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Sweet&Bitter  作者: みずの
霧の中
96/152

1 side:Ryoko


 9月も半ばになったとはいえ、未だ残暑が厳しく照りつける日差しが眩しい。車から降り、そんな空を目を細めて見上げてから片手を掲げて少し陰を作る。そうしたら幾分かマシなように感じるけれど、恐らくそれは錯覚に似たものだろう。


 邪魔にならないよう近くのコインパーキングに停めた車にリモコンでロックをして、私はもっていた荷物を抱えなおした。大きな荷物を持って歩けば、それだけで汗が吹き出しそうなくらいには十分暑い。



 目の前のマンションのエントランスで、訪問先のインターホンを押す。慣れた声が応対すると同時にロックが解除されて、近くのドアが左右にスライドして開いた。

「…リッチ~」

 エントランスを抜けたロビーはまるでホテルかと思うくらいに高級感あるもので、最近の分譲マンションのレベルはすごいと思う。未だ独身、アパートでしか暮らしたことのない私とはまだ無縁のモノだ。




 5階の一番奥まで行って再度インターホンを鳴らすと、待ち構えていてくれたのかすぐにドアが開いた。「はーい」と明るく返事をしながらドアを押し開いた理沙ちゃんが、ニコリと笑って出迎えてくれる。

「こんにちは、諒子さん。わざわざすみません」

 軽く頭を下げる理沙ちゃんに、私は笑って首を振ると中へ招き入れてもらった。






「すごいマンションね、ここ」

 初めて訪れたそこは、修司に聞いていた通りキレイで広くて私には感動ものだった。

「でもローン地獄ですよ」

 苦笑いを浮かべながら、彼女はリビングへと通してくれる。一番奥の部屋の更に一番奥にあるソファを勧められて、私は「ありがとう」とお礼を言いながら座った。



「あ、これ、電話で話した例のやつ。良かったら使って」

「ありがとうございます」

 持ってきた大きな紙袋と一緒に、手土産として買ってきたお菓子も渡す。恐縮しながらも受け取ってくれた理沙ちゃんは、「お茶淹れてきますね」と嬉しそうに笑った。

「あ、良かったら私やるわよ?」

 大分お腹の大きくなってきた理沙ちゃんに動いてもらうのは何だか悪い気がして、そう申し出る。でも彼女はまたニッコリと笑って返した。

「大丈夫ですよ。ちょっとは動いた方がいいらしいんです」

「そう」

 紙袋とお菓子をダイニングテーブルの上と椅子にそれぞれ大事そうに置いて、理沙ちゃんはカウンターキッチンの向こうに消えた。



 今日そもそもここを訪れたのは、理沙ちゃんにうちのアパレル会社の商品を試してもらうためだった。…いや、試すと一口で言っても実際にはサンプルをもらってもらうだけ。特にモニターとか、アンケートに答えなきゃいけないようなものではない。


 ハタチ前後の女子大生、20代のОLなんかに人気のうちの商品だけれど、最近子会社が戦略を拡大した。そちらでは働く女性だけでなく、若くしてママになったような人もターゲットに入れるようだ。かわいくておしゃれなマタニティ服なんてものも売り出すらしく、ちょうどそのサンプルを手に入れたので理沙ちゃんにぴったりだと思った。電話でその話をすると彼女は申し訳なさそうにしながらも快く受け取ってくれるとのことだったので、今日ここまで持ってきた。産まれるまで後2ヶ月ほどだけど、どうせ誰かにあげるなら気持ちよく使ってくれる人の方がいいに決まってる。



「わざわざ持ってきていただいちゃってすみません。…諒子さんもお忙しいのに」

「いいのよ。これも仕事の一貫ってことで、抜けてきちゃったから」

 シンプルだけどおしゃれなグラスに淹れた冷たい飲み物を運んできた理沙ちゃんは、「どうぞ」とそれを目の前に差し出してくれる。遠慮なく一口いただくと、暑さで乾いていた喉が一気に潤う。生き返る、という表現がこういう時まさにぴったりだと思う。おいしいと素直な感想を述べたら、理沙ちゃんが「シナモンチャイ」だと説明してくれた。家で紅茶を飲む時はもっぱらティーパックの私からしたらこういうところすら尊敬する。



 理沙ちゃんの体調の話や、この前病院でもらったエコー写真を見せてもらったりと話題は尽きない。そんな話の流れから不意に話題は私の結婚パーティーのことへと移り、理沙ちゃんが申し訳なさそうに眉を寄せた。

「すみません…結局行けそうになくて…」

「ううん、こっちこそごめんね。大事な時期だって分かってるのに招待状だけは送らせてもらっちゃって」

「いえ、行けないのは分かってても招待状いただけるだけでも嬉しいです」

 私としては結婚式も結婚記念パーティーもまだまだ先のことだと思っていた。準備に入った、というだけで、先に結婚した友人たちの話では式場選びやら何やらで余裕で半年から1年はかかると聞いていたからだ。人気の式場なら、平気で2年先まで予約がいっぱいだったりするらしい。



 だから今から式場を探して…だと、少なくとも1年くらいは先になるつもりだった。だけど私が気に入った式場と部屋が、ちょうど2ヵ月後に1日だけ空きが出たのだ。日取りも申し分なく、身内だけのこじんまりした式と披露宴にはちょうど良かった。結婚は勢いとタイミングだと言っていた誰かの言葉が脳裏をよぎったのもあり、修司とその場で決めてしまった。仕事をしながらだから準備も相当忙しくなるけれど、それなりに楽しく打ち合わせにも通っている。ただ、準備段階でケンカが絶えないカップルが多いという噂にはこの時になって初めて頷けたものだ。



 友人を集めた結婚パーティーも、同じ時期に開くことにした。そうすると理沙ちゃんの出産予定日とほぼ重なる日取りだ。彼女に来てほしい気持ちはもちろんあったけれど、こればかりはどうしようもない。今はただ、元気な赤ちゃんが産まれてくれることを祈るだけだ。当日は、急に産まれそうにならない限りは貴弘はこちらに来てくれるらしい。



「それと…すみません。今貴弘とユキ先輩が一緒だと、空気悪くなるんじゃないかと思うんですけど…」

 自分のことのように申し訳なさそうな顔をして、理沙ちゃんは言う。私はそれを豪快に笑い飛ばして、片手を左右に振って見せた。

「大丈夫よ。ま、席を離すのもわざとらしいから近くにはなると思うけど…。つかみ合いのケンカをするわけじゃないし、貴弘の気持ちも分かるしね」

「……」

「それより私が意外なのは、理沙ちゃんがあんまりユキに対して怒ってなさそうなところの方かな。いつもだったら貴弘と揃って怒り心頭な感じじゃない? 『和美ちゃんを傷つけるなんて!!!』って」

 冗談っぽく笑って言っただけだったけれど、理沙ちゃんはそこで笑わなかった。何かひっかかっていることがあるかのように少し表情を曇らせて、視線を手近のグラスに落とす。氷のせいで汗をかいたようなそのグラスの水滴を、細い指でなぞるように拭った。



「貴弘から話を聞いた時…初めは、頭に来たんです」

 それはそうだろう。私だってそうだったと思う。あの場で、修司の落ち着きようを目にしていなければ…。



「でも、引っかかることがあって…」

 言いにくそうに言葉を選ぶ理沙ちゃんに、「…それは?」とあえて重ねて尋ねる。彼女は一瞬目を伏せて小さく息を吐いた。

「頭の中で…どこか違和感を覚えるんです。あれだけ和美ちゃんを大事にしていた先輩が、いくら由香子さんに『来なかったら死ぬ』って言われたからって、和美ちゃんを置いていくだろうかって…」

「………」

「でもそんな違和感をこうやって言葉にできるようになったのは、つい最近なんです」

「……え?」

「それまではもっと漠然としていて…ただ怒りと微かな違和感とが入り混じって複雑な気持ちだっただけでした。自分でも言葉で説明ができなくて、気持ちが悪い感じで…」

 そう言う理沙ちゃんに、何かきっかけがあったということだろうか? 小首を傾げて続く言葉を待ったけれど、彼女が次に発したのは少し方向性の変わったものだった。



「私、弟がいるんですけど…」

 確か修司から何度か聞いたことがある。理沙ちゃんには年の離れた高校生の弟がいて、彼女と貴弘に溺愛されているんだっけ。しかもユキも、なんだかんだ言ってかわいがっているらしいとか。

「確か名前は…」

「准一です」

 私の言葉の先を間を空けずに引き取って、理沙ちゃんは小さく息をついた。



「つい先日、実家で皆で食事をした時に、不意にユキ先輩の話題になったんです。でも貴弘がユキ先輩の名前が出るだけで不愉快になるようなあの調子なものだから、何かあったのか准一に聞かれたんです」

「…うん」

「それで、貴弘が事情を説明しながらユキ先輩への怒りを発散させてたんですけど…」

 目に浮かぶようなその光景に、私は思わず聞きながら苦笑してしまった。貴弘はあれは怒っているというより、もう拗ねているのと意地になっているだけの状態のような気もする。



「聞き終えた准一が、言うんです。どうして貴弘や私がそんなに怒ってるか理解できない、って…」

「…え…?」

 意外な言葉に、私はそこでようやく目を見開いた。理沙ちゃんの戸惑いに似た表情の意味が、やっと分かった気がする。普通、ユキと和美ちゃんのあの日のあの話を聞いたら大抵の人はユキに対して怒りを覚えて当然なんじゃないか。

 そう思ったからだ。



「准一の考えは、結局聞けなかったんです。答えてもらえなかった。ただ、最後に言われたのは…『2人は今までユキ先生の何を見てきたの』でした」

「……」

 ユキの「何」を……? その准一くんには、何かが見えているのだろうか。

「溺愛してる義弟にそう言われて、さすがに貴弘もこたえたみたいで…。あれから何か考えてるのか、明らかな敵意はむき出しにはしないものの尚更ユキ先輩の話題は出さないようにしてるんです」

「……そう」

「それで、私も分かったっていうか…。頭のどこかで、感じていた違和感の正体に」

「ユキのことを、手放しで怒れなくなった?」

「…そうですね」

 小さく頷いたけれど、理沙ちゃんはまだどこか困惑した表情だった。

「あれから多分、私の中でも貴弘の中でもずっと准一の言葉が引っかかってるんです」

 そうしめくくった理沙ちゃんは、最後にまた大きく息を吐いた。




******



『ユキの何を見てきたか』…?


 理沙ちゃんから聞いたその准一くんの言葉を何度も心の中で復唱しながら、私はその部屋を出てからも思わず考えこんだ。



 彼は、何を知っているのか。何に気づいたのか…。できるなら私も知りたいと思った。恐らく、ユキ以外の誰もまだ知らないユキの本心を。そうすれば和美ちゃんを救える手がかりになるんじゃないか、なんて思ってしまったからだ。あんなに悲しそうな和美ちゃんの顔を、これ以上見たくなかった。




 理沙ちゃんの家を出て、エレベーターに乗ってフロントのフロアまで下りる。その間も考えるのは同じことばかりだった。




 エントランスを出たところで、またあの照りつけるような日差しが降り注いでくる。来た時と同じように目を細めてそれを見上げたところで、一組のカップルとすれ違った。これからマンションに入るところらしく、私と入れ違いに中へ入る。かわいらしい高校生のカップルだ。脇をすり抜ける時に、互いに会釈をした。



「…さて、帰るか」

 店に戻らなくてはならないし、とりあえず残された仕事を片付けに行こう。そう思った、その時だった。


 すれ違って今は私の後方に位置するさっきのカップルが、エントランスホールの部屋番号を呼び出すインターホンの前に立っていた。どうやらマンションの住人ではないらしい。誰かの部屋を訪れたようだ。

「508でしたっけ、タクミ先輩」

 彼女の方がそう告げたので、思わず私は振り返った。その気配に気づいたのか、彼の方が同じようにこちらを向く。色素の薄い髪を揺らして、同じような色の瞳が無表情に私を捉えた。



 彼女が口にしたのは、理沙ちゃんの部屋番号と……。

 理沙ちゃんの旧姓と同じ、彼の名前だった。



 そう頭の中ではっきりと整理される前に、直感的に感じ取った。だから、考えるより先に呼びかけてしまっていた。




「准一…くん…?」

 ピクリとも表情を変えない彼が、しばらくそのまま私を見つめ返していた。






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