3 side:Yukisada
「…落ちましたよ」
柔らかい声が降ってきたと思ったら、ふっと視界の片隅に影が落ちた。職員室の自分の席で仕事をしていた俺は、その声にゆるりと顔を上げる。俺が落としたらしい、床に落ちた資料を拾う一人の男がそこにいた。
「…どうも」
軽く頭を下げて礼を言い、その紙を受け取る。俺の言葉にかすかに微笑んだだけのその男は、1つ席を挟んだ向こう側に座った。
確か、名前は覚えていないけれど今日からやって来た臨時の教師だったはずだ。始業式より前に職員たちに向けて教頭が紹介していたので、間違いない。去年教師になったばかりのようで、今年24になると言っていた気がする。
「本城先生」
そんなことを漠然と思い出していた俺を、反対側から呼ぶ声がした。再び顔を上げると、あまり見たくない人物がそこにいる。眼鏡の奥の目を少し細めた、教頭が立っていた。
「はい」
立ち上がりもせず、目線だけを上げたことが気に入らないのだろう。教頭の細い目は更に細くなったが、俺は構わず無言で先を促す。それに気づいたのか、教頭は「ゴホン」と一つわざとらしい咳払いをした。
「生徒の進路希望調査書が提出されていると思うが…確認はしたかね」
教頭の言葉に、俺は自然と視線を机の端へ移す。確か、夏休み中に記入して持ってこいと生徒に渡していたものだ。
「…いえ、まだですが」
確認したかと言われても、提出されたのは始業式の後のHRで、ほんの1時間ほど前のことだ。そんな時間があったわけがない。
「きちんと目を通して確認しておくように。相澤先生は今回は手伝えんよ。彼女には別の仕事を頼んでいる」
「…はぁ」
確かに俺のクラスの副担任は相澤だが、今まで担任がするべき仕事を彼女に押し付けたことは一度もない。だけど反論するのもバカバカしくて、俺は曖昧な返事をした。
相澤は確か、例の若い臨時教師の指導役…というか世話役を頼まれたはずだ。教頭の言葉はそのことを指しているのだろうが、別に俺には何の関係もないことだ。
「本城先生、聞いとるのかね」
「…聞いてますよ。善処します」
うんざり気味に答えると、教頭はいつも通り感情を露にして少し目を剥いた。そもそも、どうしてこいつが俺ばかりを目の仇にするのか未だに釈然としない。根本的に気に入らないタイプなのだとしたら、放っておいてくれればいいのにとさえ思う。俺の隣で相澤が、更にその向こう側で臨時教師がこちらを見ているのが分かった。
「少しは名取先生を見習いたまえ。彼はここに戻ってきてすぐに目を通していたよ」
まだ続くらしい教頭の説教に、意図したわけではなく顔を上げる。斜め前の貴弘は、教頭の言葉通り生徒の出した調査書を手にしていた。話の矛先が自分の方にまで向いてきたことに少し迷惑そうにしながら、視線を上げる。そのせいで俺とかち合ってしまったそれを、あいつはふっと瞬時に逸らした。
……ここまで来ると小気味いいな。
今朝、廊下で白石と一緒だった貴弘が俺の方を一切見ないようにしていたことを思い出すと自然とそう思ってしまう。子どものようなその態度には、腹が立ったりするよりもむしろ逆に微笑ましい気がしてくるから不思議だ。貴弘を怒らせた張本人は俺なはずだけれど、どこか他人事のように感心しながらそう思う。
「本城先生」
返事のない俺に尚も呼びかけてくる教頭。俺はその顔を再び見上げると、「以後気をつけます」とこの上なく便利なお決まりのセリフを吐いた。話を終わらせるにはこの言葉が一番効果的だと知っている。
話を終わらされた教頭は、それ以上言葉を継げず…だが面白くなさそうに顔を歪めながら歩いて行った。
その後ろ姿を見送った後、完全に無視するわけにもいかずに俺はその例の調査書に手を伸ばす。パラパラとめくりながら、生徒たちも大変だなと素直な感想を胸の内で転がした。
確か、2年になる前にも一度進路希望調査を行われているはずだ。いくら進学校といっても、3年の受験期でもないのにこれほど頻繁に調査をする必要はあるのだろうか。大体、生徒の全員が本当のことを書くとも限らないのに…。
一枚一枚めくるのではなく、手にした束が柔らかい風に任せて自然とめくれるのを眺めるだけだ。だがやがて、そのうちの一枚のところで俺の目が止まった。
第一希望から第三希望まで、都内の4年制である女子大の名前が書かれている紙だった。ただ、一度書いたものを修正したらしく、白いテープの上に書かれている。
「……」
思わず、その紙を裏返して透かしてみた。そうして浮かび上がった、その紙の持ち主が元々書いていたはずの文字に、俺は思わず目を細めてしまう。
そこにあったのは、都内私立のW大の名前だった。
それを見た瞬間に、思い出す。あれは夏休みに入ってすぐのことだった。
『そう言えば先生って、どこの大学出身なんですか?』
そう尋ねてきた白石の顔は、今でも鮮明に脳内に蘇る。W大だと答えると、あいつは少し驚いた後、目を輝かせていた。
『すごい! 先生もなっちゃんも頭いいんですね…!!』
『…そうか? 入っちまえば大したことないぜ』
『そこの大学に入るまでが大変なんじゃないですか…!』
ニッコリ笑った白石は、確かその後こう続けたはずだ。
『私も、頑張ったら受けられるかなぁ…』
そんなことを言い出すとは思っていなかったので、内心少し驚いた。
『何で?』
尋ねた俺に、あいつは大学受験案内の分厚い冊子をめくりながら言う。
『だって、先生が見てきたものを見てみたいじゃないですか』
その言葉を聞いた瞬間に自分の胸に沸いた感情も、今でもはっきり覚えているのに……。
『…受けるだけなら誰でもできるぜ。受験料さえ払えばな』
『ひどっ!!』
そんな感情を悟られたくなくて叩いた憎まれ口に、あいつはそれでも笑っていた。
透かした調査書を机の上に戻す。
そうすると自然とため息が零れた。
あいつが一度夏休み中に書いただろうその大学名を、修正テープを使ってまで元に戻してきた理由は考えるまでもなく分かった。
「……」
そんな些細なことで実感させられる。本当にもう自分の手なんて届かないところへ行ってしまったんだと。
…いや、きっと俺は本気で理解はしていなかったんだ。
あいつが俺との別れを選んだことを。
昨日電話で告げられたそれに抗うことも許されなかったけれど、頭のどこかではまだどうにかなるとでも思っていたんじゃないか。
「…」
自分の認識の甘さに、反吐が出る。苦虫を噛み潰したように顔を歪めた瞬間、隣の相澤が「…本城先生?」と顔を覗きこみながら声をかけてきた。
「…え、あぁ…何ですか」
どうやら何度も呼びかけていたらしい。ようやく顔を上げた俺は、内心を押し隠して無表情を装った。
「これから成川先生を案内がてら食堂でお昼を食べようかと思うんですけど…先生もご一緒にいかがですか?」
隣の臨時教師を指して、相澤は言う。…そうだ、確か「成川」。そんな苗字だったことを今更思い出した。
「いや、俺は遠慮しておきます」
「…先生…」
何を勘違いしているのか、相澤が少し寂しそうな表情をする。すぐに悲劇のヒロインぶるのは相変わらずで、いい加減にしてほしい。そうでなくても相澤がわざとらしく俺の前でその若い臨時教師と仲良くしているのがうっとうしいのに、だ。
「…昼食は苑崎先生と約束があるので」
尚も縋られても面倒で、俺はそう続けた。そして手早く机の上を片付け、立ち上がる。
美術の苑崎先生と先約があるのは嘘ではない。だけど俺はこの時半ば口実のように言って、椅子を机の中に入れた。
約束の時間より早くなってしまったけれど、まぁいいだろう。それ以上職員室にいるのもわずらわしくて、俺は美術準備室へと向かった。
生徒たちはもう下校したか部活へ向かったかで、教室のない教科棟はさらに静かなものだ。白衣のポケットに両手を突っ込み、長い廊下を歩く。それほどうるさく足音をたてているつもりもなかったが、それでも誰もいない校舎だと一人分の靴音が少し響いた。
驚いたのは、長い廊下の向こう側にある階段にさしかかろうとした時だった。階段から何人かが下りてくる気配がして、やがてそのうちの一人が大声を上げた。
「成川先生が和美の元カレ…!!!!!」
聞き覚えのあるその声よりも、その発言の意味の方が俺の胸に重く響く。目を瞠ったけれど足を止めるわけにはいかず、そのうち階段を下りてきたあいつらも俺に気づいた。4人は絶句したように、立ち尽くす。俺に話を聞かれてしまったことが分かったからだろう。
「ゆ、ユキサダ…」
一番に声を発したのは、さっきの叫びに似た言葉を口にした江口由実だった。狼狽したように俺の名前を呼ぶ。だけどそれでも、俺は平静を装って、立ち止まるわけにはいかなかった。
「ちょっと待って、ユキサダ…! 今のは…!!」
何をどう弁解しようとしたのか、慌てて江口が俺の白衣を掴む。
だけど本来なら、白石にとってもこいつらにとっても、俺に言い訳するようなことではないはずだった。そして、その「言い訳」を聞く資格すら、俺にはない。
「早く帰れよ、お前ら」
江口が何か言うより先に言葉を遮り、そう言って笑う。
自分でも不自然さのかけらもない笑みを浮かべられた自信があって、そんな事実に逆に背筋がゾッとした。
何でもないことのように江口の手を振り切り、俺はそのままあいつらが下りてきた階段を上る。後ろは振り返らないまま、4階にある美術準備室へと向かった。
「……」
たどり着いたその部屋で、ノックもそこそこにドアを開ける。中にいた苑崎先生は、約束の時間より早い来訪に驚きはしたが迷惑そうな顔一つ見せなかった。ただ、無言でしばらく俺の顔を見つめていた。
やがて、ふと表情を崩してその整った顔に苦笑に似た笑みを浮かべる。そんな笑みを漏らさせるほど、今の俺がひどい顔をしているんだろうという自覚はあった。さっきまでの職員室と階段とで、平然を装って押し込めていた胸の痛みにもう耐えられそうになかったからだ。
「…コーヒーでもお淹れしましょうか?」
そう言った苑崎先生は、こちらの返事を待たずにカップを手にしていた。