6
そこはとても暗かった。
そこはとても静かだった。
そして、そこには何も無かった。
(……?)
いつからここにいるのかも思い出せないけれど、多分もう随分と長い間ずっとここにいるのだと思う。
闇色の世界。地に足を着いている感覚すらない。
指先も足先も冷え切って、かじかんで。
がちがちと歯を鳴らして震えてしまうくらい寒いのにふわふわとした感覚は次第にそれを麻痺させていって。
ふわふわ。
ふわふわの思考で、ふわふわの感覚のまま、ふわふわと闇を漂う。
漂う。
漂い続ける。
初めの内はまだ考えることは沢山あって、考えることを沢山したのを覚えている。
けれど、考えていたらその内に沢山の考えることを考え尽くして、考えることを止めてもでもここに居続けなくてはならなくて。
どのくらいそうしていただろう。
(…………、)
漂い続けた先の先、暗闇の奥の奥、ようやくそこで光を見つけた。
唯一の光源。丸くて白くて暖かな玉が、真っ暗闇の中、ただ一つ、明るさだけを伴って。
何も無いここには、光が照らし出すものはただ一つしかなくて。
だから、照らされて。
光の強さに目を細めながら、自然と涙が一筋だけ零れた。
なんて眩しいんだろう。なんてあったかいんだろう。なんて――綺麗なんだろう。
思わず手を伸ばし、触れて、消えないようにゆっくりと胸に掻き抱く。
胸にそれをすっぽりと収める、それだけで温かさがじわりと全身に広がっていく。
何も無い世界でも、それを抱いてさえいれば不思議と心は満たされて。
だから。
それだけで十分かなって思って、それ以上は望まないように努めて、そっと目を閉じた。
(でも)
それを見ている『私』は。
それは『私』には、何もかもとても悲しくて、そして何より寂しく思えて仕方無かった。
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どうやら高熱を出して倒れてしまったらしい――というのを、保健室のベッドの上で目覚めた私は聞いていた。
聞いている、というか現在進行形で聞いてしまっているというか、何というか。
動揺したアコが「ネコちゃんがしんじゃうしんじゃうよ先生なんとかしてよー」と喚きながらぼすぼすと音を立て(多分両手を振り回して相手の胸をぽかぽか殴っているのだろう)、それに対して新羅先生が私の症状をほんわか口調で説明しているのを、目が覚めてからこっちずっと聞いてしまっているという何とも言えない状況である、というか。
今出ていこうにもアコの勢いが怖いし、あと十分も喚けば大人しくなるだろうけどそれまで新羅先生にアコを宥めさせるのもなんだか悪いし。うん、ううん、何とも言えない。
……というかアコよ、新羅先生の私の体調不良に対する説明(手伝いの時から具合が悪そうだった、睡眠不足と貧血が重なって云々)と大丈夫という言葉を信用してあげてください。「ほんとに大丈夫なの先生その説明合ってるのネコちゃんのことちゃんと見てあげたの?」って繰り返すのやめてあげてください。もう先生五回くらい同じこと説明してるから。
仕方無しに、私は溜息を吐いてベッドの足元の方――アコたちの話している方――へ移動して、座したまま仕切りの白いカーテンを開けた。
「せんせー救急車! きゅーきゅーしゃ呼ぼーよ!」
「いえ、その必要は――と、猫咲さん。もう起きて大丈夫ですか?」
「ええ。すみません、うちのアコがご迷惑をお掛けして」
「ねねねねこちゃああああん!!」
「ちょ、アコ待っぐふっ」
起き抜けにタックルされた。まだ体に力が入りきっていないため、そのままアコに押し倒される形で後ろに倒れ込む。
ベッドから降りなくて良かったと言わざるを得ない。
降りてたら床に後頭部を強打していた、多分絶対確実に。うん、危ない。
……心配して下さってらっしゃったのは十二分に理解しておりますがアコさん、ええ、でも、さっきまで倒れて寝ていた人間にする仕打ちではないだろうこれは。
「アコぉ……」
「ひゃっ、ごごごめ、ごめんネコ! アコ、じゃない私、私つい! 大丈夫!?」
アコが抱き着いたりしてやらかすのはもう想定の範囲内だった上ここで怒っても仕方無いのでスルーする。
「大丈夫です、それよりその、とりあえず退いてください」
「うわきゃあ、ごめんね!!」
ばっと飛び退くアコ、同時に胸の圧迫感が消えて、私は咳き込みながら上体を起こす。
「ホントに大丈夫か?」
「あ、黄島君」
アコと新羅先生の奥、入り口すぐの所に置かれた白いソファに腰を下ろして、黄島君がペットボトルのお茶を飲んでいた。
顔をお茶に向けつつちらちらと、申し訳無さそうな視線をこちらに投げてくる彼は本当に外見を裏切る実直さ。
そんな顔しなくてもいい、と笑顔を向けるけれど、ますます困ったような顔をさせてしまう。
本当に、そんなに気にしなくていいのだけれど。
でも、その様子に何となく「らしいなあ」なんて考えてしまって。
考えてから、らしいも何も今朝会ったばかりなのにもう性格を把握した気になっている自分に驚いた。
相手の性格なんて長く付き合っていても把握できずに痛い目を見ることだってあるのに、ほんの一日で何を分かった風にしているのだろう私は。
馬鹿みたい――ああ、駄目だ駄目。そういうこと考えるのは駄目。
まずは、そう。彼にお礼を言わなくてはいけない。
「大丈夫ですよ、すみませんお手数をお掛けしてしまって」
「別に何もしてねえよ」
「先生を呼んで下さったんでしょう?」
「猫咲さん違います、黄島君はここまで貴女を運んで下さったんです」
「え?」
言われた言葉に、一瞬思考が固まった。
意識の無い私を俵を運ぶみたいに無造作に担いだ黄島君を想像しかけて。
「おい黙れイツカ」
「すごかったんですよー彼、お姫様抱っこで慌てて駆け込んできて!」
「オイ!」
黄島君が可愛らしく頬を染めて、染めた頬がまるで可愛く見えない目付きで新羅先生を睨みつけるのを、私はどこか遠くの世界の出来事のように感じていた。
はい? え? 何故。
何故おんぶでなくて抱っこなのだろうか。いや、お姫様抱っこはともかくお姫様おんぶは響き的にもどうかと思うけれど、でも何故抱っこ? いや問題はおんぶ抱っこの話ではなく、ああそう、お姫様の部分か問題は。つまり、どうして私がお姫様抱っこで運ばれたのか、どうして彼はお姫様抱っこで運んだのかということで。そういえば乙女ゲーなんだっけ、そして彼は攻略対象で、ってだからつまりこれはその。イベント回収的なその。
……んにゃ。うんにゃ!
断じて、うんにゃ!!
「え、ええと、黄島くん」
「…………、んだよ」
「黄島君ってその、女の子に優しいんですね」
「何の話だよ」
女の子に優しい。
これや。
黄島カエリは女子に優しい。そして全ての女子に等しく優しいのだ。これや。
決してイベントとか私だけがされているとかそういうアレじゃない。断じてない。
「私も昔アコをお姫様抱っこしようとしたことがあるんですが、あれ、意外と辛い体勢ですよね。変な風に力入りますし、おぶった方が絶対楽なのに」
「……だから何の話だっつの」
「え? ですから、黄島君は気を失った女の子を運ぶ時には必ずお姫様抱っこをする紳士なんですねって話、で……す?」
あれ?
自分で言ってて何かおかしいことを口走っているような気もしないでもないが、多分気のせいだろう、うん。
新羅先生が口元を手で押さえて俯いて肩を震わせているのが見えるが、多分絶対きっと確実に、気のせい。
「必ず、って意識無い女子を運ぶ状況なんて普通に考えてそうそうねえだろうが……」
「……あ、本当ですね。では意識のある女の子を運ぶ時もお姫様抱っこということですか」
そういうことではないのはよく分かっているのだが、最早自分でも何が言いたいのか分からないので口を開けば開くほど墓穴を掘っている気がする。
あ、ぶはって音がしたような気がする。
新羅先生が吹いているような気がする。
なんかもう全体的に色んな気がするが、気がする故に気のせいであろう、そうであろ。うむ。
「おいコラてめ、ざっけんな……っ、ああもういい話すな喋るな声出すな!」
別に何も言おうとしていないのに牽制されてしまった。全く以て心外である。
ま、これ以上下手を打つのもマズいので従ってやらんでもないが。
「おいイツカ! 俺は帰るからな!」
「もう帰るんですか?」
「風紀にアホな外部生が旧校舎に来たっつー報告すんだよ! じゃあな!」
「はいはい、お気を付けて」
「何にだ!」
「気を失った女の子とかですかね」
「アホか!! てめぇ今週のおやつ抜きだから覚悟しとけよ!!」
「ええっ、待って下さいカエリ――」
新羅先生の悲痛な叫びを遮るように、ぴしゃりと扉が閉められた。
……うん、ちょっと怖かった。
言ってることも意味分からなすぎて怖かった。
黄島君のあの謎の宣言は何? おやつ?
「先生、黄島君と随分仲が良いんですね。おやつってなんです?」
何がイベントに繋がるか分からない乙女ゲームの世界である、踏み込みたくないことは多いのだが――敢えて言おう、この辺は突っ込ませてもらう。何故におやつ。
「ああ、ええ。カエリ――黄島君とは、茶飲み友達なんです」
「ちゃの、み?」
ちゃのみ。
お茶を飲むで、茶飲み。
書いて字の如く、読んで字の如く、お茶を、飲む?
「ええ、週末休日出勤の私と保健室でお茶を飲む会です。会員は黄島君と私だけなんですが。黄島君、毎回マフィンやシフォンケーキなんかのお茶菓子を手作りしてきてくれて。あ、猫咲さんも参加しますか?」
手製の、お茶菓子、だと?
金髪の不良と白髪の女性(どうしても男性に見えない)が週末の保健室二人きりで、しかも不良はわざわざ顔に似合わぬお菓子を作って携えて――ああ、なんてスキャンダラス。
いや、いやいや。
薔薇の咲き乱れる花園的な何かを想像しかけ、頭を振って邪念を払う。駄目、想像しては駄目。一部腐純――いいえ不純な乙女ゲームプレイヤーの暗部を狙い撃ちするこれは罠。そう、罠なのだから。
「結構です」
そういうイベントもお断りです。
まあ正直……興味が無いことも無いが……お二人の仲を邪魔はできないので、若干遠くから眺めていたい欲はあるものの、断固お断りさせて頂きますとも。
はい、ええ。未練などない。これっぽっちもない。
と、そういえば、先程からやたらアコが大人しいような。
思い、アコの方に視線を向けて。
「……カエリ、悪い虫、ネコちゃん、駆除、鈍器で後ろから? ううんあからさま、駄目、精神的な方法、追い詰めなきゃ、精神操作、専門家に相談、ううん私でも」
「やめてください」
虚ろな瞳と声色に、思わず口出し手も出した。
「いった、ネコ痛いよ何するのーっ!!」
スパンと後頭部を叩いたら、表面上はいつも通りのアコに戻ってくれた。
ああ良かった。
うん、早く何とかしないとこの子。
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戸の向こうから、女子二人で痛いの痛くないの言い争う声が聞こえてくる。
壁にもたれかかり片手で顔を覆う黄島カエリは、未だに朱の差す頬に、熱を持つそこに、戸惑っていた。
相手は不審な女子。要警戒対象で、言動はまるで面倒くさい天然で、一瞬でも気を抜いてはいけない。
だというのに、これはどうしたことだ。
あのように女性を抱えたことなど初めてだった。少女とはいえ人間一人、おいそれと軽いとは言えない重みがあった。意識が無くだらりと垂れた両腕、熱に浮かされ涙を零す眦、頬に張り付いた長い髪、冷や汗で湿る背中。心地良いとは言えないはずのそれらには生きた重みが確りと感じられて。
「あー……女子を抱える練習でもすっか?」
慣れない所作に戸惑っただけだと、頬の熱を誤魔化すように呟く。
しかし口に出してみたそれは想像しただけで恥ずかしく、更に頬を熱くしただけに終わった。
ちょろい。