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Sweet&Bitter  作者: みずの
夜も昼も
93/152


 その日の実験を何とか滞りなく終えた後、私は手早く片づけを終えると席を立った。実験と考察、それに後片付けまで終えれば順次帰っていいことになっている。だけどそれら全てを終えても鞄を持たないまま、私は実験室の端から端へと移動した。



 先生はその時一番窓際にいて、すぐそこの班からの質問に答えていた。白衣のポケットの中に手を入れて、怠慢な仕草だけれど生徒からの質問をないがしろにはしない。丁寧に答えているそれを少し離れた場所で眺めていると、それに気づいたのか先生が顔を傾けたまま視線だけをこちらに寄越した。



「…先生」

 小さい声で…それでも呼びかけると、先生はちょうど大体の説明を終えたところだったらしく、そこの班の生徒たちに「後は分かるだろ」と自力で考えることを促す。そしてそれから改めてこちらに向き直った。

「どうした?」

 何でもない表情で、いつも通りの声音で尋ね返されると逆にどうしていいか分からなくなりそうだった。



「あの…すみません、今日…私実験準備の当番だったのに…」

 当番を忘れていたことを、素直に謝る。菜月ちゃんたちは気にすることはないと言ったけれど、やはりそういうわけにもいかない。先生と話すのが気まずいとか…そういうこととはまた別問題だ。



 頭を下げた私に、先生は「…あぁ」と小さく呟く。

「大したことじゃない。気にすんな」

「…っでも…」

 あっさり言われて、私は尚も言葉を継ごうとした。真正面から怒られた方が、今の自分には気が楽だったかもしれない。



「何、白石ちゃんまた当番忘れたの?」

 近くにいた鎌田先輩が、朗らかに笑いながら話に入ってくる。その言葉が胸にグサリと突き刺さりかけたけれど、彼女は明るく声を立てて笑った。

「気にすることないよ! 私なんて3回連続で忘れたことあるよ!」

 悪びれもせずに言う辺り、慰めようとしてくれているらしい。私はそれに一瞬キョトンとしかけたけれど、先生はというと「お前はもうちょっと気にしろ」と眉を寄せながら呟いた。

 それから、再び鎌田先輩から私の方へ視線を移す。



「…まぁそういうわけだから気にするな」

 窓枠にもたれかかっていた先生は、身を起こすとそのまま踵を返そうとする。その姿に「……はい」と小さく声を返すしかなくて、私は思わず顔を俯けた。




 付き合っていた時の先生だったら…きっと意地悪く笑いながら嫌味の一つや二つ言われたに違いない。だけど…私がおかしいのかもしれないけれど、「気にするな」なんて優しい言葉の方が何だか切ない。付き合う前の先生だったら…どう言っていただろう? もう、以前の2人の距離感が私には分からなくなってしまっていた。




 顔を伏せたまま、唇を噛み締める。

 先生が白衣を翻して離れかけたのを気配で感じた……その時、だった。



「…白石っ!」

 先生に大声で呼ばれたのに気づいた瞬間、何が起こったのかすぐには分からなかった。

 理解できたのは、その声がいつになく強張っていたこと。それと、私から離れかけていた先生が再びこちらに向き直ってくれたこと。だけどそれも一瞬のことで、私の視界はすぐに真っ暗になってしまった。

 なぜなのかを考えるよりも早く、近くの窓ガラスがガシャーーンと盛大な音を立てたのが耳に響いた。



「……っ?」

 何が起こったのか分からない。茫然と真っ暗な中目を見開く私の耳に続いて聞こえたのは、誰かの悲鳴に似た叫び声だった。

「先生…っ!」

 その誰かの声に応じるように、先生が身を起こす。それと同時に私の視界が明るくなり、やっとそこで理解する。私の視界が暗かったのは、つまり先生に抱きしめられていたからだってことを…。



 私の両肩に手を置いていた先生が、最後にそれも離してしまう。茫然と立ち尽くす私にそれでも怪我一つないことを確認すると、破れた窓ガラスの方へ大股で歩いた。そして開ける必要もなく外と繋がったその窓から、「馬鹿野郎! 気をつけろ!」と大声で怒鳴る。どうやらガラスを割った張本人らしい野球部の生徒は、こちらに走りよってこようとしていたけれど先生の一喝で恐怖に立ち竦んでしまったようだ。



「白石ちゃん、怪我ない!?」

 ガラスの一番近くに立っていた私を心配して、先輩や同級生たちが声をかけてくれる。窓際にいた班のメンバーは、驚きはしたけれど怪我もなく無事なようだ。

「だ、大丈夫です…」

 まだどこか頭が真っ白な私は、それでも何とかそう答える。そんな私の目の前で、他の女の先輩が「ユッキー!」と大声を上げた。

「切れてるよ! 大丈夫!?」

 その言葉にハッと顔を上げると、見上げた先生の頬の辺りから血が出ている。それと、手の甲も…。

「大したことねぇ」

 ピクリとも表情を変えずに答えた先生は、そのまま周囲を見回した。

「誰も怪我してねぇな?」

 先生の言葉に、コクコクと皆が大きく頷く。それを見やった後、先生は最後に再び私の前にやって来た。

「大丈夫か?」

 恐らく顔面蒼白だっただろう。その顔を少し覗き込むようにかがまれて、私は慌てて首を縦に振る。

「それより、先生の方が…」

 言いかけたけれど、うまく声にならない。驚き、目の前で傷ついた先生を目の当たりにしたこと、そしてその先生の優しい声に少し安堵したことで、今更カタカタと手が震え始めた。

 先生もそれに気づいたのか、私の指に視線を落とす。そして何かを言いかけた瞬間、実験室の部屋のドアが開いた。




「どうしました? すごい音がしましたけど…」

 ドアのところに立っていたのは蓮くんだった。近くを歩いていて物音を聞きつけたらしく、心配そうに実験室の中を覗く。そして周囲の異変を見て全てを察知したのか、早足でこちらに向かってきた。

「先生、片付けは僕がしておきます。保健室へ行かれた方が…」

 瞬時に状況を把握する辺りさすがだと思う。蓮くんは、一番に本城先生を見上げてそう言った。



 同僚にそう言われて、先生もさすがにようやく「…そうですね」と呟く。

「すみませんが後をお願いします」

 下に散らばるガラスの破片と、窓の外に立ち竦む野球部員を指して蓮くんにそう言った。



「……先生…」

 震える手を自分の胸の前でぎゅっと握りこみながら、私は不安そうに本城先生に呼びかける。それに応じるように振り向いた先生が、私を一瞥した後すぐに再び蓮くんに向き直った。

「すみません、それとそいつが驚いてショック受けてるみたいなんで…よろしくお願いします」

「…え? …あぁ、はい」

 一瞬メガネの奥の目を丸くした蓮くんが、本城先生から私に視線を移して軽く頷く。私はというと、そこでようやく慌てて口を開いた。

「先生、それなら私も保健室に…」

 怪我をしたのは私をかばったせいだ。勢いでそう口にすると、先生は首を横に振った。

「大丈夫だから。…お前らも、全員片付けしたら早めに帰れよ」

 周囲に向けてもそう指示をして、スッと私から離れる。

「ユッキー! じゃあ私が一緒に保健室行くー」

 もう実験の片づけを終えたのか、菜月ちゃんが元気よくそう言いながら手を上げた。

「お前もさっさと帰れ」

 先生にそう一蹴されることは予想ずみだったのか、菜月ちゃんはわざとらしく頬を膨らませて拗ねてみせた。



 そして今度こそ身を翻そうとした先生の手の甲から血が滴り落ちるのを、私は見逃さない。頬の傷はそれほどでもないけれど、手の方は相当な傷なんだろう。

「…先生っ」

 こちらの話なんて聞き入れてくれなそうな先生に、改めて呼びかける。切羽詰ったようなその声音すら、先生は「…白石」と硬い口調で遮った。

「大丈夫だから」

 言葉は柔らかいのに声のトーンに言いようのない迫力があって、私は思わず口を噤む。有無を言わさぬ調子でそう言い放った先生が、蓮くんに「すみません、お願いします」と再び頭を下げた。




 大丈夫なわけない、あんな怪我…。

 だけど私はこの時、それ以上食い下がることができなかった。やんわりとだけれど、はっきりと拒絶されたことが分かったからだ。それは、単に先生が私に責任を感じさせないようにしてくれただけのことなのかもしれない。



 だけど…。



「よし、じゃあガラス片付けよう。あぁ、君たちも手伝って。それからその後職員室だ」

 青ざめた顔で外に立ち尽くしたままの野球部員にも声をかけて、蓮くんがその場の指揮を執る。すぐそこに落ちていた野球のボールを拾い上げながら、周りを見渡した。




 震える手と、涙の浮かんだ目で、私はそのやり取りの傍で本城先生の後ろ姿を見つめていた。





 先生自身に…蓮くんに私を委ねるようなことをしてほしくなかった。





 そんな思いが胸を駆け巡るのを実感した時、先生の姿は実験室のドアの向こうへと消えていった。








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