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王の寝室に侍るシスター

 エスタマゼナ王国王宮、国王の寝室。

 金と藍の重厚な装飾の施された豪華な一室に、質素な身形(みなり)のシスターが、一人でベッドサイドの椅子に座っていた。

 ベッドの中に人はいない。退屈そうに背もたれに寄りかかり、小声で童謡を歌っている。

 サイドテーブルに置かれたランプに照らされた姿は、天使もかくやというほどの、得も言われぬ無垢で清らかな容貌をしている。

 背中まで届く黒い頭巾の下からは艶のある栗色の髪が見えており、まだ正式に出家していない準シスターなのだと知れた。

 キシ、とわずかに扉が軋んだ。彼女は急いで体を起こし、まるで今までずっとそうしていたかのように姿勢を整えると、扉へと顔を向けた。

 静かに背の高い男が入ってくる。精悍な面差しの若い男だ。この部屋の主である。

「こんばんは、シスター・シア」

 湯浴みをすませてきたばかりなのだろう。赤い髪はまだ濡れており、そこから垂れた雫がいくつも落ちて、絨毯に染み込んだ。

 その無造作さに、彼女は心中、眉を顰めた。

 この絨毯の毛足、模様、織の緻密さ、どれをとっても一級品なのがわかってないのか!? 貴様何様だ。王様か!!

 彼女は、あくまでも淡々とした表情を変えずにいたが、激しい突っ込みを入れていた。

 まったく、水なんぞたらしおって。しかも、気にもしていないとは。いっぺん、真冬に、うちの教会の隙間だらけの部屋で寝てみるがいいのだ。この絨毯のありがたさが、一晩でわかるだろう。

 この権力者にして、大金持ちめ。

 恵まれし者よ、神への門は遠いと知れ。

 最後に思い浮かんだ一文に溜飲を下げ、彼女はようやく挨拶を返した。

「こんばんは、ハミル王」

「すっかり遅くなってしまって、すまない」

 王はでかい図体で申し訳なさそうに目尻を下げて、彼女の前に腰かけた。ベッドは軽く沈んだだけで、軋み一つあげなかった。寝返りを打つだけでギシギシいうシアのベッドとは雲泥の差だ。

「疲れただろう。よければ今夜こそ、こちらに泊まっていったらどうだろう」

 こんなところでさんざん待たせた挙句、親切面して、なに言っている、このウスラバカめ。

 彼女は、清らかに無表情なまなざしで、密かに強烈な悪態をついた。

 自分で言い出したこととはいえ、こんな所まで入り込んでいるのも問題なのに、そんなことしたら、いよいよ正シスターへの道が遠くなるだろうが。

 シスター・シアは無言で罵りつつ、王の髪から目を離せなかった。

 それより、雫が布団にもたれている。だらしないことこの上ない。

「拭け」

「は?」

「頭を拭け、ベッドが濡れる」

「ああ」

 王はおとなしくもそもそと首に掛かった拭き布で髪を拭いはじめた。が、まったく不器用で埒が明かない。要所を押さえてないので、ますます雫が飛び散るばかりで、ちっとも吸い取っていないのだ。

 シスター・シアの苛々ボルテージはいよいよ急上昇した。

 いきなりすっくと立ち上がり、拭き布ごと王の頭を押さえつけた。そして、ものすごい勢いで、しゃかしゃかと拭きはじめた。

 教会の養い子たちの世話で、こんなのは朝飯前だ。彼女は王の髪を一房すくって乾き具合を確かめると、うむ、と満足気に頷いた。

「よし、いいだろう。寝ろ」

 拭き布をサイドテーブルに放り、掛け布団が入りやすいように斜めにめくられたベッドを、ビシリと指差す。

「いや、実はまだ眠くないのだ。少し話をしたい気分なのだが」

 王は手を伸ばし、ベッドを指差す彼女の手を、そっととった。それをベシッと叩き落とし、彼女は冷たい目で見返した。

「眠くなくても布団に入って体を休めろ。話なら、お伽噺をしてやる」

「いや、お伽噺ではなく、」

「では、羊か」

 実は彼女はあれを数えるのは、自分がすぐに眠くなってしまって苦手だった。しかし、不眠気味の王を助けてやったらどうかとの大司教様のご助言だからしかたない。

「いや、羊でもなく、」

「わかった。子守唄だな。そういうことは、遠慮なく言えと言っているだろう。私はあなたのためにここにいるのだから。さあ、早くベッドに入るのだ」

 シスター・シアは、ぐいぐいと王の肩を押しこくって、ベッドの上に転がした。さらに、靴を脱がせてやり、重い足を持ち上げてベッドの上に放り上げる。

 そこでまだガウンを着ているのに気付いて、腰の紐を引っ張って解き、はだけさせて、腕を抜いてやった。

 まったく、手間のかかる男だ。

 密かに悪態を思い浮かべつつも、しかし、彼女は王に自分で脱げとは言わなかった。

 少し同情していたのだ。

 彼女のように十何番目のたいした後ろ盾もない側妃の生んだ子で、いてもいなくても同じ王族は見逃してもらえる可能性もあるが、国王である彼は、いざまさかの時は、死ぬしかない。つまり、一生、自分で着替える必要なんかないのだ。

 権力なんぞ、頚木(くびき)以外のなにものでもない。今ではすっかりそれと縁の切れた彼女は、とりあえず神に感謝していた。

 性格の歪んだ継母や腹違いの兄弟たちの意地悪を警戒する必要も、高位貴族の侮る態度に神経をすり減らすこともない。

 とうに母は無かったし、年に数回優しい言葉をかけてくれた父が死んだのは、残念だと思わないこともないが、悲しいというほどでもなかった。

 それより、国を滅ぼして、あの牢獄から解き放ってくださってありがとうございます、なのだった。

 そのうちこの男も、たくさんの妃を迎えて、同じような地獄を作るのだろう。

 どうせなら、今日すぐにでもそうしてくれればいいのに、と、ここ何日かは考えずにはいられなかった。

 こんな、シスターに寝かしつけてもらうなんて信心深くも子供じみたことをせずに、正妃でも側妃でも妾妃でも好きなだけ女を侍らせて、そのどれかにやってもらえばいいのだ。

 なのにこの男、こんな立派な体躯をして、十人並み以上の容姿をして、最高権力者で大金持ちのくせに、手を出せないシスターに子守唄をねだるだけで満足するなど、やっぱりどこかおかしいに違いない。

 それとも、そうでもしなければいられないほど、罪悪感まみれなのだろうか?

 ああ、いやだいやだ。権力など背負いたくないものだな。

「シア」

 掛け布団をかけてやろうとすれば、それを遮るように手を出して、王は彼女の腕をつかんだ。ぐい、と引っ張られる。

 彼女は体勢を崩して、王の頭の脇に手をついた。ひどく近い位置から、彼の顔を覗き込むことになる。

 しかし、彼女は冷静だった。無表情なのに慈悲深いまなざしで、請うように見上げる王に、優しく囁いた。

「大丈夫だ。どんな重圧も、神の与えたもうた試練。あなたはそれに命懸けで対しておられるのだろう? ならば、憂う必要はない。神は常にあなたの傍におられ、すべて見そなわしていらっしゃる。あなたの誠意もご存知だ」

 少なくとも、この王の治める国は、どこを通ってもシアの故国よりは治安がよかった。

 それだけでも、彼女の父よりは、よほど神に(よみ)(たま)われているだろうと思われた。

「あなたは?」

 王の要領を得ない問いに、彼女はわずかに首を傾げた。

「あなたも、私の傍にいてくれるか?」

「ああ。もちろんだ。あなたが眠るまで、私はここにいる」

「ならば、私は眠らずにいよう」

 彼女の腕を掴む手に力が込められる。

 彼女は、ほんのりと笑みを浮かべた。眉が優雅に弛められ、唇の両端が均等にゆるやかに上がる。それだけで、天上の音楽が鳴り響いていているような錯覚すら抱かせる神聖さが醸しだされた。

 だが、その口から吐き出されたのは、硬く鋭いものだった。

「眠る気がないのなら、私は用無しだな?」

 冷たい冷たい冷たい響きで、確認を取る。

 このお役目のために、いくら早朝のお勤めが免除されているからといって、夜更かしすれば、次の日が辛い。

 それもまた神の御心に従うための修行と言われればそれまでだが、合理的な気質の彼女には、無駄な奉仕に時間を割かれるのは耐え難かった。

 それなら、養い子たちの靴下でも繕っていた方が、同じ夜なべでもよっぽど有意義だ。

 だいたい、いい大人が子守唄を所望だと? 子供の十人や二十人、あっという間にこしらえられるくせして、おかしな甘え方をするのも大概にしろ。

「……寝るので、額と頬と唇に口付けを。手は意識がなくなるまで握っていてくれないと眠れない」

 毎夜の事ながら、だからどうして恥ずかしげもなく、拗ねた顔と口調でそんなことを主張できるのかが、彼女には理解できなかった。

 なんだ、このでかい子供は。

 彼女は、無表情に戻って溜息をこぼした。

 彼の掴む手の力は強く、瞳も強情を宿している。人を従え慣れた彼に、妥協はない。それは、ここ一週間ほどの付き合いでよくわかっていた。

 彼女は腰をかがめて、彼の額に口付けた。両の頬にも順番にし、最後に唇にも軽く触れる。

 それを狙っていたように、彼の腕が彼女を引き寄せ、ちゅっと音を立てて吸い付かれる。まるで、乳を欲しがる子猫みたいに。

 なんでも持っているくせに、これ以上なにが欲しいのか。

 危険な香りのするそれに、彼女は近付きたくはなかった。

 何かを訴えようとする瞳を、片手を持ち上げて塞ぎ、言い聞かせる。

「さあ、目をつぶって。ご所望の子守唄を歌おう」

 そして彼女は手を離してもらえぬまま、彼に半ば覆いかぶさるようにして胸の上に頭をのせ、歌い始めた。毎度のことなので、彼女も、もう何とも思わない。

 彼の少し速く思われる心臓の音を聞きながら、口ずさむ。

 この王が知ろしめす地に眠る幼子が、母から夜毎聞かされるだろう、神の慈愛を説く歌を。優しくも(さや)かに穏やかに。


 政務に疲れ果てた王が、今日もうまく思い人を口説けないまま、眠りに落ちてしまうまで。

 天上の調べは、甘やかに密やかに夜陰に響くのだった。

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