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Sweet&Bitter  作者: みずの
夜も昼も
92/152


 この時ほど自分の運のなさを呪いたくなったことはなかったように思う。


 黒板横の時間割表を見上げて、私はその日何度目かの盛大なため息をついた。





『もしかして和美も信じた? あんな嘘』

 蓮くんのあの時の言葉に返す声もなく、私はただ硬直して動けなくなっただけだった。

『いないよ、彼女なんて。ただあぁでも言わないと祥太郎は納得しなかっただろうから』

『どうして…そんな嘘つくの…?』

 なぜ、祥太郎を納得させないといけないのか。その時になってようやく口は何とか動いたけれど、体は相変わらず微動だにしなかった。私の髪を梳くように上下していた蓮くんの指先が、頬に触れる。ぞくっとしたものが背中を駆け巡り、私は小さく身震いした。

『困るんだ、祥太郎に邪魔されると』

『っ? ……』

 蓮くんのそんな続いた一言に、私は更に身を固くする。冷たい指が、頬をなぞった。抵抗したいはずなのに体の自由が聞かないのは、蓮くんの放つオーラのようなもののせいだろうか。




『…ぷっ』

 完全に固まってしまった私との間に落ちた沈黙。それをやがて破ったのは、そんな風に思わず吹き出した蓮くんの笑い声だった。すっと私から手を離して、さっきまでの緊迫した空気を一瞬で壊す。

『本気にした?』

 からかうように笑って、蓮くんは私から一歩離れた。



『冗談だよ、冗談』

 そう言って笑う蓮くんは、もういつもの蓮くんだった。硬直していた私はそのおかげでハッと我に返り、からかわれたことに気づいて顔を赤らめる。

『もうっ、人をからかうのもいい加減に…』

『ごめん、和美がいいリアクションするからさ』

 声をたてて笑いながら言う蓮くんに、何となく妙な違和感がまた胸をよぎる。

『…蓮くん』

 改めて呼びかけて、私は自分より少し高めの背の彼を見上げた。

『どこから…冗談? 初めから…?』

『……』

 ふと真剣な目で尋ねると、蓮くんも真顔になる。だけどそれも一瞬のことで、また彼はフッと表情を崩した。女の子なら悲鳴を上げて喜びそうな、優しい笑みを浮かべる。

『これ、おばさんにお礼言っといて』

 母が私に持たせた袋を指して言って、蓮くんは私の問いには結局答えなかった。





 そんなことがあったから、何となく学校で蓮くんと顔を合わせるのは気まずかった。蓮くんは、ただ本気で私をからかっただけかもしれない。…でも、頭のどこかで警鐘のようなものが鳴り響いた気がしたんだ。これ以上彼と個人的に関わって、いいことはあまりないように思えた。学校で確実に会うし、家族にも変に思われるから避けるわけにはいかないけれど。



 そんな風に思っていたのに、今の自分はツイていないと思う。

 新学期に入ったのでクラスで係を決め、私は何とクジで英語の教科係を請け負ってしまう羽目になった。英語といえば…相澤先生だけじゃなくて、蓮くんも担当教師だ。

 自分のクジ運のなさをこの時ほど呪ったことはないだろう。そもそも、蓮くんが英語担当になってからその教科の係をやりたかった女子は多いはず。なのにやりたくもない私が当たってしまう辺り、因縁めいた何かを感じてしまったのも本当だ。



 その日の5限に早速英会話の授業があって、私は昼休みのうちに仕方なく担当である蓮くんの元へ向かった。






「あら、白石さんが英語の担当になったの?」

 英語科の準備室を訪れると、相澤先生がニコニコと笑いながらそう尋ねてくる。

「はい…よろしくお願いします」

 ペコリと頭を下げて、私はそのまま連くんの方へ向かった。クジで一緒に英語の係になったもう一人の女子が今日休んでしまっているのが本当に残念だった。



「成川先生、5限の準備は…」

 語尾を濁して聞くと、何か書類を書いていた蓮くんは「え?」と顔を上げる。それを見て、相澤先生が横から助け舟を出した。

「あ、うちの学校、係の子が授業前の休み時間に準備の手伝いに来てくれるんです。資料運んだりとか、色々。何もない時は事前に言っておいてあげるといいですよ」

 相澤先生の丁寧な説明に、蓮くんは「あぁ、そうなんですか」と同じように笑みを浮かべて返す。

「じゃあせっかく来てもらったし、これお願いしようかな」

 机の傍らに置いてあった次の授業で使うらしいプリント類を手渡された。「はい」と小さく答えて受け取ると、踵を返そうとした私と同時に蓮くんが椅子から立ち上がる。

「もうすぐ予鈴もなるから、一緒に行くよ」

「…えっ」

 声を上げたのは、私だけでなく相澤先生もだ。ただでさえ彼女には本城先生の件でよく思われていないのに、あまり嬉しい状況ではなかった。でも、ここで不必要に拒むのもおかしいと思う。仕方なく「…はい」と弱々しく答えて、相澤先生にペコリと頭を下げるとその部屋を並んで後にした。



「相澤先生って分かりやすい人だな」

 2人で並んで教室へ向かう途中、蓮くんが不意に声のトーンを落として言う。その言葉に驚いたのと、周りに誰もいないか焦ったのとで、私は思わずキョロキョロと辺りを見回した。

「大丈夫、聞こえないから」

 笑って言いながら、蓮くんは手にした資料を持ち直す。託されたプリントの束を私も握りなおして、蓮くんに「…え?」と聞き返した。



「あの先生、好きな人いるだろ? なんて言ったかな…化学の先生。その人に見せ付けるために俺とわざと仲良くしてるのが分かる」

「……そうなの…?」

 そこまでだとは、正直思っていなかった。ただ、相澤先生は蓮くんのことを気に入っただけかと思っていたから…。だけどまだこの学校へ来てたった数日の蓮くんが、相澤先生が本城先生のことを好きだと見抜いているなら間違いではなさそうだ。



「だけど、別に俺のことが好きなわけでもないけど他の女の子と一緒にいると気に入らないわけだ」

 冷静に分析しながら蓮くんは続ける。…確かに、相澤先生の性格ならありえそうなことだ。しかも蓮くんは知らないことだけれど、相澤先生からしたらそれが「また」私だったから気に入らないに違いない。



「蓮くんは、他人のことがよく分かるんだね」

 感心したように言うと、彼は少し眉を持ち上げて意外そうな顔をした。

「そうでもないよ。特に和美のことは分からないことだらけだ」

 言った蓮くんは、おかしそうに笑う。私のどこが分かりにくいのだろう…? 疑問に思いかけて彼の横顔を見上げた時、蓮くんが隣で「…あ」と小さく声を上げた。



「噂をすれば、何とやらだ」

 そう言う蓮くんの視線の先には、化学実験室。そのドアからちょうど出てきた白衣の主も、ドアを閉めながらこちらに気づいたようだった。



 笑顔でペコリと頭を下げる蓮くんに続いて、私も慌てて会釈をする。いつもより深めにお辞儀をしたせいで、本城先生が私たちにどう挨拶を返したのかは見えなかった。



 次に顔を上げた時には、私は蓮くんと化学実験室の前を通り過ぎるところだった。先生はというと、私たちと逆方向へ向かう。言葉すら交わすことはなかったけれど、私はこの時本気で自分の運のなさを嘆いた。



 よりによって、蓮くんと一緒のところに出くわすなんて…。運命というものが本当にあるのなら、私と本城先生はきっとこの時かみ合わないように定められていたんだと思う。




******



 その日の放課後から、2学期始まって最初の部活動があった。正直先生と顔を合わせるのも気まずいけれど、教室でだって部活でだって会わないわけにはいかない。

「…よしっ」

 新たに気合を入れ直して、私は由実たちと笑顔で別れるとそのまま化学実験室へと向かった。



 薬品の匂いのするその部屋に入り、いつもの定位置に向かう。もう既にそこにはほとんどの生徒が集まってきていて、今日の実験内容のプリントを読んで確認を始めている。例にならって自分の席にも置かれていたそれに目を通し始めると、後ろの椅子に座っていた一人の後輩がトントンと私の肩を叩いた。

「和美先輩」

 1年の菜月ちゃんだ。肩より少し下までの髪をゆるく巻いて、女の子っぽくかわいらしい感じなのに性格はとてもサバサバしている。実験班は違うのでそれほど絡むこともないのだけれど、人懐っこい彼女は前からよく親しく話しかけてくれる。



「何?」

 プリントを手にしたまま振り返ると、菜月ちゃんはじっと私の顔を見つめていた。

「今日の昼休み、どうかしたんですか?」

「……え?」

 尋ねられた意味が分からず、私は目を丸くする。その様子を見て、菜月ちゃんの隣にいた美晴ちゃんという1年生が少しだけこちらに身を乗り出した。菜月ちゃんと仲がよくて、いつも大体一緒にいる子だ。

「先輩、今日昼休み実験準備の当番だったんですよね? 来なかったって私も菜月に聞いたから、どうかしたのかと思って…」

「え…? ………あ!!!」

 言われて、ハッと我に返る。

 そう言えば今日の実験の準備を昼休みにするのは私の番だったはずだ。ついこの前までは覚えていたはずなのに…恐らく蓮くんとのやり取りや、英語科の係になってしまった事実に気を取られていて忘れてしまっていた。



「どうしよう…! 私…」

「あ、準備は大丈夫ですよ? 私が代わりにやっておいたので」

 ニコニコと笑って、菜月ちゃんがそう言う。

「ただ和美先輩が当番サボるとも思えなかったので、具合でも悪かったのかってちょっと心配になって…」

「…ごめん、忘れてただけ…」

 確か私は、1学期の時も忘れてしまったことがあったはず。自分の不注意さに呆れて、思わず頭を抱えたい心境になる。代わりにこめかみの辺りに手をやって、頭痛すらしそうなそこをごまかした。



「ごめんね、菜月ちゃん。ありがとう」

 謝ってお礼を言うと、彼女ではなくて隣で美晴ちゃんがニヤニヤと笑う。

「和美先輩、気にすることないですよ。菜月は役得だって喜んでましたから」

「え?」

「ちょ…っ、美晴、そういうこと言わないでよ!」

 思わず聞き返した私と、菜月ちゃんの声が重なった。片手で頭を抑えたままの私に、美晴ちゃんはもう一度笑う。

「この子ね、そもそも本城目当てで昼休みここに来てたらしいんですよ。それで、放課後の実験準備があるからって追い出されそうになってたんですけど、結局和美先輩が来なかったから代わりに当番をすることで本城と長く話せたって喜んでたんで」

「みーはーる!!」

 ペラペラとおかしそうに話す美晴ちゃんに、菜月ちゃんが少しだけ顔を赤らめながら低い声で名前を呼ぶ。そんな彼女の表情は、見たこともないくらいに「恋する女の子」だった。その事実に気づいて「…あぁ、そう…なんだ…」と思わず返す声が弱々しくなる。




 1学期に当番を忘れてしまった時は、確か先生に放送で呼び出された。なのに今回はその場にいた菜月ちゃんに頼んだ辺り、何故か先生に「切り捨てられた」気がして胸が痛む。先生からしたら、もしかしたら私が気まずさ故にわざとサボったのだと思ったのかもしれないけれど…。



「でも本城も珍しいよね、先輩が当番に来なかったからって菜月にやらせる辺り」

 私の胸の内を知る由もなく、美晴ちゃんがそう言う。

「いつもならよっぽどのことがない限り、本人に責任持ってやらせるのに」

 広い実験机に頬杖をついて続けた彼女の言葉に、私はズキンと胸が痛むのを自覚した。



 …それは、先生が……。



 見限ったんだ、と思いかけた瞬間、菜月ちゃんがあっけらかんと「あぁ、違う違う」と首を横に振る。

「ユッキーはいつも通り、先輩を呼び出す放送かけるって一旦出て行ったんだよ。でもすぐに戻ってきて…『やっぱりお前やっとけ』って言われたの。何で気が変わったのか知らないけど」

「……え?」

 その菜月ちゃんの言葉が脳にようやく到達したのを認識した時、私は小さく情けない声を返していた。



 先生が…?



 どうして先生がたったその数分で変わったのか…私は知っているはずだった。



 そう…あの時だ。実験室から出てきた先生と、廊下で出くわした時。あの時、私は蓮くんと一緒だった。英語科の係としてだったけれど彼と並んで歩いていた。



「……っ」

 どうしよう、忘れていただけでも大変なことなのに、その上あんな…。

「謝らなきゃ…先生に…っ」

 思わずそう口にした私に、こちらの思いを知るはずもない菜月ちゃんは朗らかに笑う。

「大丈夫ですよ、当番忘れる人なんて今までにだっていたわけだし…ユッキーも全然気にしてないみたいでしたよ?」

 『気にしてない』…? それはそれで私の胸には重くのしかかる。

 そう思った、ちょうどその時だった。




「…始めるぞ」

 ガチャっと隣の部屋のドアが開いて、白衣を着た先生が姿を見せる。その様子も声音すらも普段通りすぎて、また胸がキリと痛んだ。





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