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Sweet&Bitter  作者: みずの
私の気持ちをあなたは知らない
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 部活が本格的に始まるのは、4月も下旬にさしかかる頃になってようやくといった時だった。

 実験、研究熱心な先輩たちに、装い通りクールに指導する先生。無駄話なんてほとんどない真剣そのもののその部活に、ついていけるか心配になる。元々化学は苦手な方だ。だけど、入った以上はきっちりやるつもりだった。入った動機は不純でも、だからと言って手を抜ける性格でもない。




「どうしよう…っ、遅れちゃう!」

 これまでは体験入部の期間だったけれど、今日からは本入部が始まる。そんな大事な一日目に遅れそうになって、私は廊下を急いでいた。担任の先生に捕まって、雑用を押し付けられたのが痛い。

 部活へ遅れて行ってもそれを言えば誰も咎めはしないのだろうけれど、初日から遅れて入って注目を浴びることは避けたかった。




 ほとんどの生徒たちがそれぞれの部活へ行って静かになり始めた校舎。

 学年棟から教科棟へ駆け込むと、そこは更に人が少なく暗かったので、明るい場所から入り込んだ私は一瞬目がくらんだ。

 1階にある化学実験室へと、教師の誰かに会っても怒られない程度に早足で急ぐ。そうしてたどり着くことばかりに意識を集中させていたせいで、一箇所だけある足元の小さな段差に気づくことができなかった。



「きゃ…っ!」

 思いっきり前のめりに倒れ、手にしていた鞄が前方へ飛ぶ。ビタンっと派手な音をたてた私は、それでも何とか膝と手をついて完全に倒れることは免れた。

「…いたた…」

 床で膝を擦ったらしく、摩擦の熱と共にピリとした痛みが走る。眉を寄せてそれを確認しながら何とか体を起こすと、視界に一つの影が映った。



「………」

「っ…」

 首ごと顔を仰向けて見上げたのは、いつも通り白衣を着た本城先生。いつから見ていたのか後ろにいたらしい先生は、特に感情の読めないあの無表情でこちらを一瞥しただけ。

「…っ」

 目の前で転んだ恥ずかしさから、慌てて立ち上がる。倒れたあの一瞬にスカートがめくれていなかったことだけがせめてもの救いだ。



「……」

 すっと、先生はそのまま私を追い越す。何も言わず、当たり前だけどこちらもろくに見ないまま。

 やっぱり見向きもされない程度の一生徒でしかないという実感が、また沸き起こる。

 そしてこの前名取先生と廊下でぶつかった時の、何の興味もなさそうにさっさと行ってしまった後ろ姿を思い出してしまった。その時のことをフラッシュバックしたせいで、胸の痛みは相乗効果なのか肥大した気がする。



 教師が、単なる新入生の一人を気にすることなんてあるはずがないのに。しかも自分の担任するクラスでもない学生を。

 そんなことは分かりきっているのだけれど、それでも少し悲しかった。



「……」

 手のひらも床についた時に擦ったらしく、薄く血が滲んでいた。それを空しく見つめていると、俯けた頭上に影が落ちた。一瞬視界が暗くなって、私はゆるりと再び顔を上げる。



 そこには、私を追い抜いてさっさと行ってしまったと思っていた先生が、こちらを向いてすぐそこに立っていた。その手には私が転んだ時にかなり前へ飛ばしてしまった鞄。

「あ…っ、すみません…っ」

 差し出されたそれを、無傷の方の右手で受け取った。



「気をつけろよ」

 一言ポツリと言うと、先生は再び踵を返す。相変わらず愛想のかけらもないクールな表情だったけれど、その一言が「私に」向けて発されたものだと実感すると思わず目を見開いた。

 「ありがとうございます」と慌ててその背中に声をかける。そうするとそのまま行ってしまうと思った後ろ姿が、ふと再び何かを思い出したようにこちらを向いた。

「白石、保健室行って手当てしてもらってから部活に来い。遅刻扱いは避けてやるから」

「え…? えっと…」

 予想外にかけられた言葉に、私は思わず目を瞠る。



 …今…先生、私の苗字を呼んだ……?



 返事に戸惑った私の表情をどう受け取ったのか、先生は小首を捻りながら私の手と足を顎で指し示す。

「血が出てる」

「…あ…っ、はいっ、すみません…」

 最後の謝罪は何の意味があるのか自分でも分からなかったが、口をついて出てしまっていた。そんなこちらの様子は気にしないまま行こうとした先生に、頭で考えるよりも先に「…あの…っ」と思い切って声をかけてしまう。それも全て無意識のうちの行動だった。



「?」

 先生が振り返るたびに、白衣の裾がなびく。それを見ながら、私はまた意図せず思ったことを口に出してしまった。

「先生……私の名前…」

 どうして知っているのか、という質問は最後まで告げることはできなかった。

 ただそれだけをポツリと呟く。だけど自分の意識外の行動に自身で驚いてしまったせいで、そこで口を噤んでしまった。



 その私の様子に、先生が首を傾げる。

「白石だろ?お前」

「え、あ、はい…そうですけど…」

 目を丸くしたまましどろもどろで、訳の分からないことを言う生徒だと思われただろう。倍増する恥ずかしさに顔を真っ赤にして俯きかけた。だけど先生は、一瞬不思議そうな顔をして私を見た後「はは」と小さく声をたてて笑う。



「…! ……」

 それは、あの日の公園で見た無理をした苦笑いでもなくて。この前名取先生とぶつかった時に唇に浮かべたような冷たいものでもなくて。ただ、ごく普通の自然な笑みだった。




「保健室行くのに、急いでまたこけるなよ」

 それだけ言い置いて、今度こそ踵を返して実験室の方へ行ってしまう。




 苗字を覚えられていただけで、私にとっては奇跡のようだった。

 目の前で転んでしまったことはこの上なく恥ずかしいけれど、それでも声をかけてもらえたことが嘘のようだった。



 先生には、きっとこの先気にかけてもらえることなんてないと思っていたから…。




「……」

 手渡された鞄を、キュッと強く握る。背の高いその姿が、角を曲がって見えなくなるまで私はじっとそちらを見つめていた。




******



 窓から差し込む光が、朝を告げる。

 確か寝入る頃にもう外は薄く明るくなり始めていたはずだ。…ということは、数時間しか眠れていないようだ。しかも見た夢をはっきり覚えている。眠っている間も、その睡眠は深いものとは言えないようだった。



「…懐かしい夢…」

 入学当初の夢を見ていたらしい。どこか感慨にふけりそうな感情を抑えて、カーテンを開けながら私は小さくそう呟いた。




 あの頃、教師と生徒という立場でその隔たりは越えられないものだと思っていた。

 手も、声も届かない。名前だって、本当はきっとなかなか覚えてもらえないだろうと思っていた。



 だからこそ、あの低い声で苗字を呼ばれるとドキドキしたし、目の前を素通りされなかっただけでホッとした。

 …そう、あの時は、それだけで満足だとすら思えたはずだったんだ。




「……よしっ」

 今日から新学期だ。長い夏休みを終えて、新たに学校が始まる。鏡の前で制服に手早く着替え、髪をグッとアップにした。入学当初は先生に気づいてほしくて願かけのように下ろしたままだった長い髪。

 今までその名残でそのままだったけれど、私はこの時多分初めてそれを上げた。体育の時のように緩くまとめるのではなくて、固く結んでピンで留める。


 大きな鏡の前でクルリと一度回って、自分のその様子を確認した。




 部屋を出ると、ちょうど隣の部屋から出てきた祥太郎と出くわした。

「おはよ」

 短く言うと、祥太郎は驚いたように目を丸くしている。



「姉ちゃん、髪切った?」

「え?」

 眉を顰めて見つめ返すと、祥太郎もまじまじとこちらを凝視してきた。

「切ってないわよ。上げただけ」

 答えると、祥は「…あぁ、そう」と呟く。

「髪型一つで変わるもんだなぁ。別人かと思った」

「大げさだなぁ。別に家では結んだりとかしてたじゃない」

「いや、制服だとまた印象が違うっつーか…」

 階段を下り始めた私に続いて、祥太郎も階下へ下りる。その途中で、私は思わず小さく呟いてしまった。

「大体、失恋するたびに髪切るわけにいかないし」

 自嘲のような囁きを、祥は聞き逃さなかったらしい。「え?」と後ろで漏れる声を聞いた途端、私は自分が余計なことを口走ったことに気づいて「しまった」と口元を抑えた。



「何、姉ちゃん。教師の彼氏にフラれたの?」

「フラれた? ……うーん…どうかな」

 フラれたのかフッたのか…この場合は判断が難しい。別れると言ったのは私だけれど、私を置いて由香子さんのところへ走ったのは先生の方だ。




「まぁ、どっちでも同じことよ」

 祥とリビングへ一緒に入りながら、私は自分に言い聞かせるように言った。




 そう、今となってはそこは問題じゃないんだ。

 フッたとかフラれたとか…そんなことよりも、別れを選んだことが事実だから。




 だけど、いつまでも落ち込んでいるわけにはいかない。泣くだけ泣いた。落ちるところまで落ちた。

 いつかなっちゃんが言っていたっけ。落ちるところまでいけば、後は上がるだけだ。



 心機一転するように変えた髪型は、私の気合を表しているようなものだ。いつまでも同じ場所で足踏みをしないように、自分を浮上させるための…。



 そこまで思って、私はさっきまで考えていたはずのことを思い出す。



 …そう、本来なら、先生に名前を覚えてもらえて話しかけてもらえて、それだけで十分だったはず。だけど実際には、私はそれよりもかなり幸せだったと思う。

 届かないと思っていた手は届き、声には振り向いてもらえた。あの日の公園での出会いも覚えてくれていて、好きだと言ってもらえた。



 それだけで、本当なら十分だったんじゃないか。



「さて、学校行こうかな」

 手早く朝食とその後の身支度を終え、私はリビングを出る。

「あ、俺ももう出る。姉ちゃん、駅まで後ろ乗ってく?」

 いつも学校まで自転車で行く祥太郎は、同じように鞄を手にしてそう声をかけてきた。

「ううん、いい。まだ早いし歩いて行く」

「そう」

 駅までと言っても、祥の自転車の後ろに乗ったらその間に何をどれだけ質問されるか分かったもんじゃない。追求の手から逃れるべく、私はそのまま一人で先に玄関を出た。




 昨日までの私の気分とは裏腹に、外に出た瞬間に広がる空は真っ青で晴れ晴れとしていた。

「よっと」

 門を出た先の段差を飛び越えると、私はその空を見上げる。




 先生と付き合っていた数ヶ月を、なかったことにはしない。

 落ち込んでばかりもいられない。

 気合を入れた髪にもう一度触れ、私は新たな気持ちで学校への道を一歩踏み出した。






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