蒼の伝承者 2
――かつて、世界を災いが襲った。
《災い》の具体的な内容は伝わっていない。伝える事が憚られたのか、語り継がれる中で欠落してしまったのか、それとも他の理由があるのかは定かでない。
ただ、世に災いが降り注ぎ、世界は人が生きるには困難な状況に陥ったという。古い古い伝承。
災いから逃れるため、人はあらゆる手を尽くした。
ある者達は国を閉ざし、災いより逃れようと。
ある者達は深い洞窟の中に籠もり、災いが過ぎるのを待とうと。
またある者達は空へと逃れ、災いが治まるまでの長き時を過ごそうとしたという。
災いを前に、人の力はあまりにも無力だった。災いに立ち向かう事など到底叶わず、ただ逃げる事、耐える事しか選択し得なかった。
寄る辺なき者達が居た。
世を飲み込む災いの中、故郷を持たず、頼るべき者もおらず、災厄の中にただ取り残された者達が。
流浪の者達は災いに呑まれぬよう身を寄せ合い、災いの合間を縫って彷徨い歩く。
時に助けを求めるも、故郷無き彼らを受け入れる者は居なかった。誰もが己等が災いから逃れる事に手一杯で、他者を匿う余裕など、世界中の何処にも存在していなかった。
過酷な暮らしに一人、二人と流浪の者達は倒れてゆく。いつ終わるとも知れぬ災いに、倒れる同胞に何も出来ない無力さに、ただ為すすべもなく耐えるしかない日々。
このままでは皆朽ちてしまう。しかしどうする事も出来ない。
誰もが絶望に打ちひしがれるある日、彼等の中にいた巫女がその声を聞いた。
生きたいかと、ただそれだけを問う声。
突然の問いに戸惑いつつも、巫女はその言葉を皆に伝える。巫女と同じよう、謎の声に流浪の民達は戸惑ったが、やがて頷いた。
どれ程助けを求めても、誰も、何も彼等を助けることはなかった中、初めて掛けられた言葉。すがれるので有れば、それがなんであれ最早疑う余裕もないほどに追いつめられていたのだ。
巫女は声に導かれるままに、流浪の民達を引き連れて歩き出す。半信半疑に、しかし声を聞く巫女の確かな足取りに後押しされ、流浪の者達は後を追う。
巫女の背を追って歩く流浪の者達は不思議と疲労する事もなく、災いに怯える事もなく、ただひたすらに巫女の背を追った。
やがてどれだけ歩いたか判らなくなった頃――気がつけば流浪の民達は穏やかな緑に囲まれていた。災いによって荒廃した世界を見慣れた目には鮮やかな緑は、まるで歓迎するように梢をならす。
災いの陰のない、穏やかな光景。戸惑いながら見回していると、巫女が戸惑いの声を上げた。今の今まで確かに聞こえていたはずの声が、まるですぐ隣にあるよう感じられていた気配が何処にも無いと訴える。
流浪の民達は巫女の頼みで声の主を探すが、誰一人としてそれらしき姿を見つける事は出来なかった。
しかし姿は見えずとも確かな気配は無くとも、何か自分達を守るような力を確かに感じた。故にその地に根を張る事を決めた流浪の民達は、この地へと導いた声を敬い、崇めやがて女神と呼ぶようになる。
寄る辺なき者を見捨てず、その慈悲深き心でもって自らの治める地に住まう事を許した女神への、深い感謝と祈りを込めて――
これが、女神に纏わる逸話。語り継ぐ者によって細部は異なるが、世を襲った《災い》により困窮した《寄る辺なき民》を導き、自らの地に導き、定住を許した慈悲と慈愛の女神、あるいは地母神とも呼ばれる存在。
かの女神が眠ったとされる地が、お山――つまりは、この島の中心に位置する山、神山だ。
「女神……って、おまえ、何言って――」
「別に、僕は巫山戯てなんかいないよ?」
遠く水の流れる音と僅かな空気の流れが奏でる静寂の中、どうにか狼が絞り出した言葉に、しかし海はにこりと答える。
あまりにも普段通りの姿は、いっそ不自然なまでに見えた。混乱を隠す事の出来ないこちらが、逆に滑稽であるかのような錯覚さえ抱かせる。
――だが、この場合混乱せずいられる者が一体どれほど居るというのだろう?
神山に女神が眠るという伝承も、常日頃から身近にあるため女神という単語から同じ存在を連想するのは容易い。
が、容易いが故に疑問と混乱を余儀なくされる。
世に神器と呼ばれる女神の遺産だとされる物品は数あれど、そのどれもがそうであるという客観的な証拠が存在しない。いわばそれらは人が女神に祈りを捧げるために用いた道具であり、女神自身が残したものであるというモノは存在しない。
いや――中には女神から賜った、と主張する物も存在するのだが、その事を証明するのはその品を受け継ぐ者達の主張のみであり、第三者の視点からの証拠となる物がない。故に由緒ある物ではあれど、女神自身の残した品であると広く一般に認められていない。
かの女神が残した唯一にして無二の物は、俺達が暮らす大地だとされ、故に人は女神に感謝し、神山を崇めるのだから――
「女神が登場する伝承は君達も知っているよね? 伝承の中に語られる娘と同じ、って言ったら判るかな」
「娘?」
海の言葉に、首を傾げたのは狼。
「ああ、今語られてる一般的なのだと巫女、だっけ」
「確かに女神の伝承にゃ巫女の存在は不可欠だけど……どういう事だ?」
「古い伝承では巫女なんて存在していない。そもそも、当時はそんな余力なんて何処にも無かったから。……伝承をよりらしく見せるために、語り継ぐために女神の力を受け止めた娘を巫女だのなんだと飾り立てたのさ」
あっさりと、そんな事を言ってのける。その口調に淀みはなく、まるで昔話を暗唱しているかのようにすら思えるのは、はたして気のせいか――
「ともあれ、話を戻そうか。色々とあるけれど、簡単に言うなら女神の力はこの世界で直接行使するには大きすぎる。だからあえて人という器を通して扱う事で、媒介とすることで力を薄めて女神はこの世に干渉する。大きすぎる力で、むやみに世界を乱さないように、ね」
「それが依り代。今の彼女が置かれた状態さ」と、締めくくる。
「いや……まて、待て待て待てって! 女神だの依り代だの、いきなりすぎて何がなんだか……」
「いきなりって、君ね……。少しは妙だって、感じてたんじゃないの?」
「??」
淡々と語る様子に待ったを掛ける狼。話の腰を折られた形になるだろうに、少しも気分を害した様子もなく、むしろ呆れすら見せる。そんな海の様子に、首を傾げるのは風。
「珀眞村での出来事。マガツモドキが急に力を無くしたよね」
「あ、ああ……」
「あれは女神の力の一端が引き起こした現象だっていったら、信じる?」
子供のように無邪気に、問う。
しかし言葉とは裏腹に、俺達に向ける瞳は真剣そのもの――いや、深い海を連想させる瞳に宿る感情が何なのか、想像すらつかない。
「あれがそうだっていうのか……? けど……」
「っていうか、マガツモドキって? あれって、だってマガツ……だったっけ、えーっとそんなモノなんじゃないの?」
唸る狼を押しのけ、そんな問いを発したのは風だ。
「マガツの特徴は聞いてるよね。血色の燃える瞳と異形化した肉体――って。あの場にいたのは片方だけが当てはまっているはずだよ」
「そういえば……」
あの日、晶の生まれ育った珀眞村を襲った獣達を思い出しながらだろう、風は確かにと頷く。
「あれらは無理矢理呼び出されたようなようなものだからね。本来のマガツとは似ているけど根本的に違うんだよ。だからマガツモドキ、中途半端な状態止まりなのさ」
「へぇ……」
感心したようになるほど、と風は相づちを打ち――
「いや、素直に頷いてるけどマテ、それってつまりモドキとは言えマガツを呼び出せるってことなのか? んなコト、聞いたことねえぞ?!」
納得した様子の風とは反対に、疑問の声を上げる狼。彼の疑問は尤もだ。マガツ、その災厄にも等しい存在が単なる災害扱いされているのは、偏にその存在が極希にしか確認されず、かつ人の手にはとても扱いきれない存在であるからだ。
でなければ――もしそれが使役可能な存在であったのなら、この島の勢力図は今とはまったく異なるモノになっていただろうから――
「そう心配しなくても、考えているような事にはならないし、現になっていないだろう? モドキとは言えマガツは、マガツ。人の手に負えるようなものじゃない。その憂いは杞憂さ」
「………」
と、まるでこちらの内心を読んだかのようにそんなことを言う。戸惑いを押さえながら視線を向けるも、海は涼しい顔でにこりと笑う。
その笑顔はいつもの海と同じようで、けれど何かが違う――何が、と明確な言葉にすることの出来ない感覚が、もどかしさとなって絡み付く。
「えーっと?」
「あれが人の域を逸脱している――そんな話。ともかく、今の状況にはあんまり関係ないから、あれの話はこれくらいかな。で、どう? 彼女が狙われる理由、納得してくれた?」
「納得って……おまえ……」
余りに規模の違う話をしていたにも関わらず、相変わらずの調子を崩さない海に絶句する狼。
だが――海の語った事、それが本当だというのなら――強引にでも晶を連れ去るという選択をする。手元に置きたいと行動する。その事に妙に納得できてしまう。
女神の依り代、それが正確には何を意味するのか正確にはわからない。
だが海が説明したように女神の力を一端でもふるえるというのなら、それを求める者は数知れないだろう。
例えばそう、先に海が例に挙げたようにマガツ――正確にはモドキであるそうだが、例え根本は違えど驚異である事に変わりはない――を退ける力が本当にあるとすれば。
マガツは、その個体数や目撃例こそ少ないが一度出現すれば周囲へ与える影響は数え切れない。現に俺達が薬草採取の依頼を受けたのも、確認されたマガツに対する武装の関係で街道都市の警備に当たる者達が薬などを備蓄し始めた事や、街道を通る商人達がその活動を見合わせた事に端を発するのだから。
その存在が確認されるだけで、それだけの影響を及ぼす存在――マガツ。
マガツがここまで恐れられる理由は多々あるが、その大きなところは明確な対抗手段が確認されていない事にある。
例えば野生の獣であれば火を怖がる。種類によっては嫌うニオイや進入を阻む方法、与える被害など事細かなところまで解明されているものもある。
だが、マガツは違う。確認される数が少ないのもさる事ながら、その外観も個体によって差異が大きく、統一性というものに欠ける。唯一の共通事項が、何度も上げているように血のように赤い瞳と異常発達した部位だ。その部位や発達具合ですら目撃例ごとに異なる始末だ。
そのため対策が立てにくく、一度人の生活圏付近で発生すればもたらされる被害は甚大だ――晶の村が滅びてしまったように。
そんな災厄を退ける力を手元に置けるというのなら、多少の強行もやむなしと判断する者がゼロだとは言えない。いや、むしろ積極的に行動し、利用しようと考える者は少なからず存在するのだろう。
力を示す。それは何よりもわかりやすく他者を従わす手段となりうるものだ。
「……オイ」
沈思黙考する意識を引き戻したのは、狼の声。平時は例え面倒そうにしていてもどこか人の良さを伺わせる声はしかし、今は驚くほどの剣呑さをはらんでいた。
「何かな?」
「晶がその、女神の依り代……か? そう言うもので、マガツに対して対抗できる力があるとして……だ。……それだけで済むのか?」
あえて本題を口にしない曖昧な問いに、海はこてんと首を傾げる。
その姿は普段のふてぶてしさだけではなく、狼が言いたい事を理解した上で、あえて問い返している――そんな意地の悪さがあるように見えた。
「……っ、晶がああなったのは――女神の力ってのが関係してるか、それを聞いてんだよ!」
神経を逆なでするような海の仕草に、掴み掛からんばかりの勢いで問う狼に――
「うん、そうだよ」
一瞬の逡巡もなく、海は頷いた。




