2 side:Ryoko
私が声をかけるより先に彼女の方はインターホンを押してしまっていて、理沙ちゃんが機械ごしに応答していた。エントランスドアのロックを解除してもらって、その女の子は目の前の彼と私を交互に見比べる。それから、「先輩、先に行ってますね」と気を利かせてくれたらしく私に笑顔で会釈をするとそのまま中へ消えていった。
「ごめんなさい、呼び止めて」
短く謝ると、彼はそこで初めて「いえ」と小さく声を発した。貴弘や修司のように派手なタイプの美形ではないけれど、整った顔をしていた。目元は理沙ちゃんに似ているかもしれない。
「仲村諒子といいます。理沙ちゃんとは大学のサークルが一緒で…」
理沙ちゃんや貴弘から名前を聞いたことがあったのか、准一くんは「あぁ」と小さく頷いた。
「姉夫婦がお世話になってます」
生真面目にペコリと頭を下げられて、私も慌てて「いえ、こちらこそ」と首を振る。無表情だけれど、貴弘や修司が言っていた通りイイ子そうだった。
「あの…准一くんに聞きたいことがあって」
「…? 何ですか?」
エントランスのど真ん中で立ち話も何なので、言い合わせたわけではないけれど互いに外へ出た。暑いのでせめて隅の日陰に移動する。そこで私は改めて口を開いた。
「さっき、理沙ちゃんから聞いたの。…准一くんはユキが何を考えてるのか分かってそうだって…」
「………」
「本当?」
私の問いに、彼は即答しなかった。ただ少し何かを思案するように目線を動かした後、やがて再び私を正面から見つめ返す。
「ユキ先生が、本当に俺が思うのと同じ考えだとは限りません。でも…何となく想像ならつきます」
「……どうして?」
「『どうして』?」
私の言葉を復唱して、准一くんは少し首を横に傾けた。本気で不思議そうな顔をする。
「俺からしたら、どうして名取先生も姉も分からないのかが理解できません」
「………」
「ユキ先生の性格を考えれば、簡単に答えは出そうなのに」
「ユキの性格…?」
俺様で、自己中で、嫌味ったらしくて口が悪くて…でも本当は優しいとか…そういうところだろうか?
私がそんなことを考えたのが分かったのか、准一くんは少し表情を緩めて微かに笑った。
「ユキ先生が何か行動する時って、自分のためにってことはあまりないんです」
続けて言われて、私は目を見開く。
「大体、誰かのためなんです。多分、自分より大切な人のために」
「…それは…この場合、自殺までほのめかした由香子さんのため……?」
尋ねると、准一くんは今度は意外そうに片方の眉を持ち上げた。
正直、私にはそうとしか取れない。だって、和美ちゃんを置いてまであの時ユキは由香子さんの下へと走ったんだから。准一くんの言葉の意味を私が正確に読み取れなかったのか、彼は少し考えこんだ。
どう説明していいか迷っているのかもしれない。…デキの悪い生徒に教える教師っていうのは今の彼のような表情をするのだろうか。
「ユキ先生の性格で言えるのは、もう一つあって…」
やがて准一くんが、譲歩したように再び呟く。
「自分にとって本当に『大切な人』以外には、結構冷たいんですよ」
最後の方は少し冗談ぽく、彼は少しだけ笑ってみせた。
「……それは…どういう…?」
「元彼女…由香子さんでしたっけ、彼女には多分、相当冷たく接してると思います」
「でも…! ユキはあの時、和美ちゃんを置いてまで…」
そこで、私はハッと我に返る。
言いかけた言葉の続きを飲み込んだのは、「まさか」という思いがあったからだ。
「もしかして…あの時……」
呟く言葉は囁き程度だったけれど、准一くんの耳には届いただろう。それでも私の声は、独白のようなものだったに違いない。
「ユキが由香子さんのところに走ったのは…」
そこでゴクリと息を飲んだのは、言いようのない緊張感を覚えたからだった。
「それすらも…和美ちゃんのため……ってこと…?」
自問するような私の問いに、准一くんは沈黙を守った。肯定も否定もしない。ただ、私をじっと見据えている。
だから、続けて彼に縋るように尋ねた。
「どういうこと…? 由香子さんのところへ行くのが、和美ちゃんのためになるって……?」
彼の言うことが本当なら、確かに理沙ちゃんがさっき言っていた「あれだけ和美ちゃんを大事にしていた先輩が彼女を置いて由香子さんのところへ走るだろうか」という疑問も説明がつく。だけど…どうしても私には分からない。由香子さんのところへ行くのが、どうして和美ちゃんのためになるのか……?
「そこから先は俺には言えません。確実に合っている保証もないから」
「……」
それは、確かにそうだろう。頭では理解できるのだけど納得できなくて、私は思わず眉を寄せた。
「じゃあ、もう一つだけ。…ユキは、やっぱり由香子さんより和美ちゃんのことだけが好きなの…?」
「それどころか、多分その『由香子さん』に入り込む隙間すらないと思いますよ」
「…准一くん、どうしてそこまでユキのことが分かるの…?」
まだ、たった高校生なのに。人の話を聞かされてそれだけ落ち着いて分析できること自体がすごいとすら思う。
私の問いに、准一くんはふと表情を戻した。何の感情も読めないクールな無表情で、一瞬だけ肩越しに後ろを振り返る。それから、少しだけ微かに笑ってみせた。
「ユキ先生とは、根本的なところで似てる部分があるんです」
そう言った後、マンションの中を振り返っていた顔を戻し、もう一度こちらを向く。
「それと…、状況は全く違うけれど俺にも少し似たようなことがあったので」
「……?」
首を傾げたけれど、どうもそれ以上の答えは得られないように思えた。謎ばかりを残されたような不思議な気持ちだったけれど、一つだけ分かったことがある。
「…かわいい子だったわね、彼女?」
彼が一瞬振り向いた視線の意味に気づいて、私はそう尋ねた。その問いには「はい」と素直に返事をして、もう一度笑う。その時の笑みは、年相応の高校生らしいものにも見えた。
話に付き合わせたお礼を言って、彼とはその場で別れた。エントランスを抜けて中へ入っていく後ろ姿を見送ってから、私はそのまま車を停めてある駐車場へ向かう。理沙ちゃんと話した後のような引っかかりは確かに消えていたけれど、残されたのはただそれ以上の謎だった。
准一くんの言葉の意味が、ますますわからなくなった。そして、ユキの行動の意味も。
ただ救われるとしたら、ユキがまだ和美ちゃんのこと「だけ」を想っているというところだろうか。だけど謎も多く漠然としすぎたそんな情報を、和美ちゃん自身に伝えるわけにもいかない。
「…頭痛くなってきた」
とりあえず、帰ったら修司に電話しよう。それと貴弘にも機会があったら話したい。それだけ心に決めて、私はスーツのポケットから車のキーを取り出した。