメールボックスの中には女の子からのメールがたくさん届いていた。
その中には、私の知っている名前が複数あった。
ショックだった。
特に仲良くしている、私が親友だと思っていた美緒の名もあったのだから…。
そして、彼女からのメールを開いて更なる衝撃を受けた。
その友人は、彼との間に肉体関係があった事がはっきりわかるような内容のメールを送っていたのだから。
許せなかった。
彼も友人も。
シャワーを浴び終えた裕樹くんを問い詰めると、いとも簡単にそれを認めた。
そして、あんなに優しかった彼が豹変して、私に汚い言葉を浴びせた上、携帯を見たことに対して逆切れ。
私はアッサリ捨てられたのだった。
***
『化粧しなけりゃとても見られる顔じゃない。』
『ブスのくせに調子に乗るな。』
『相手をしてやったんだから感謝しろ。』
彼に言われたそんな言葉たちを思い出す度、私は不安と恐怖に襲われた。
とにかく誰かに慰めてもらいたかった。
そんな時、真っ先に思い浮かんだのが博之だった。
博之は、好きとか滅多に言ってくれないけれど、すごく優しかった。
とりあえず、実家に帰って、博之にメールでもしよう、それで約束をして…会って…そう思っていた。
駅から実家への帰り道に博之の家がある。
ちょうど博之の家が見えてきた頃、家の中から人が出てきた。
博之と、見覚えのある女だった。
あの子は確か…麗という名前の高校のときのクラスメイト。
博之の高校の卒アルを見せてもらった時、参考までに、学年で1番可愛いと思う子は?と聞いたところ、博之が迷わず指を差したのが彼女だった。
てっきり『れい』だと思って彼女の名を口にしたら、彼女の名は『うらら』だと訂正されたのがやけに印象深い。
私とは全く違うタイプの子を指差したので、すごく戸惑ったのを覚えている。
確かに、『可愛い』か『可愛くない』かの2択だったら『可愛い』部類に入るだろうけれど…。
他にも可愛い子はたくさんいたのに、なんでこの子なんだろう…そう思った。
黒髪のボブで、化粧っ気のない顔。
服装は、シンプルとか、ベーシックとか、オーソドックスとか、キレイめと言えば聞こえがいいけれど、はっきり言って地味。ううん、はっきり言わなくても地味。
それが目の前にいる彼女の感想。
博之は長い髪が好きだったはずなのに。
服装だって、もっと垢抜けた感じが好きじゃなかったの?
しかも、なに…あの笑顔。楽しそうにしちゃってさ…。
手を繋いで彼の家を出てきたのだから、間違いなく2人は付き合っているのだろう。
私は帰ってきたことを後悔した。
博之に新しい彼女が出来ているなんて思いもよらなかった。
冷静に考えたら、別れを切り出した時、動揺する事なく、あっさりOKしていたのだから、私に他に好きな人がいたように、博之にも好きな人がいたのかもしれない。
それに、別れてから3ヶ月以上経っているのだし、博之はカッコイイのだから、彼女が出来ていたって何ら不思議はない。
何を根拠に、博之なら今でも私を慰めてくれるはずだ、なんて思ったのだろう。
自分の浅はかさに笑ってしまった。
この虚しさはなんだろう。
ああ、そうだ、私は親友だと思っていた美緒に裕樹くんを取られたんだから、代わりに彼女の恋人を貰えば良いじゃないか、それでお互い様だという事に気付いた。
別に博之に拘る必要なんてない。
自分が満たされたらそれでいいんだ。
***
それはいとも簡単だった。
私からアクションを起こす必要さえ無かった。
私が親友だと思っていた美緒の彼氏、同じゼミの直哉の方から私に声をかけてきたのだから…。
「ちょっとさ、美緒の事で金井に相談したい事があるんだけど…話聞いてもらえないかな?」
金井、直哉は私をそう呼ぶ。
美緒が、彼が美緒以外の異性を下の名で呼ぶことを許さなかったらしい。
直哉は、1ヶ月程前から美緒の様子が変わったのだと言う。
メールのレスポンスが遅くなり、夜電話をかけても出ないことが多い。
一緒に居てもうわの空。
決定的だったのは、美緒の首の付け根、ギリギリ服で隠れる場所にキスマークがあった事。
ただ、見えたのは一瞬だったため、見間違えかもしれないとその時は思い、本人には聞かなかったらしい。
その後も色々気になり出して、美緒が浮気をしているのではないか、そう思ったのだそうだ。そしてその件について、彼女の親友である私なら何か知っているのではないか、相談とはそういうことらしい。
「直哉…実はね…。」
演技でもなんでもない。
思い出しただけで涙が流れた。
裏切られて、悔しくて、惨めで、苦しくて、虚しくて…そんな感情が心の中で渦巻いていた。
私は泣いて裕樹くんと美緒が隠れて会っていること、私が見てしまった、美緒が裕樹くんに送っていたメールの内容を話した。
直哉は相手が誰かまでは把握出来ていなかったし、それがまさか私の彼氏だとは思いもよらなかったらしく、愕然としていた。
私と直哉はその日のうちに、お互いの傷を舐め合うよう、寂しさを埋めるようにお互いを求め合った。
それは1度や2度で収まらず、そのままズルズルと関係が続き、いつの間にか互いに惹かれ合い、真面目に付き合うようになった。
直哉は、決して顔が良いわけではなかった。
いわゆる、雰囲気イケメンというやつで、彼も私同様努力しているタイプだった。
彼は、ノーメイクの私ですら可愛いと言ってくれた。
裕樹くんや博之ではあり得なかった事だ。
博之は、幼い頃からの私を知っているので、ノーメイクの私を見たとき、驚いたもののすぐに受け入れてくれた。決して可愛いとは言ってくれなかったけど…。
裕樹くんは、今思うととてつもなく酷かった。
メイクをしている方が可愛いからと、お風呂上りに化粧をして欲しいと言われたこともある。
ノーメイクで彼に抱かれる時は必ず暗闇だった。
幸せな時は気付かなかった。
別れ際にはブスだの見れたもんじゃないだの罵倒された。
罵倒されてやっと気付いたのだ。
直哉とは全てにおいて好みが近かったし、ありのままの私を受け入れてくれるので、すごく居心地が良かった。
先に彼の地元での就職が決まっていた直哉を追いかけて、私も同じ土地へ就職し、ごく普通のOLになった。
私の地元から新幹線で1時間程のその土地で、私は再び一人暮らしを始めた。
直哉は実家暮らしだったので、彼が私の家に遊びに来ることが多かったが、彼の実家へ行き、家族に紹介してもらい、ごくたまに、ではあるが、遊びに行って食事をご馳走になったりもした。
就職して3年程すると、時期は漠然ではあるが、結婚の話も出た。
毎日が楽しくて、仕事もプライベートも全てが充実していて、なんでもないようなことでさえ幸せだって思えた。
この幸せがずっと続くんだ、私は直哉と結婚して、幸せな家庭を築いていくんだ、って信じて疑わなかった。
でもそれは、驚くほどあっけなく崩れていった。
付き合ってちょうど6年の真夏のある日、突然、直哉に切り出された別れ話。
どうする事も出来ない私は、泣く泣くそれに従う事しか出来なかった…。
***
そこからは本当に酷いものだった。
職場と家を往復するだけの日々。
満たされない心は、甘いものを食べる事で満たした。満腹になれば、僅かながら幸せな気持ちになれた。
しかし、それで満足できたのは一瞬で、それを満たすため、食べる量がどんどん増えていった。
食べても食べても満たされない。
かつて自身があった容姿も、今では酷いものだ。
仕方ない、努力を怠っていたのだから…。
そんな時、私に優しくしてくれた男性がいた。
15歳も年上の上司だった。
そう、私は不倫にハマってしまったのだった。
初めから割り切った関係は、とても楽だった。奥さんから彼を奪う気などさらさらなかったし、彼も奥さんと別れて私と結婚する気など全くなかった。
「君は寂しい。僕も遊びたい。利害関係が一致しているんだからそれで良いんだよ。別に僕の他に若い男と付き合ったって良いんだ。もし、君が結婚したくなったのなら、僕と別れて若い彼氏と結婚してもいいし、相手がいないのならばそういう人間が集まる場所で探せばいい。その方が合理的で良いじゃないか…。」
『合理的』
それは私にとって魔法の言葉だった。
その言葉を使うことで、私の罪悪感は薄れ、感覚が麻痺してしまった。
私は完全に壊れていた。
いや、腐っていたのかもしれない。
壊れてしまった私にとって、彼は最高の癒しだった。
初めから期待などしていなければ傷付く事もない。15歳も年上だったが、見た目だけなら30代前半、引き締まった良い身体をしていたから若い男など必要なかった。落ち着いて温和な性格はさすが40代、すごく大人だった。
かつて大人だと思っていた裕樹くんなんてただのガキだと思ってしまうほどに…。実際にそうだったのだろうけれど…。
しかし、3年も経つとそんな関係にも飽きてくる。
かといって彼と別れられるかというと、居心地が良すぎて別れられなかった。
例え、1度何かの手違いで妊娠してしまい、堕胎させられた事があったとしても…。
私はどうやらクズという部類の男が好きらしい。
私だって同類もしくはそれ以下なのだから、私が彼らをクズ扱いするのは間違っているのは重々承知だ…。
どんどん壊れていく。
どんどん腐っていく。
それを甘やかし、助長し続ける不倫相手。
そんな自分に嫌気がさした時だった。
私がかつて大好きだった人と再会したのは…。
***
「あれ?博之?冬田 博之だよね?」
「…もしかして…海夏?」
私が唯一告白して付き合っていた男。
10年経っても、博之はカッコよかった。不覚にもときめいてしまった。
こんな気持ちになるのは久しぶりだった。
博之と飲みながら、彼の近況を聞いた。
彼の口から語られる話は聞いていて気分の良いものではなかった。
博之は、未だあの麗という女と続いていた。
しかも、1年後に式を挙げるのだという。
私が苦しんでいる間も、博之は彼女と付き合い続け、幸せに暮らしていたのかと思うと悔しかった。
世間話程度に、彼女がどんな人か聞いてみたところ、意外な答えが返ってきた。
「美人で、結婚するには最高。」
それはつまり、遊ぶにはつまらない、そういう事だ。そうたずねると、彼は否定などしなかった。
不倫相手にも飽きてきたことだし、ここで会ったのも何かの縁。期間限定で遊ぶ事を提案した。
結婚・出産をしたくない訳ではないが、どうしても今すぐしたい訳ではない。いずれ、で良いが、そろそろ考える必要もある。
そんな私にとって、期間限定の博之は遊ぶのに最適な相手だったのだ。
私は30歳。もう、若くなどない。これはきっといい機会なのだ。
15歳年上の不倫相手とは別れた。
博之と遊んで…幸せだったあの頃を思い出して前に進むきっかけにしよう…約束の日が来たら、きっぱり博之とは別れて不倫ではない恋をしよう、私はそう決意した。
***
博之と会えるのは平日の夜だけ。週末、彼は決まって地元へ帰るのだから。
博之は、彼女の事を、結婚するには最高だが遊ぶにはつまらない、そう言った。
私とは逆だ。
私は、遊ぶには最高だと不倫相手に散在言われてきた。
博之の部屋は、殺風景な部屋だった。
最低限の家具と家電しかなく、本当に寝るために帰るだけの部屋、そんな感じ。
彼女の写真があったら見たかったが、そんなものは飾られていない。
9年前、偶然に見た地味な彼女はどうなっているのか、ただの興味本気だった。
「ねぇ、彼女の写真とかないの?見せてよ?」
博之は少し渋ったが、PCを開いて見せてくれた。
そこには、9年分の写真のデータがあった。
消すなよ、それだけ言うと彼はシャワーを浴びに行ってしまった。
2人で写っている写真もあったが、ほとんどが彼女が1人か、友人達と楽しそうに写る彼女だった。
海、山、テーマパーク、花見、夏祭り、BBQ、ハロウィン、クリスマス、初詣、雪山、温泉、誕生日、飲み会や何気ない日常まで…。
中には、温泉宿の浴衣を着て、友人達とノーメイクで写真に写る彼女の姿もあった。
そして、1番日付の新しいフォルダには、ウェディングドレスを着て幸せそうに微笑む彼女の姿。博之が隣で柔らかな笑顔を浮かべる写真まであった。
博之のそんな表情は見たこと無かった。
突然、私の心の中にどす黒い何かが湧いてきた様な気がした。
9年前、あんなに地味で垢抜け無かった女は、時間の経過とともに、どんどん美しく垢抜けていった。服装の系統は全く変わっていない、最近でもシンプルでベーシックな服装のままだというのに、それがすごくセンスが良く、オシャレであるかのように見えた。
もはや地味な女ではなかった。
そして、ボブの黒髪は、どんどん長くなり、落ち着いた柔らかなブラウンになっていった。
その日、私は博之にいつものように抱かれた。
いつもと同じはずなのに、いつもとは全く違った。
寂しくて、悲しくて、虚しいだけ。
その後、何度か抱かれたがやはり同じことだった。
私は、彼女が羨ましくて仕方がなかった。
博之に愛され、友人に囲まれ、心底楽しそうに笑い、幸せそうに微笑み、美しく、ノーメイクの姿ですら写真に残せる彼女が…。
そして、博之が彼女に見せる表情が妬ましくて堪らなかった。
私がもがき、苦しみ、壊れて腐っていっている間、彼女はどんどん美しくなり、博之や友人達に囲まれ人生を謳歌していたのだ。
私は彼女が羨ましくて、妬ましくて、おかしくなってしまいそうだった。
彼女に対して、憎しみなどは無い。
ただただ、羨ましい…それだけ。
博之が欲しい。
博之に愛されたい。
彼が彼女に見せていた笑顔を独り占めしたい。
彼女のポジションが羨ましい。
私が、そうなれたらどんなに良いだろう…。
ううん、それじゃあ物足りない、もっともっと幸せになりたい。
彼女になりたい…。
私が彼女に、八重山 麗になりたい…。
***
それに気付いた私は、変わっていった。
服装を変え、髪型を変え、メイクを変えた。
無情にも、それらは私に全く似合っておらず、彼女の様な美しさなどが手に入る訳では無かったが、それでも私は満足だった。
博之を手に入れる方法はただ一つ。
かつて、私がそうされたのと同じ事をすればいいだけ。
既成事実を作れば良いだけなのだ。
真面目に結婚を考え、幸せの絶頂にいた私を奈落の底へ突き落としたのは1人の女だった。
直哉は、同僚の女を妊娠させたのだ。
酒に酔って、1度だけ、その1度の過ちで同僚が妊娠してしまったのだと言った。
本当はどうだったかなんて知らないしどうでもいい。
私が捨てられた事実に変わりはないのだから。
私の決意は固かった。
博之にピルを飲んでいるという話はしたことがあった。
絶対安全な日だから、そう何度言っても、博之は必ず避妊具を使った。
しかし、1度だけ、たった1度だけ使わない事に成功した。
もちろん、それだけでは不十分だったので、決意して以来、毎回避妊具には小さな穴を開けておいた。
その甲斐があって、ギリギリのところで、私は彼の子供を身ごもることに成功した。
博之に妊娠を打ち明けたところ、想定内の答えが返ってきた。想定内とは言え、それは酷く苦しくて辛いものだった。
思わず彼の部屋を飛び出してしまった。
でも良いんだ。
博之が手に入りさえすれば、この程度の苦しみならいくらでも耐えられる。
私はその足で実家に帰った。
そして、翌日、博之の実家を訪れた。
***
思惑通り、私は博之と籍を入れる事に成功した。
事情を全く知らない私の両親は、私と博之の結婚を手放しで喜んだ。
相手が博之だったから、順番が逆でもとやかく言われなかった。
国立大学を卒業し、有名企業で働いている、それだけ十分だった。
博之本人や博之の両親とも知らぬ仲では無いので、安心だったらしい。
私の両親は、博之の様な息子に憧れていたのだ。
実際、私の2学年下の弟に、近所に住む博之を見習え的な発言を何度かしていた程に…。
彼女になりたかった私は、博之と彼女が選んだ新居で、彼女のセンスで選ばれた家具や家電に囲まれて暮らす事に悦びを感じた。
それはやはり、シンプルで飾り気はないが、洗練され、機能的でとても素敵な部屋だった。
両家の親の意向で、式を挙げることになったのだが、私は彼女が選んだ式場で彼女が希望したように挙げたかった。
博之は渋ったが、私は魔法の言葉で彼を説得した。
「そこ、すごく憧れていたんだよね。それにすごく人気で予約取るのが大変なところだし。気候だって良いし、私も安定期だから日程もベストだし。それに、キャンセルしたらキャンセル料もかかるし勿体無いよ。だから、そこにしようよ、どうしてもそこが良い。今から式場探すのも大変だし、合理的でしょう?」
合理的、その言葉で博之は渋々納得したようだった。
そして、彼も次第にその魔法の言葉に取り憑かれていった…。
ある時、私は見てしまった。
博之が、何かを隠し持っていて、愛おしそうに見ている姿を…。
PCに保存されていた彼女の写真は全て私が消去した。
彼女との思い出の品は、そもそもこの家には無いはずだ。博之はあの殺風景な部屋から引っ越してきたし、地元に残っていた彼女との思い出の品は博之の両親の手によって処分されたはず。
私は、博之がいない時、博之が隠し持っている何かを必死で探した。
博之が愛おしそうに眺めていたのは一体何なのだろうか?
しかし、なかなか見つからない。
クローゼットの中にも、デスクの中にも、チェストの中にも、どこにもなかった…。
そして、ついに見つけた。
それは、仕事関係の本が詰まった本棚の奥にひっそりと隠されていた2つの小さな箱。
中に入っていたのは、3つの指輪だった。
"H to U"、そう彫られた指輪が2つ。
"U to H"、そう彫られた指輪が1つ。
それは間違いなく婚約指輪と結婚指輪だった。
恐る恐る自分の左手の薬指にはめてみる。
緩やかなカーブを描くようなプラチナのリングの上に、流れるように配置された小粒のダイヤモンド。
もう一つの指輪は、存在感のあるダイヤモンドが一粒、リングはもう一つのものに寄り添うように同じカーブを描く。
重ねて付けると、存在感のあるダイヤから光がこぼれて流れているようにも見える。
なんて素敵なんだろう…。
彼女に贈られるはずだった指輪。
また一歩、私は彼女に、麗に近づけた様な気がした。
帰宅した博之に、指輪を見つけたことを明かすと、博之は今までに無いくらい動揺していた。
処分して新しく買おうと提案する博之に、私は再び魔法の言葉を浴びせる。
すると、彼も、魔法の言葉を唱え、自分自身に魔法をかけていた。
「合理的…だから、これでいいんだ…合理的…合理的…合理的…。」
博之の手ではめてもらった指輪は私の指に驚くほどピッタリ収まる。
これは彼女のために作られた指輪。でも、私の指に吸い付くようにピッタリ…つまり、今、この指輪は私の為に存在している。
私の手にはまった指輪を見る博之の目は虚ろだった。
彼の苦しむ姿を見るのは、なぜだかわからないけれど快感だった。
甘美で、何とも言えない高揚感があった。
***
月日は流れ、私のお腹はどんどん大きくなり、中で博之の子どもが動いているのを感じられるまでになった。
幸せだった。
愛おしかった。
博之は、現実を受け入れられずにいるようだったが、そんな事はどうでも良かった。
そして、迎えた結婚式の日。
博之の目は相変わらず虚ろだったが、私はとても幸せだった。
参列者はほとんど博之の婚約破棄した事実を知らない。
知っているのは、おそらく両家の両親と私の弟、そして博之の同期の同僚1人だけ。
どこから聞いてきたのか知らないが、私の両親は、博之が私の妊娠のせいで婚約破棄した事を知っていた。私には、それを知っているのかどうかの確認をしたものの、怒られることも、責められることも無かった。
結局のところ、悪いのは彼女ではなく私で、とりあえず丸く収まるならそれでいいという事らしい。うちの両親は事なかれ主義なのだ。その件に関しては見て見ぬフリ、目を瞑って聞かなかった事にしたらしい。
ただ、弟だけは、私と博之、そして両家の両親に対して軽蔑の眼差しを向けていた。
式にも出席するつもりは無かったらしいが、父が無理やり連れてきたらしい。
博之の同期の同僚、竹内さんは、1度我が家に遊びに来たことがある。
私は彼が苦手だ。
デリカシーが無く、ずけずけと物を言う。
笑っているのに、彼の目は終始冷ややかだった。
そして、彼は今日も同じ目をしていた。
私と博之は、2人以外の参列者に祝福され、無事に挙式披露宴を済ませたのだった。
その後、私は里帰り出産のため、実家へ帰った。
弟は、私の結婚を機に、家を出た。
付き合っている彼女と同棲する建前ではあるが、間違いなく里帰りする私を避けての行動だ。
実家で過ごす日々は退屈だった。
連絡を取って会えるような友人がいるわけでもない。
私には友人がいないのだ。
結婚式には、数ヶ月前まで勤めていた会社の元同僚を呼んでなんとか形になったものの、それ以外の友人は呼んでいない。
高校時代の友人、大学時代の友人とは、直哉に捨てられてから一切連絡を取っていないし会っていない。
過去の容姿を知る友人達に、努力を怠って酷くなった自分など見せられる筈もなく、こちらから連絡を絶ったのだ。
ちなみに、会社の元同僚達は、私が15歳年上の上司と不倫していたことなど知らない。
なので、結婚を明かした時、直哉の件で辛い思いをしたけれど、幸せになってよかったね、そう言ってくれた。
***
「名前は、柊と書いて『しゅう』がいい。」
12月に入ってすぐ、予定日を3日過ぎて始まった陣痛。
「案ずるより産むが易し」とはよく言ったものだ。
私は、3515gの元気な、博之によく似た男の子を出産した。
期待などしていなかったのに、博之は駆けつけ、出産に立ち会ってくれた。それどころか、産まれたばかりの子どもを愛おしそうな顔で見つめ、名前まで考えてくれたのだ…。
信じられなかった。まるで夢のようだった。
私は、博之の博と海夏の海から「博海」と名付けるつもりだった。
博之が考えているなんて微塵も思っていなかったし、それが彼なりにきちんと考えた名前であったことに感動した。
私は博之の考えた名を息子に付けることに即同意した。
冬田 柊。
私が産んだ博之の息子。
博之は柊を可愛がってくれた。
私に対する態度は、以前と全く変わることはなかったが、それでも私の産んだ柊を可愛がって、愛おしそうに眺めている、それだけで私は幸せだったし、満足だった。
一月後、あの女に会うまでは…。
***
柊が産まれ1ケ月と数日後、私は博之と柊を連れてショッピングモールへ買い物へ出かけた。
それは、親子3人揃っての、初めてのお出かけ。記念すべき日だった。
そんな記念すべき日に、私は彼女に会った。
八重山 麗だ。
彼女を見つけた私は、博之に挨拶をしないのか、そう尋ねた。
博之は躊躇ったが、もうすぐ近くまで来ている彼女の友人もこちらに気付いたようだったので、渋々、遠慮がちに声をかけた。
写真の幸せそうな笑顔ではなかったが、彼女は穏やかな表情をしていた。
写真よりも、痩せてはいたが、彼女は十分美しかった。
博之を促し、私と柊を紹介してもらうと、彼女は私に向かって挨拶をした。
「産まれたんだね。おめでとう。…ご挨拶が遅れました。海夏さん、初めまして。冬田くんと高校で同じクラスだった八重山です。」
彼女は、動揺することもなく、声を荒げるでもなく、穏やかな美しい声で、自己紹介をした。
博之の事など、もうなんとも思っていないようだった。
その冷静さに腹が立った。
なぜ、平然としていられるのだろうか。
なぜ、こんなにも余裕のある態度が取れるのだろうか…。
私は、苛立っていた。
苦しくて、淋しくて、虚しくて、辛かった。
私は、彼女が動揺し、泣き叫び、声を荒げることを期待していたのだろうか?
それとも、落胆し、泣いて崩れる姿を見たかったのだろうか?
違う、そうじゃない。
私は彼女に対して、憎しみや、恨みなどは無い。
あるのは、彼女が羨ましい、彼女になりたい、そんな歪んだ願望。
彼女と私を比べて、私が彼女に近づいた事を、私が彼女になりつつあることを確認したかったのだ。
そしてやっと気付いた。
私は、麗になどなれない。
それどころか全く近づいてさえいない。
足下にも及ばない。
彼女は、壊れても、腐ってもいない。
私は、どう足掻いたって一生海夏なのだ…。
そして、博之はまだ彼女を愛していた。
全て分かりきった事だったのに、私はそれに気付けずにいた。
自分の思考回路がいかに壊れて、腐って、おかしくなっているのかを実感させられた。
何を根拠に、私が彼女になれると思ったのだろう。
何を根拠に、彼女に近づけていると思ったのだろう。
***
博之の柊に対する愛情、それが本物であることが私の唯一の救いだった。
柊がいる以上、博之が私と離婚することはない、私が柊を大事に育てさえすれば、離婚することはない、それだけが私をこれ以上おかしくせずにしてくれた。
私は、今まで以上に柊に愛情を注ぎ、苦手だった料理も、掃除も、柊の為に必死で頑張った。
私が、離乳食を手作りするなんて思ってもみなかった。離乳食なんて市販のもので良い、ずっとそう思っていたのだから…。
柊の世話を懸命にしているうち、私の中で、彼女に対する羨望も、憧れもすっかり消えて無くなった。
私は冬田 海夏。
柊の母親で、博之の妻だ。
私は自分自身と向き合った。今までしてきた自分の行いを思い出し、考えると吐き気がした。
反省しました、などとても言えない。
苦しかった。考えて何になるでもないし、誰かが許してくれるわけでも、優しい声をかけてくれるわけでもない。
自分でも何がしたいのかわからない。何のためにしているのかなどもっとわからない。
でも、それが私にとって、今すべきこと、そう感じられた。
博之に向き合って欲しい、愛して欲しいと望んでも、私自身がそうでないのにそれを願っても無意味だ。
私は、柊の母親。
柊のために、壊れて腐ったままで良いわけがない。
今までやってきたことと向き合って、少しずつ、壊れて、腐って、おかしくなった自分の感覚を治していかなければいけない。
私が今すべきこと。
それがはっきりわかった今、気持ちが楽になった。
柊のために、私は変わる。
そして、変わることができたなら、博之に私と向き合って、私も見て欲しい、そうお願いしよう。
博之にも、歪みのない、真っ直ぐな愛情を注ごう。
それがいつになるかわからない。
願いを聞いてもらえるとも限らない。
それでも、私には柊がいる。
それが、私のすべて…。
中途半端な終わり方ではありますが、この形がベストなのではないかと思い、この形を取らせていただきました。
正直、私自身が書いていて気持ち悪くなりました。
(じゃあ書くなよ!というのはご容赦下さい。)
読んで不快な思いをなさった方、申し訳ありませんでした。