2月 如月
伊織さん。
伊織。
伊織くん。
イオ兄さん。
伊織、伊織、伊織。みんなみんな僕ではなくて、伊織と呼ぶ。
如月。
僕の名前を呼んでくれるのは、兄さんだけ。
如月、どうしたんだい?
僕のことを気にかけてくれるのも、兄さんだけ。
如月、おいで。
大好きな大好きな兄さん。
だけどいつからだろう。僕の名を呼ぶその声が、僕を映すその瞳が、僕を否定するその存在が、嫌で嫌でたまらなくなったのは。
好きなのに、好きでいたいのに。
それと同じくらい憎くいと感じてしまう、僕がすごく嫌いだ。
「如月、今大丈夫?」
ノックもせずに部屋に入ってきた兄に、わからないレベルの舌打ちをする。大丈夫も何も、聞きもせずに部屋に入ってくるなんて神経を疑う。
そんな感情を隠して笑顔を張り付けながら「なに?」と訊けば、兄はくるりと一回転した。
「どう? この着物。母さんが仕立ててくれたんだ」
そう朗らかに笑う兄。どう、だと? その顔みるだけでイライラするに決まってる。
バレない程度の冷めた目で兄を観察すれば、その着物は兄にとても似合っていた。前に母さんが兄に仕立てると嬉しそうに語っていたのを思い出す。
【伊織さんはどの色も似合うから迷っちゃうわ】
【この色も持っていたと思うし、この色も。どうしようかしら】
【あ、ねぇ。たまにはあなたも選んでごらんなさいな。少し趣向を変えてみるのもありだと思うのよ】
残酷なまでに兄しか考えていない母さんに、頬が引き攣ったのを覚えている。少しでも僕の着物を仕立ててくれる気が無いことを知って、もう傷つかないと思っていた心が僅かに痛んだ。僕はまたいらない期待を抱いていたらしい。
【それなら、この色がいいんじゃない?】
適当に、だけど少し考えて選んだ色に、母さんは首を傾げながら【うーん】と言っていた。どうせ僕が選んだって、それに決まるわけがないんだから。
そう思っていたら、やはりそうだった。兄の着物の色は僕が選んだ色とは正反対の目が覚めるような鮮やかな朱色だった。
「少し派手すぎるんじゃないかと思うんだけど」
「いや、大丈夫だよ。これからの季節にいいんじゃない? 紅葉シーズンだし」
「そうかなぁ」
ニコニコと笑う兄。そして「ありがとう、邪魔したね」と部屋から出て行った。
小さいころから、優先されるのはすべて兄だった。僕は二の次どころじゃなくて、いないも同然な扱いで。そんな僕を唯一構ってくれたのが兄だった。
小さいころは兄が大好きだった。だけど成長するにつれて、理不尽さやらなんやらを覚えると、次第に兄が嫌いになっていった。
こんな僕を好きになってくれる人なんているんだろうか?
現れてほしいと思うけれど、その人さえも兄にとられるのではないかと思うと、現れないでほしいと思う。
兄は伊織。5歳上。
実家が茶道家。
小さいころから親や親せきにあまり相手にされなかったため、とりあえず笑顔でいれば嫌われないだろうと思ったために、笑顔が標準装備となる。
小さいころはオドオドしながらも笑顔を絶やさなかったが、成長した今では腹に一物抱えるほどの腹黒に成長。副生徒会長の腹黒担当さん。