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彼は茫然自失の態から3秒で復帰した。国王たるもの、この程度の障害でめげていては務まらない。すぐに次の一手を考える。
とにかく、礼拝堂に彼女を連れ込む必要がある。独特な雰囲気のあるあそこで二人きりになれれば、なんとかなるだろう。
それにはまず、この洗濯物を干してしまわなければならないようだった。
さっきまでの分は、時々他の尼僧が来ては、運びだしていった。どこか別に物干し場があるのだ。
「私も手伝う。物干し場に案内してくれ」
「わかった。こちらだ」
彼女は握り合った手を離そうとした。お互い左手同士を繋いでおり、そのままでは歩きにくかったからだ。
しかし彼は、反射的に離すまいと握り締めてしまった。
すると、じっと彼女に眺められた。見つめられるのではない。好意も嫌悪もなく、ただただ無表情に観察されているのだ。
彼は女性にそんなふうに見られたことは、今まで一度もなかった。
若くてそれなりに男前で国政もうまくまわしており、外交手腕も悪くない。その上、妃が一人もいないのだ。なんとか彼の妃になろうと、出産可能な範囲の女という女が、彼に色目を使うのが通常だった。
それらとはあまりに違う、視線の温度の低さに、彼はときめいた。
至近距離で男に手を握られているというのに、この無表情。なんと純真な人だろう。
ただし、純真すぎて、彼の行動のすべてが通じていない気がするが、それも彼女の穢れなさ故。こんな女性は、二人といまい。是が非でも、彼女を口説き落とさねば。
彼は決意を新たにし、彼女の左手を離し、かわりに素早く右手を取った。
たとえ数分であろうと、二人で手を繋いで歩く。その機会を逃すつもりはなかった。
彼の顔と自分の右手を掴む手を交互に見遣る彼女に、彼は穏やかさを心掛けて微笑みかけた。
「さあ、行こうか、シア殿」
「うむ。その、すまないが、シスター・シアと呼んでもらえるとありがたいのだが。もしもの時は、そうでないと、教会にいる者たちに、迷惑がかかる故」
歩き出しながら、彼女が訂正してきた。
単なる信徒を匿うのと、神の忠実な僕となった者と生活を共にしているのでは、追っ手に対する申し開きが違ってくる。そのためにも、普段からそうと装っておく必要があるのだろう。
その可能性を今さらながらに思い出し、彼は舌打ちをもらしそうになった。
ここに来るまでは、いっそそうなってしまえばいいと思っていたのだ。だから、彼は王女を連れ出す仕度をしてきていなかった。
国境沿いの難民の様子を視察がてら、その中の半日を割き、一応王女の顔を見て、さっさと求婚。その後は、結婚式に間に合うように呼び寄せればいいと考えていた。
その間に、たとえ王女の身になにがあろうと、それは不慮の事故だと。
不幸にもセテス公国に見つかり、殺される、あるいは連れ出されたとしても、彼の責任の範疇にはない。
いや、求婚しているのだから、保護する責任はあるにはあるが、手の届かない場所で起こること、いくらでも言い抜けることはできる。
しかし、今はそれを後悔していた。こんな守りの手薄な場所に、一日たりとも長く彼女を置いておくわけにはいかない。
王は一歩前を行く彼女に、シア、と、もう一度呼びかけた。彼女が振り返るのを待ち、伝える。一刻も早く、彼女を安心させてやりたかった。
「あなたには、我が王都へ来てもらう。私が必ずあなたを守ろう。あなたが二度と怯えて暮らさずともすむようにすると約束する」
「シスター・シアだ、ハミル殿」
強い視線で言外に言い直すことを強要され、彼は、失礼、と答えた。
「次からは気をつけよう」
彼女は渋々と頷き、会話へと戻った。
「礼拝堂での相談とは、それのことか。あなたの王からの伝言か?」
「いや。……ああ、そうでもあるか」
王からの伝言ではないが、本人の言であるし、相談というか求婚の一部でもある。
「それなのだが、ありがたくはあるのだが、実は……」
彼女が何か言いかけた時だった。
「シスター・シアー!!!」
突然、幼い声が響き渡った。同時に、鼓膜を引き裂きかねない甲高い声も続く。
王は何事かと、そちらへ目をやった。
野菜の植わった畑の奥、建物のある方に、数人の子供と、幼児を抱いた尼僧が立っていた。そのうちの子供たちが、一目散に、こちらめがけて走り出した。
口々に、シスター、シアー、と叫んでいる。中には、奇声を発している者もいる。
王は、何が始まるのかわからない奇矯な雰囲気に押されて、その場で立ち止まった。
子供というのは、鞠が転げるように走る。ぽんぽんと飛び跳ねて、非常に危なっかしい。そのうち転ぶのではないかと、はらはらと見守っていると、案の定、一人が豪快につんのめった。
あっというまの出来事だった。その子に躓き、後続の二人も転がる。妙な具合に体がぐにゃりと曲がってもんどりうち、途端に、ぎゃーっ、と泣き出した。
あの小さな体のどこから出ているのかわからない、すさまじい音量の声だ。それがいくつも重なり、わずか数十秒の内に、阿鼻叫喚の騒ぎとなっていた。
彼女は王の手を振り払うと、子供たちに向かって駆けだした。王も洗濯物をその場に下ろし、遅まきながらその後を追う。
「大丈夫か!? どこが痛い?」
彼女は子供たちの傍に跪いた。
「シスター・シアー」
子供たちはわあわあと泣きながら起き上がり、体を投げ出すようにして、四方八方から彼女に抱きついた。
王はその様子に、ほっとした。どの子もすぐに動けるのだ、たいしたことはないのだろう。
いや、それにしてもびっくりした、と息をつく。あれと同じように大人が転んだら、骨の一本や二本、折れているに違いない。
「どこが痛いんだ? 泣いていてはわからない。ああ、お願いだから、教えてくれ。どうしたらいいんだ?」
彼女は両手いっぱいに子供たちを抱き締めて撫でさすりながら、おろおろとしていた。心配でたまらないという顔をして、目には涙までためて、泣きそうになっている。
王は近付いて、一番大きい男の子の両脇に手を入れて、後ろからひょいと持ち上げた。いきなりごぼう抜きにされたされた子は、吃驚眼で泣き止んだ。上から覗き込んで様子がおかしいところがないか顔色を観察する。
「ほら、すりむいているだけだ。心配ない」
王は彼女に教えてやった。
と、子供は驚きが過ぎ去ったのか、今度は見る間に恐怖に顔をひきつらせた。うあーと大泣きしそうに口を開けたところで、王は急いでその子を彼女の横に戻した。また泣き出されてはたまらない。
他の子供たちも、彼を警戒して大声で泣くのはやめ、彼女にしがみついて小さくなっている。
彼女だけが、すがりつくような目で彼を見ていた。それに、安心しろと頷いてやる。
「転んで驚いただけだろう。すりむいた所を洗って清潔な布で覆ってやれば、それで大丈夫だ」
少なくとも、彼が幼い頃は、そうされてきた。
「ああ。そうか。そうだな。よかった。ああ、神様」
彼女は子供たちに目を戻し、涙に濡れた顔をぬぐってやりながら、神様、感謝いたします、と何度も呟く。
そうしている彼女は慈愛にあふれた聖女そのもので、その優しい心ごと彼女を守ってやりたいと、王は胸を熱くしたのだった。