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Sweet&Bitter  作者: みずの
私の気持ちをあなたは知らない
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 その人は本城行禎といい、1年J組を担任する化学の教師だった。黒い短髪で顎ひげを生やしていて、180センチ後半ほどの長身から見下ろされると思わず萎縮しそうになる。入学式の時はさすがにスーツを着ていたけれど、普段はいつも白衣を翻している。


 ところ構わず煙草を吸うし口は悪いし、「不良教師」なんてあだ名がついているらしい。名取先生にも同じあだ名がつけられているらしいが、その内容と質は全く違うものだ。



 だからこそ、名取先生のクラスの女子がイケメン担任に浮かれている間、J組の生徒たちは静まり返っていたことだろう。



 そんな教師だったから、私はその後高校生活が本格的にスタートしても何の行動も起こせずにいた。ただその代わり、だからと言ってあの日抱いた自分の想いが消えうせてしまうこともなかった。



 教師と生徒で、何かが発展するとは思えない。

 ましてやあれほど他人に興味のなさそうな目をした人と。見ているだけでいい、なんて考えるには苦しすぎる想いだったけれど、積極的に何かを働きかけられるはずはなかった。






「和美は何の部活入んの?」

 入学して数日たった頃、同じクラスで仲良くなった由実にそう聞かれた。最初に友達になった茜と由実は、同じ中学出身らしい。その時から仲が良かったという2人に、私が混ざった形だった。



「…まだ、考えてなくて…えっと、茜と由実は?」

「私はバレー。茜は家庭科部だよね? 料理も裁縫も好きだし」

 2人共、きちんとやりたいことがあるらしい。私も中学の時はずっと陸上をやってきたけれど、高校でそれをやる気はなかった。


「でも確か、明日の授業後体育館で新入生向けの部活紹介あるよね?それ見て決めてもいいんじゃない?」

 ニコリと笑った茜が、私を見ながら言った。

「そうだね…」

 陸上以外には特に得意なこともやりたいこともあるわけじゃない。小さく頷いて、廊下の角を曲がろうとした………その時、だった。



「おわっ」

「きゃあっ!」

 ドン、と向こうから来た誰かにぶつかって、結構な音がした。いた、と痛みを実感してそう思った瞬間に相手が「悪ぃ」と先に謝ってくる。かなりの長身の相手にぶつかったせいでよろめいた私を、その人はグッと腕を掴んで支えてくれた。



「先生…」

「大丈夫か?悪ぃ悪ぃ」

 苦笑い気味に言って、そのぶつかった張本人である名取先生は私から手を離す。「こちらこそすみません」と言おうとした瞬間、私はその名取先生の隣の影に気づいた。更に長身の…本城先生が、私と名取先生を一瞥している。



 目が合ったのは、一瞬だけ。けれどそれを先生はすぐにフイと逸らした。

 当たり前のことだけれど、私を見ても何の反応もないかのように…。その態度に、やっぱり入学式前に一度会ったのが私だとは気づいていないんだと知った。



 ズキンと胸が軋む。

 その痛みに眉を顰めた時、名取先生が「急いでんだ、ホントに悪ぃな」ともう一度謝って先を行こうとした。そうして私から離れようとした瞬間―。



「いたい!」

「えぇっ!?」

 頭に瞬間的な痛みを感じて、私は思わず叫んでいた。それに驚いたように振り向いた名取先生と、同時に状態を把握する。私の下ろした長い髪が、先生のスーツのボタンに絡みついてしまっていたんだ。



「大丈夫?和美!」

「え、うん…大丈夫だけど…」

 由実に尋ねられて、私は頷く。…できるだけ頭は動かさないように、小さく。

「つーかこんな漫画みたいなことあんのかマジで」

 また苦笑を漏らしながら、離れかけていた体を私に向き合う形に戻して名取先生は呟いた。そして私の髪を外そうと試みるけれど、あの一瞬でどう絡まったのか「それ」はなかなか外れる気配がない。


「どーなってんだ、これ」

「…茜、ハサミ持ってる?」

 眉を顰める名取先生の前で、私は後ろに向けてそう呼びかけた。

「え…持ってるけど…」

「切っちゃってくれる? 取れそうにないし、この辺で」

 ボタンに絡みついた辺りを指差すと、名取先生が「いや、」と強めの口調で言う。

「それはダメだろ、ちょっと待ってろ」

「でも…先生急いでるんですよね…?」

「いいから黙ってろ」

 強く言われて、私は思わず言われるままに黙った。そしてそのままなかなか取れない髪と格闘する先生。その後ろにいた本城先生が、小さくため息を漏らしたのが分かった。



「…先行きますよ、名取センセイ」

 手にした出席簿で自分の首の後ろの辺りをトントンとしながら、本城先生は言う。

「え、ちょ、お前待ってろよ!薄情な奴だな!」

「何とでも」

 唇の端を持ち上げて笑ったその化学の教師は、本当に同僚を置いて白衣を翻して行ってしまった。



「……」

 自分の今の状況も忘れて、思わずその後ろ姿を見送ってしまう。遠慮のかけらもなくさっさと行ってしまうその人が、結局私の方を見ることはなかった。




 だから、思い知らされる。

 教師と生徒の距離を。手も…もしかしたらプライベートでは、声すらも届かない存在なんじゃないかと…。



 胸の痛みを抱えながらその後ろ姿を見やっていた私は、ハッと我に返ったけれど遅かった。私の髪をボタンから外す作業をしながら…名取先生は、私の目線に気づいたようだった。

「……」

 射抜くような先生の目は、全てを見透かされたかのような気がするほど。後ろにいた由実や茜にはばれなかっただろうけれど、私が傷ついた顔をしてしまっていたことにも気づいたかもしれない。




「…取れねぇな」

 だけど先生は、それについては何のコメントもせずに再び下を向いた。

「お前、どうでもいいけどこんだけ長い髪だったら結ぶかなんとかしたらどうだ」

「……すみません…」

 先生の口調は冗談まじりだったけれど思わず謝った私に、後ろから由実の助け舟が届く。

「先生も、急いでるからって廊下を小走りしちゃダメなんじゃないですか」

「……スミマセン」

 ニヤニヤと言った由実の一言に、複雑な表情をしながら答えた名取先生は次の瞬間にプッと吹き出した。そのやり取りに私も思わず口元をほころばせる。




 先生の言うことはもっともだったけれど、私はそもそも入学してからあまり髪を結ぶつもりはなかった。中学の頃はいつも束ねていたし、下ろすのは休日の時くらいだった。

 だけど高校に入ったら…願かけのようなものもあったのかもしれない。



 入学式前のあの春休みのある日…、高校裏の公園であの人に会った時は、髪を結んでいなかったから…。

 入学してからそれがここの教師だと知ってから、できるだけあの日と同じ状態でいたいと思った。髪型が変われば、分からないかもしれないから。あの日と同じように下ろしていたら、もしかしたら分かってもらえるんじゃないか…なんて。



 結果、至近距離で私を見ても本城先生は気づいた様子もなかったのだけれど。



 私の小さな願いも、届かないんだ。

 全ては無駄だった。そんなこと、分かりきっていたはずだったのに。




「おし、取れたっ」

 そんなことを考えていたうちに、やがて名取先生が満足そうに声を上げた。言葉通りボタンから髪を外してくれる。

「すみません、ありがとうございます」

 ペコリと頭を下げた私に、名取先生は小さく微笑んだ。眼鏡の奥の目が、何となくさっきまでと違う色をたたえて私を見下ろす。

「…お前、名前は?」

「? D組の…白石和美です」

「ふーん……お前あれだな、理系弱そうな顔してんな」

 いきなり何を言うのか。思わず眉を寄せて先生の顔を訝しげに見上げると、彼は笑ったままだった。



「理系苦手だったらおススメの部活あるぜ?化学部。うちの学校の化学部は優秀なんだ。苦手だったのに得意教科になったって奴、結構いるな」

「…化学部…」

「そう。顧問がスパルタだから脱落する奴も多いけどな」

 呟きながら繰り返した私は、ハッと目を瞠る。………やっぱり、さっきの一瞬で私の気持ちに気づかれたんだ。


「…ありがとうございます、考えてみます」

「おぅ」

 白衣のポケットに手を入れたまま去っていったさっきの化学教師の後ろ姿を思い出しながら、私は素直にそう言った。…恐らく…名取先生は、私の想いに気づいたって誰にもそれを話したりはしないだろうし。

 私の気持ちを、面白がっている素振りもない。不思議と、ほぼ初対面なのにどこか信用できてしまう人だった。



「えー、じゃあ私も化学部入った方がいいかなぁ。化学苦手なんだよねー」

 頭の後ろで手を組みながら、由実がふとそんなことを言う。

「お前はどう見ても『理系苦手』っていうより『運動したい』って顔してんだろ。」

「あ、分かります? バレー部に入るつもりなんですけど」

「ふーん、いいんじゃねぇ?」

 笑って答えてから、先生は私たちに手を振って「じゃーな」と職員室の方へ戻っていった。恐らくこれから会議に参加するのだろう。ただ明らかにゆっくり歩いているので、急ぐことはもう諦めたようだ。



「噂通りのイケメンだなぁ。話やすくてイイ先生っぽいよね」

「…だね」

 由実の言葉に、小さく頷く。そして先生の姿が見えなくなるまで、その方向を眺めていた。




******



「で、結局化学部に入った、と」

 4月下旬にさしかかろうとした頃、週末に私はまた美咲の家に遊びに行った。相変わらずゲームのコントローラーを手にした美咲は、私の話をそうまとめる。ゲームをしながらなのにきちんと漏らさず話を聞ける辺りは本気ですごいと思う。



「でもさぁ、和美。あの日会ったのが自分だって気づいてもらえないのが傷つくなら、自分から言っちゃえばいいじゃん」

「…そういうことで話かけられるような先生じゃないんだよ…」

 泣いているように見えたあの日、私は気づくと声をかけていた。でも今の先生は…言いようのないオーラというか威圧感というか…おいそれと話しかけられるような存在じゃない。

「それに…」

「『それに』?」

 私の言葉を繰り返した美咲に、小さくため息を漏らして返した。




 可能性の話でしかないけれど…もしかしたら、先生は私に気づいていないわけじゃないかもしれない。ただ忘れているだけ、「あの日会った女」が私だと気づかないだけ、ならまだいい。

 本当は気づいていたとしたら…?



 校内であんなに恐れられている教師だ。しかも大人の男だ。泣きそうな顔をしていたところを見てしまった私に、「もう会いたくない」と思っている可能性もある。

 そうだとしたら…私から話かけるのは先生には迷惑なだけかもしれないと思えた。




「難しいもんだね、大人の男も」

 美咲はそう言って肩を竦めたけれど、……違う。難しいのは私の気持ちの方だ。




 もう一度会いたい、そう思っていただけなはずなのに、それが叶えば欲が出る。気づいてほしいのに、気づかれるのも怖い。避けられたくないし、でも正面きって話をする勇気もない。



 そんな、矛盾した想いばかりだった。





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