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Sweet&Bitter  作者: みずの
夢の終演 2
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 束の間の安息は本当に一瞬のものだった。

 あの日から3日たつ前に私は由香子さんの要求を呑めるわけもなく、あっという間に事態は元へと戻っていった。今では先生の家の電話と携帯電話は相変わらず彼女からの着信で鳴り止まないらしい。3日時間をあげる、と私に言った彼女とのやり取りを知らない先生は、何もなかったその空白の3日に首を捻っていた。

 でも、それを説明する勇気はなかった。だって、彼女の要求を呑まなかったのは私だ。私が今、先生を苦しめているようなものだからだ。



「…先生、ごめんね…」

 私が別れを選べたなら、彼女の気も収まるのかもしれない。先生だって、もしかしたら少しは彼女に気持ちが揺れているかもしれないけれど…。




 それでも私は、あの日の先生の言葉を信じたかった。

 由香子さんが私に直接害を及ぼすかもしれないという可能性を考えたら、先生は自分から私と別れた方がいいのかもしれないと言った。だけどそれはできない、と、はっきり言ってくれたはずだ。

 私はその一言が嬉しかった。由香子さんから何をされようと、それだけで頑張れる気がした。



 だからこそ、私だって先生との別れは考えられない。不安に想う気持ちは今だってなくなったわけではないけれど、だ。






 先生が、あれから由香子さんからの電話を取ることは一度もなかった。全く気にしていない風にも見えるけれど、やっぱり精神的に疲れているのが分かる。それを見ていると胸がギュッと鷲づかみされるような感覚で痛んだけれど、やはり身を引く勇気は出なかった。



 電話が鳴り止まなくなってから、先生は再び私を家に招き入れなくなった。余計な心配をかけたくないからだということは分かっているけれど、あまりにも先生が由香子さんのことを一言も口にしないことが私には辛かった。

 やっぱり、何らかの言い訳でもなんでもしてほしい。

 今思っていることを全部話してほしい。そうじゃなきゃ、あの日由香子さんに会って揺れた感情を私に悟られないように押し殺しているだけなんじゃないか、なんて、変な邪推をしてしまいそうだった。





「姉ちゃん、いる?」

 夏休みも残すところ後1週間程度になった頃。ノックの音と共にドアを開けながら、弟の祥太郎が部屋に入ってきた。…返事を待たずに開けたらノックの意味もないんじゃないの。そうツッコミたかった言葉を飲み込んで、私はベッドを背もたれに座っていた態勢で顔を上げる。



「何?」

「あのさぁ、姉ちゃん前にMM/JのCD持ってたじゃん? あれ貸してほしいんだけど」

「あんたジャズなんて聴かないでしょ」

「いやそれが、2学期にある文化祭でクラスで使うんだよね。ちょうどCMで流れてるあの曲がいいって話題になったんだけど、誰も持ってなくて。頼むから貸してよ。ちゃんと傷つけずに返すからさ」

「…仕方ないなぁ…」

 立ち上がりながら、私は部屋の隅にあるオーディオラックの方へ行く。そこには今までに買ったジャズやらポップスやら、ジャンルは様々のCDが並んでいる。

 ジャズを集めるようになったのは、先生の影響だ。…まぁ買ったものより、もらったものの方が多いかもしれないけれど。



「……あ」

 手近の部分を探しながら、私はふと声を上げる。その呟きに、ドアの辺りで立ったままCDを待っている祥太郎がわずかに首を傾げた。

「…ごめん、そのCD今ここにないわ」

 最後にそのCDを見た場所を思い出して、私は苦い顔で祥太郎を振り返る。

「今度でもいいでしょ? 近いうちに渡すから」

「……彼氏の家か」

 ニヤリと笑ってそう言った祥太郎は、だけどすぐに眉を顰めた。



「困るよ。明日クラスの連中と集まって打ち合わせする約束してんだもん」

「知らないわよそんなの」

「そこを何とか! どうせ姉ちゃん今日ヒマなんだろ? 彼氏に会いがてら取ってきてよ」

 パン、と顔の前で両手を合わせて、祥太郎は私に拝むような姿勢でお願いする。昔からこうだ。祥太郎はこういう時甘え上手。しかも私が拒むわけがないのも分かった上で、だ。



「……」

 時計を見れば、まだ時刻は15時を回ったところ。

 先生は今日は学校で仕事があると言っていたから…メールで断って、取りにだけ行かせてもらおう。

「一緒に行こうか?」

「何でよ」

 からかうような祥太郎の言葉を、私は呆れたようにあしらった。

「サンキュー姉ちゃん、代わりにこの前また朝帰りしたのは父さんと母さんに黙っとくから」

「そういうことあえて言わないのっ」

 しっと口元に手を当てて苦い顔をして見せると、祥太郎は今度は声を上げて笑う。口止めなんてしなくても、祥太郎が誰かにそんな話をするような子じゃないとは分かってはいるつもりだ。



 そんな祥太郎を部屋から追い出し、私はすぐに外に出られるような格好に着替える。

 真夏の暑い中に家を出るのは嫌だったけれど、長い髪をアップにして私は少しでも涼しくなるようにし、思い切って外へ出た。




******



 電車に乗って目的の駅で降りると、そこから先生の家までは少し歩く。

 その大したことのないはずの距離もこの気温ではうんざりするほどで、真上の太陽が恨めしかった。家を出る時に先生には事情を説明するメールは送ったけれど、今のところ返事はない。仕事が忙しいのだろう。今日は1年生の補習だって言ってたっけ。




 アパートのドアの前で、勝手知ったる家のように鍵を開ける。中は外より陰がある分少し涼しい気もしたけれど、気休め程度のものでしかなかった。

 開いたドアを後ろ手に閉めて、誰もいないのに「おじゃましまーす」と呟くように言う。ヒールの高いミュールを脱いで上がると、自分の荷物置きにと一部分を空けてもらったクローゼットにまっすぐ向かった。



 服やらお泊りグッズやらを置いてある中に、目当てのCDを見つける。

 CMでも使われているほど有名なバンドで、メジャーすぎて先生と私の好みではなかった。だから、ここに置きっぱなしにしてしまっていたんだった。




 それを鞄にしまって部屋を出た途端、リビングに置いてある電話がふと目に止まった。その回線が乱暴に引き抜かれているのも。恐らく音量は最小限にしているのだろうけれど、それでも鳴り続けるそれに頭を痛めるのは容易に想像できる。

 誰かから重要な電話がかかってくることもあるかもしれないと言っていたので、帰ってきたらさすがに線を抜いておくこともできないのだろう。




「……」

 この時手を伸ばしたのは、どうしてだったんだろう。

 興味本位だったのか、それとも…。先生を少しでも助けたい、そんな自惚れた気持ちだったのか。

 ……どちらにせよ、ろくな思いじゃなかった。




 手にした回線を、電話に差し込む。抜かれた電話のコンセント自体も、壁にあるそこに差し入れた。

 途端に電源が入ったことを示すように、カチッと音を立てて表示部分がオレンジ色に点く。そして1分もたたないうちにその電話が着信を知らせるように鳴り出したので、私は思わず目を見開いた。



 電源を入れてこんなにすぐに鳴るということは…。

 あの人が、繋がらなくてもずっとかけ続けている証拠?その底知れぬ執念のようなものを垣間見た気がして、私は思わず身震いした。



 そして、次の瞬間には憤りに似た感情を抱く。震えそうな手を再び電話に伸ばした私は、少しためらいがちに今度は受話器を掴んだ。




「もしもし」

 私が出るとは思っていなかっただろう。一瞬、向こうで空気を飲む音が聞こえた気がした。

 そんな一瞬の間のあと、予想通りの女の声が「…和美ちゃん?」と呼びかけてくる。それには答えずに、私は代わりに「…何の御用ですか」と尋ねた。



『和美ちゃんに用はないの。…ユキ出して』

「いません」

『嘘言わないで!』

 可憐なあの声が、少し語尾を強める。今までのような余裕さを感じられないそれに、私は内心で首を捻った。私の知っている彼女ではないように思えたからだ。この前は、私を半ばからかうかのように余裕で話をしていたのに…。



『出しなさいよ…! ユキが、そこにいないわけないんだから』

 何を根拠に、と思ったけれど、そこでふとなっちゃんたちの以前の言葉を思い出す。

 由香子さんは…付き合っている時もなかなか合鍵をもらえなかったんだって…。強引にそれを手にした由香子さん以外の過去の彼女たちは、そもそも渡してももらえなかったとか。そうだとしたら、彼女の中では先生が私に鍵を渡すこともありえないんだ。



「…本当です。そもそも、先生がいたら私を電話に出させるわけないじゃないですか」

 彼女が珍しく感情的だからか、今日は私が冷静になれた。スーッと冷えていく頭の中で、選びながら言葉を口にする。

『………』

 私の言葉で納得せざるを得なかったのか、一瞬、由香子さんが黙りこんだ。だけどすぐに、再び不機嫌そうに口火を切った。



『和美ちゃん…私の言うこと、聞かなかったのね』

 3日だけ待つからその間に先生と別れろ、と要求されたことを言っているようだった。受話器から漏れるそんな声に、私は「…当たり前です」とはっきり告げる。

「そんな要求、呑めるわけありません。…呑む意味もないですし」

『どうしてよ!』

 声を荒げる由香子さんは、やっぱり私の知る彼女ではない気がした。何かを焦るような…追い詰められたような声だ。



『あなたなら…まだいくらでも先があるじゃない…』

 急にストンと声のトーンを落としたのは、彼女の感情の不安定さを物語っているようにも聞こえる。

『私には…もう何も残ってないのに』

 泣いているのか、声が震えているのが分かった。思わぬ展開に、私は息を詰めて耳を傾けることしかできない。



『ユキが……ううん、ユキしかもう私にはいないの。お願いだから…ユキを返して…っ』

「…っ」

 そんなこと、できるわけがない。ただ、限界に来ているような声音の彼女の言葉は、耳を突き刺すようですぐに返事ができなかった。




『……ユキに、伝えて。あなたから』

 少しクールダウンするように深呼吸をした由香子さんは、次の瞬間にそう改めて言った。言葉を返すのも忘れて、私はただ続く声を待つ。



『例の場所で、一晩待ってるって…』

 その言葉の指す場所を私は知らなかったけれど、恐らく先生なら分かるんだろう。それが何だかやけに悔しくて、私は唇をギリと噛んだ。

「…伝えるわけ…ないじゃないですか」

 それだけ何とか答えた私に、由香子さんはまた小さくため息を漏らす。

『和美ちゃん、私…もう疲れたの』

 それはこっちのセリフだ、という言葉を返しかけたけれど、続いた彼女の発言に私は思わずそれを飲み込んだ。

『一晩待って、ユキが来なかったら私はもう…』

「…『もう』?」

 嫌な予感がして、ドクンと胸が脈打った。思わず聞き返した私に、由香子さんが『来なかったら、そこで…』と言葉を継ごうとする。



 …その時、だった。




 玄関のドアが、開く音がした。

 そして覗いた、背の高いシルエット。

 思わずそちらを振り向いた私と目が合った先生は、「何だ来てたのか」と少し口元に笑みを浮かべた。メールは見ていなかったらしい。そして次の瞬間、私が受話器を持っていることと恐らく顔面蒼白なことに気づいてハッと顔を上げる。

 それから乱暴に靴を脱ぎ捨てると、一瞬で状況を把握したように急いで私から受話器を取り上げた。



 それと同時に、由香子さんの方も電話越しに状況を把握したらしい。『ユキ!?』と呼ぶ声が、受話器から私のところまで漏れ聞こえる。




『ユキ……私……っ』

 今までの由香子さんとは違う様子に、先生も一瞬で気づいたらしかった。受話器を耳に当て、声も発さないままだったけれどわずかに目を見開いた。

『もう限界なの…。あの場所で待ってるから、今すぐ来て…っ』

 スピーカー機能を使わなくても、聞こえてくる声。さっき私に託そうとした言葉を告げて、由香子さんはしゃくりあげながら泣いているようだった。



『一晩待っても来なかったら、私…』

 さっき私には最後まで言い切れなかった言葉を、今度は続ける。




『そこで、死ぬから』



 それは覚悟を秘めたような、悲痛な声だった。



 本気か嘘かなんて分からない。

 だけど、その言葉に先生は目を見開いた。

 そこで途切れる通話音。プープーという空しい音だけが響いているのに、先生は硬直したように動かなかった。



 それを見た瞬間に、言いようのない不安に襲われる。「…先生」と気づくと震えそうな声で呼びかけていた。



「先生っ」

 ハッと我に返ったように、私に腕を掴まれた先生がこちらを振り返る。取り繕うように唇の端を持ち上げようとして失敗した先生の顔を見た瞬間、私は不安と同時に嫌な予感がした。

 「まさか」という思いから、縋るようにその腕を更に強く掴む。


「先生、行かないですよね…?」

 感じた不安は、先生が私を置いて由香子さんのところへ行ってしまうんじゃないかと思ったから。それはそうだろう。「来なければ死ぬ」なんて言われて、平然と無視できるわけがない。でも…それでも、私が不安だったのは先生が行ってしまうのが、それだけが理由じゃない気がしたから。



 先生は、やっぱり由香子さんのこと…。



 私の言葉に、先生はまたわずかに目を瞠った。まっすぐに私の目を見つめ返して、こちらの真意を探ろうとしたのかもしれない。



 そしてやがて、「…白石」と静かな低めの声で私を呼んだ。

 呼ばれた瞬間に、嫌な気分が胸の中を支配する。あまりの気持ち悪さに吐き気すら覚えそうになったけれど、私は先生にしがみつくようにしてその体を揺さぶった。

「先生、行きませんよね…!?」

「白石、」

「嫌だ! 行かないで!」

 涙すら浮かんできた目で、それでも逸らさずに叫ぶ。心の底からの声に、先生はハッと顔を上げた。そして改めて私をまっすぐに見つめ返すと、やがて申し訳なさそうに目を伏せる。



 嫌だ、嫌だ、嫌だ……!!



 置いて行かないで、という言葉は、うまく声にならなかった。




 再び目を開いた先生は、私の髪に手を伸ばす。なだめるようにそれを撫でながら、非情な言葉を継いだ。

「白石、ここで待ってろ」

「どうして!」

 いやいやをする子どものように、私は力いっぱい頭を左右に振る。



「どうして、先生が行かなくちゃならないの!? どうして私を置いて行くの!? 先生は…やっぱり由香子さんが好きなの!?」

「…っそんなわけねぇだろ!」

 暴れる私を抑えつけるように、先生はぎゅっとそのまま抱きしめた。それでも抗うように、私は全身でその体を押す。

「じゃあ何で…!! 全然分かんない! 由香子さんが好きなんじゃないならどうして行くの…!」

 そんな思い出の場所に…私の知らない場所に、行ってほしくなんてなかった。



「………」

 困ったような…ううん、どこか傷ついたような複雑な表情をした先生が、再び目を伏せる。私の質問に答える気はないのか、それ以上の説明をしようとはしてくれなかった。それを見て、私は一旦全身の力を緩める。

 それに気づいた先生が、抑えるように掴んでいた私の手首から手を離した。




「……もう…分かんないことだらけ」

 ボロボロと涙を零しながら、私は小さくそう言うのがやっとだった。

「もう、無理です」

 右手の手の甲を眉間の辺りに押し付けながら、私はそう言葉を搾り出す。先生はそのまま、黙ったまま私を見つめていた。



「それでも由香子さんのところに行くなら…私はもう、無理だと思います」

 手の下で、涙が止まらない。唇を噛み締めてもそれは留まることを知らなかった。



「先生が今私を置いて行くなら、別れます」

 弾みで口にした言葉ではなかった。ポーズのつもりもなかった。ただその時、本当に限界だと思ったんだ。




 理由なんて知らない。先生の気持ちなんて分からない。

 だけど、今「目の前で」先生が私より由香子さんを選ぼうとしたことだけは事実だ。それが先生の言うように「由香子さんのことが好きなんじゃない」としたら、他に何があるというのだろう?

 私には、その事実だけで十分な重荷だった。ここで大人しく待ってなんていられるわけがない。







「……ごめん」

 やがて先生から、ポツリとそんな言葉が漏れた。頭上に降ってきたその一言に、私は目を見開いて顔を上げる。

 ポーズのつもりはなくてもこんなにあっさり切り捨てられると思っていなかった現実に、頭が真っ白になった。



 一言だけ謝った先生は、そのまま踵を返す。

 テーブルの上に置いてあった車のキーを乱暴に取り上げると、そのまま走って部屋を出て行ってしまった。



 残されたのは、茫然と立ち尽くす私と無情な沈黙。




 それと、それまでの何もかもを断ち切ってしまうかのように閉まる、ドアの音だけだった。






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