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茫然と見開いた目からは、とめどなく涙が流れ続ける。ズルズルと膝から崩れ落ちて、私はそのままどれだけ泣いていただろう。訪れたのは夕方だったはずなのに、気づけば外は暗くなっていた。動けないままでいた私の鞄の中で、携帯電話が鳴っている。それを取る気になれるはずもなくしばらく放置して、私は泣き続けていた。
…今頃、先生はもう由香子さんのところに着いているのだろうか。
来なければ死ぬと言って泣いた彼女を、どんな風に慰めているのかなんて考えたくもなかった。
鞄の中の携帯電話は、私がそんな思いを抱いている間も何度か着信を受け直しながら鳴り止まなかった。
どうせ先生からの電話ではないだろうし、そうだとしても今出られる自信はない。そう思いながらとりあえず出したそれを確認すると、着信相手は祥太郎だった。恐らく、CDを取りに行っただけにしては帰りが遅いから心配しているんだろう。それでもそれに出られる余裕もなく、ただ力なく床にポトリと投げ出してしまった。
やがてやんだ、祥太郎からの電話。
だけどすぐ後に、また電話が鳴る。涙でぐちゃぐちゃになった目で視線だけを送ると、今度は違う名前が画面に浮かび上がっていた。それにわずかに目を見開いてから、私は思わず電話に手を伸ばす。
縋るような思いだったのかもしれない。
普段めったに電話をくれる相手ではないからこそ、その時何かを感じたのかもしれなかった。
「はい…」
小さめの声で出たけれど、それだけでは向こうは私の異変には気づかなかったようだった。街中にいるらしく、後ろがうるさいのも原因かもしれない。
『もしもし、和美ちゃん?』
いつも通りの明るめの声が携帯から漏れる。
『今夜、予定ある?もしなかったら今から夕飯でもどうかと思って…って、もう食べちゃったかな』
「……いえ」
『そっか。実は諒子が和美ちゃんにこの前のお礼もしたいって言ってるんだ。ついでに貴弘も呼んだし、もし仕事終わってたらユキも連れて…』
「…修司さん…っ」
『!? 和美ちゃん、どうした!?』
朗らかに話を続けていた修司さんは、一度私がその名前を呼んだ声でこちらの様子に気づいたようだった。急に態度を変えて、慌ててこちらに呼びかけ直す。
『何かあった? えっと…今どこ?』
「…先生の…」
『ユキの家!? 分かった、そこで待ってて。すぐに行くから』
それだけ言って、修司さんはこちらの返事を待たずに通話を終わらせる。
その慌しさに一瞬キョトンとしかけたけれど、すぐに来てくれるなんてまるでヒーローみたいだ、と漠然と思った。
そんなことを考えたから、また由香子さんの元へ走っていった先生の後ろ姿を思い出す。泣いて駆けつけてくれるのがヒーローなら…由香子さんにとっての先生もまさにそれだ。
「~っ」
悔しさと嫉妬と悲しみとで、グチャグチャになった感情が落ち着くことはない。涙でボロボロの顔を手の甲で拭って、私はその部屋で小さくうずくまっていた。
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1時間ほどしてここへたどり着いた修司さんは、諒子さんとなっちゃんを連れていた。心配そうな2人の後ろで、なっちゃんは不機嫌そうに顔を歪めている。
私に怒っているわけではないことは分かっていたけれど、「全部話せ、白石」と言われると思わず身を竦めるほどの迫力はあった。
いつもと違う私の様子だけで、恐らくどれだけ事態が深刻なのかを理解してくれているんだろう。
ポツリポツリと、涙のせいで途切れがちな言葉を紡ぎながら私は今日のこととこれまでのことを全部3人を前に話し始めた。
「…の野郎っ」
話を聞き終えたなっちゃんは、予想通り一番に怒ってくれた。ギリ、と唇を噛む仕草は、湧き上がる苛立ちを何とか抑えようと努力している証拠のようにも思う。諒子さんはソファで私の隣に座り、ずっと背中をさすってくれていた。修司さんは、ただ壁にもたれたまま手を口元で覆って何かを考えているようにも見える。恐らく、私を含めたこの中で一番冷静なのは彼だろうと思う。
「殴りに行く!」
「貴弘…っ」
今にも立ち上がりそうななっちゃんに、諒子さんが制止するような声をかけた。
「ユキが向かった場所も分からないでしょ?無茶言わないの」
「…っじゃあここで待って、殴り倒してやる!」
再び床に胡坐をかいてドカッと座ったなっちゃんは、その鋭い目線を今度は私に向ける。
「お前も…ユキに何とか言ってやれよ!何黙ったまま好き勝手させてんだ!」
「……」
黙っていたわけじゃない。由香子さんのところへ行くなら別れると、はっきり告げた。それでもその手を振り切って走って行ってしまったのは、先生の方だ。
そう答えたい気持ちもあったけれど、この時私は別のことを口にしていた。
「もう…無理」
あの時、先生本人に告げた言葉だ。
「これで私が何かを言って、それで先生が戻ってきたとしても…無理なの。先生が由香子さんのところに行ったのは事実で…」
膝の上で握っていた拳に、ぎゅっと力を込める。
「何もかもなかったことにして、元通りになるなんて不可能なの」
「…和美ちゃん…」
まるで自分の痛みのように、諒子さんが眉を寄せる。そんな私の様子を見て、なっちゃんはちっと舌打ちをするとガシガシと頭を掻いた。
分かってる。なっちゃんが怒ってるのは、私にじゃない。私のために怒ってくれるその気持ちは嬉しかったけれど、それでも涙が止まることはなかった。