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Sweet&Bitter  作者: みずの
夜も昼も
94/152


 家へたどり着いても、小刻みに震える体はなかなか止まらなかった。おさまりかけてもあの瞬間を思い出しただけでまたカタカタと震えだす。割れるガラスの凄まじい音と、誰かの悲鳴に似た叫び声。それだけで身は竦んで、頭の中で繰り返される映像に肩を強張らせる。



 あの後片づけを終えて、蓮くんは車で来たから送ってくれると言った。だけど蓮くんにはまだ仕事もあっただろうし、そこで甘える気分にもなれなかった。だから頑として首を縦に振らなかったのは私だ。



「……」

 制服から着替えた私服でベッドの上に転がって、どれくらい時間が経過しただろう。思い出される映像は先生の頬と手から流れる血ばかりで、また小さく身震いした。



 先生は…どうなったんだろう。大した怪我じゃないといいけど、やっぱり気になって落ち着かない。痛みに眉一つ動かさなかったけれど、痛くないわけがないんだ。



「~っ」

 気になるけれど、どうにかできるわけじゃない。そんなことを考えて悶々としていたその時、そこでふと目に入ったのはベッドに放り投げていた携帯電話だった。



 電話なんてできるわけがない。だけど…メールくらいなら…?



 別れてから一度もメールをしたことはないから、返事も期待できないけれど何もしないよりはマシに思えた。責任を感じてしまっていたから、メールででももう一度様子を伺って謝りたいと思ったのは単なる自己満足かもしれない。でもきっと、ここでこうしてあれこれ考えるだけよりは良いように思う。



 そう、たとえばこれが私のせいで怪我をしたのが先生でなくクラスメイトだったとしても…。きっと自分は、その日の夜にはもう一度改めて連絡を入れるだろうと思う。「だから」と心の中で言い訳をして、携帯電話に手を伸ばした。開いたそこからメール画面を呼び出すだけで、胸がドキドキと緊張に高鳴る。もうこの時には、指が震えるのはあの時の恐怖からなのかメールを送る緊張のせいなのか自分でも分からなかった。




 そう、返事が来ないだけならまだいい。たとえば返事が来たとしても、それがまた「気にしなくていい」なんてただの優しい言葉だったら? そっちの方が他人行儀な感じがして、余計に先生との今の距離を実感して辛くなってしまいそうだ。…ううん、その前に、もしかしたら受信拒否されている可能性だってある。


 考えれば悪い予想は尽きなかったけれど、それでも私は指を止める気にはならなかった。カチカチとボタンを押して、何度も何度も書きなおしながら文章を作る。試行錯誤した割にはとても簡潔な文章しかできあがらなかったけれど、今の自分の精一杯だと思った。



「…えいっ」

 震えそうな手で、送信ボタンを押す。完了の画面が出る頃には、たったそれだけのことなのにドッと疲れが押し寄せた。だけど受信拒否をされていたらすぐにセンターから「送信できない」というお知らせメールが来るはずなのに、その気配もなく逆に少しホッと胸を撫で下ろす。とりあえず携帯をすぐ傍に置くと、私は安堵からか大きく息を吐き出した。




 もうその頃には時刻は19時を回る頃だった。階下では今日は朝勤だった母が夕飯の用意をしているらしく魚を焼く匂いがしてくる。もうすぐ呼ばれるだろうとは思っていたけれど、その時思ったよりも早く下から「和美ーぃ」と大声で呼ぶ声がした。わずかに首を傾げてベッドから立ち上がろうとしたその瞬間、同時に部屋をノックする音がした。

「…はい?」

 母がこんなわずかな一瞬でここまで、来れるはずもない。眉を寄せながらも条件反射で返事をしてしまうと、ドアがゆっくりと開いた。そこにいた蓮くんが顔を見せるのと同時に、母が下から「蓮くんよー」と叫ぶ。

 ……明らかに言うのが遅い。



「大丈夫? 和美」

 ドアを開けるなり、蓮くんはそう言って少し心配そうに私を見た。あの時よっぽど私が青い顔をしていたんだろう。送ると言ってくれたのも拒んだので、心配で見に来てくれたようだった。



「…うん、大丈夫。今日はごめんね」

 無理にでも笑って言うと、それが分かったからか蓮くんは少しため息を漏らす。それでもそれ以上は追求せず、「いや」と首を振って同じように微かに笑ってみせた。



「野球部の人たち…どうなった?」

 話題を変えるようにそう尋ねると、蓮くんは今度は苦笑いを顔に張り付かせる。

「職員室でこっぴどく怒られてたよ。反省文3枚って言ってたかな。まぁ顧問の監督不行き届きも問題だけど」

「……そう」

「生活指導の…なんていったかな、年配の先生。あの先生にクドクド言われてたよ」

 蓮くんのその言葉に、ふと去年私のクラスの担任だった中年の先生を思い出す。神経質な性格が災いしてか、最近また頭が薄くなってきた教師だ。


「本城先生も大丈夫みたいだったから、和美が気にする必要ないと思うよ」

 私を慰めようとしたのだろう。蓮くんは続けてそう言って、ニコリと優しく笑う。

「…あの後先生に会った?」

 そう聞いた時、あまり様子を尋ねすぎても不思議に思われるかと気になったけれど、蓮くんは単に私が本城先生の怪我に責任を感じているだけだとしか思わなかったようだ。訝しがる様子もなく、「あぁ、うん」と頷く。



「保健室に行ったらやっぱり一応ガラス片が傷口に入ってないかを病院で見てもらった方がいいって言われて、そのまま病院に行ってきたみたいだよ。ちょうど俺もさっき仕事終えて帰る時に、車で駅前通ったら病院帰りの本城先生に会った」

「大丈夫そうだった?」

 さっき蓮くんにそう言われているくせに、私はどうしても気になって重ねて尋ねてしまう。やっぱり病院に行くほどの怪我だったんだ…と思うと、背筋を冷たいものが走った。



「うん、元気そうだったし。包帯は痛々しそうだったけど、大したことないって先生は言ってた」

「……そう」

 小さく返事をした私の様子を不審に思う素振りもなく、蓮くんはそのまま何かを思い出したのか「あぁ、そういえば」と笑いながら言葉を継ぐ。

「本城先生、その駅前で人と待ち合わせしてたみたいんだんだけどさ。それがすごい女の人でびっくりした」

「『すごい』…?」

 蓮くんの口にした形容詞を復唱しながら、私は眉を寄せる。言葉の意味も気になったけれど、女の人と待ち合わせをしていた、というところに胸が一瞬ざわついた。



「うん。すごい小さい人なんだけど、真っ赤なスポーツカー乗り回しててギャップがすごいな、って…。俺と先生が話してるところにちょうど着いて、先生その車に乗って行ったよ」

「……」

 真っ赤なスポーツカーに乗る人、なんて先生の知り合いにいるのか私には分からない。

 ただ、すごく小さくて、スポーツカーを乗り回すにはギャップのありそうな人なら…頭をよぎる人が一人だけいる。



「……っ」

 思わず声を失って痛んだ胸に眉を顰めた瞬間、階下で母が再び「和美ー!」と大声で呼んだ。

「ご飯だから下りてきなさいー。蓮くんも一緒にどうぞー」

 私の前に立っていた蓮くんが、「はい」と代わりに下へ向けて返事をする。部屋の外の方を向いた彼には、私の一瞬強張った表情は見られずに済んだようだった。



「行こう、和美。…あ、本城先生の件は生徒には話す内容じゃなかったから、オフレコで」

 言われて、小さく頷く。それにまた微かに笑うと、蓮くんは先に階段を下りて行った。



 私は、部屋を出る瞬間にベッドの上の携帯を一度振り返る。振動も光も伝えないそれは静かなもので、ただそこにポツンと置かれていた。




 メールなんて…送らなきゃよかった。



 先生が今由香子さんと一緒にいるなら、返事すら来るはずもない。



 バカなことをしたと後悔しながら、私は後ろ手に部屋のドアを閉めた。




******



「姉ちゃん今日元気ないね」

 夕飯を食べながら、祥太郎がそう言った。昔から周りの大人に絶賛されるほどの丁寧さできれいに魚を食べながら、チラリと隣の私を見る。

「…そう?」

 小さく返して、それ以上は答えなかった。説明するのも面倒だし、元よりそうするつもりもない。代わりに蓮くんが母と祥太郎に今日学校であったことを話してくれたので、私は黙々と夕食を続けた。私の浮上しきらない気分の理由がガラスが割れたことに驚いたからだと思ってくれれば、それに越したことはない。



「…ごちそうさま」

 母には悪いけれどどうしても食欲がなくて半分以上を残して席を立つ。いつもなら母には拗ねながら文句の一つも言われそうなものだけれど、今日だけは何も言われる気配はなかった。



「蓮くん、後で英語教えてよ」

 祥太郎が食べながら蓮くんにそうお願いをしている横で自分の分の食器を流しに持って行き、私はそのままダイニングを後にした。






 気分が重くて、携帯を見るのも憂鬱だった。そのせいで階段を上る足取りは重く、半ば引きずるようにして部屋へ戻る。見たくないと思いつつも、部屋に入れば一番にベッドの上に放置した携帯を探してしまう。そんな自分に自身で呆れそうだった。



 先生が今一緒にいるのが由香子さんだろうと思うと、余計に気分が悪くなる。あの時私を置いてまで彼女の下へ行った先生のことだ。そうだったとしても何も不思議ではないのに…。それでも、やはりこの瞬間も2人が一緒なのかと思うと嫉妬やら悲しみやらで頭の中がグチャグチャになりそうだった。



 眉を寄せたまま、ベッドに近づく。だけどその上を目にした瞬間、私は携帯のサブウィンドウが受信メールを知らせて点滅していることに気づいた。



 ドクン、と、胸が一度大きく震える。



 先生からの返事はありえないだろうと思っていたけれど、それでも何を期待しているのか全身に緊張が駆け巡った。小刻みに揺れる手を伸ばして、それを拾い上げる。未読メールは1通来ていた。受信フォルダを開くと、空欄のタイトル名の上に差出人の名前が表示される。



「……っ」

 そこにあった名前は先生のものに他ならず、私はゴクリと息を飲んだ。



 由香子さんと一緒なら、返ってこないと思っていた。彼女がそうさせることも、先生が彼女の前で返事を打つとも思えなかったから。だけど…まだ分からない。メールを送る前に散々迷ったとおり、返事が来たとしてもただ優しくて当たり障りのないメールなら、それはそれで切なさに身が切られる思いだ。




 息を飲みながら、私は思い切ってそのメールを開いた。ボタンを押す瞬間も指が震えてやまない。勢いをつけるために一瞬目をかたく閉じて、思い切ってそこを押す指に力をこめた。




 恐る恐る開いた目に飛び込んできた文字は、たった2行。だけど私が目にしたそれは、私の予想したものとは全く違うものだった。ふと眉を持ち上げて目を瞠った後、そこに書かれている文字を実感すると不思議と口元に笑みがこぼれそうになる。



 でもそれも刹那のことで、すぐに私は自分が顔を歪めて泣きそうになっているのに気づいた。




 悲しかったからじゃない。




 そのたった2行の内容が、今の私には嬉しかったからだ。







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