4 side:Yukisada
あの日、学校裏の公園の桜は満開だった。翌日の天気予報が雨を指していたので、花見をするならその日しかなかったと思う。元より「花見」なんて性分ではなかったけれど、何となく足をそちらに向けてしまっていた。4月頭の、新学期が始まる少し前の日だった。
『あの出来事』から丸3年、この季節が訪れれば自分の胸が痛むことは分かっていた。思い出しては軋む心に、それでも何故か俺は桜を見上げに行くのを止めることすらできない。自然と赴いてしまった足で、公園に踏み入る。ベンチに座って煙草に火を点けたが、それを口にする気にはなれなかった。
空を見上げた目が、ピンク色の花びらをも映す。吸われることのない煙草が、ジジと音をたてて短くなっていった。
泣きたいはずなのに泣くこともできなくて、俺はただそこでじっとしているしかなくて…。
知らぬ間に誰もいなかったはずの公園に一人の女が入ってきたことにすら、気づいていなかった。
『切なくなりますよね、桜って』
急に後ろから声をかけられて、俺は思わずビクリと肩を震わせた。
『……』
だけど次の瞬間にはいつも通りの冷静を装い、ゆっくりとそちらを振り返る。そこに立っていたのは、19か20歳くらいの驚くほど整った顔をした女だった。
『咲いたと思ってもすぐに散っちゃうから…』
言いながら、女は俺にハンカチを差し出そうとする。そしてその寸前に俺の顔を見て…少し驚いた顔をしてから、手を引っ込めた。どうやら、俺が泣いているとでも思ったらしい。
気恥ずかしさをごまかすように、彼女は少し苦笑いを浮かべて俺の斜め前に立った。そして先刻までの俺と同じように、頭上の桜を見上げる。
『でも私、短いからこそ桜の花が好きなんです』
今度は本当の微笑みで、舞い落ちる桜の花びらを手にすくうように掴んでみせた。そして、そのままそれを俺の方へ差し出す。
『名残惜しいからこそ…、また来年このキレイな花を見るためにも頑張ろうって思えるから』
出された花びらを無意識のうちに受け取ってしまいながら、俺は彼女の顔を見上げた。陳腐な言葉でしか表現ができなかったけれど…恐ろしいくらいに綺麗な横顔だと思った。
『俺は…嫌なことを思い出すからあまり好きじゃない』
何故なのか、自分でも分からなかった。ただ、理屈で考えるよりも早く、無意識のうちに俺は女にそんなことを口にしてしまっていた。女が、少し驚いた顔で俺を見下ろす。
ベンチに座った態勢のまま…俺はそんな彼女の顔を見つめ返すことはできなかった。
『思い出しても、いいんですよ』
不意に、目を逸らしたままの俺の頭上にそんな柔らかい声が降り注ぐ。
『人間は、忘れる生き物なんです。いつかは、その「嫌なこと」も忘れるんですよ』
『……』
手にしていた煙草がついに指を焦がしそうなくらい短くなっていることに気づいて、俺はそこで手近の灰皿にそれを押し付けた。その一連の動作を眺めながら、彼女が続ける。
『何度も思い出していくうちに…段々、「忘れられる」んです。痛みに「慣れる」と言ってもいいかもしれませんね』
…不思議な声だった。傷ついた胸に、温かさが染み渡っていくような…。
だから、思い出してもいいんです、と彼女は笑った。思い出せば思い出した分、一歩一歩、解放に近づくのだと…。
『……そんな風に、考えたこともなかったな』
気づくと少し、俺も笑えていた。
そんな話だけして別れた彼女の、名前くらいは聞いておけばよかったと後で後悔した。だけどそれもすぐに解決してしまうことになる。その数日後の高校の入学式、新入生の中にその子がいたからだ。
「……どこが19か20歳だ」
あの時彼女を見た瞬間に俺が抱いた印象に、自分で毒づく。高い背に整った顔、落ち着き払った雰囲気でとても高校生には見えなかったけれど…。制服を着た彼女は、俺の目にもようやく年相応に見えた。
その瞬間、俺はあの日の出来事は自分の胸にしまっておくことに決めた。どうせ彼女は公園で慰めた大の男のことなんて覚えていないだろうし、もし覚えていたとしてもあれが自分の学校にいる「不良教師」と呼ばれる教師だったとは思いもしないだろう。お互いのためにも、あのことは封印しておいた方がいい気がしたんだ。
『お互いのため』……?
いや……
『俺』が『俺のため』に、あの時感じた温かさと胸に咲きかけた感情を、押し殺してしまいたかっただけなんだ。
そこまで分かっていながら、俺は「それがつまりどういうことか」は考えないようにした。そこに気づくと、やっかいだと思ったからだ。『分からないなら考えろ』と言った貴弘の言葉も、聞かなかったことにして…。
******
一年前のその日、白石の言葉を受けたせいなのか…。今年の春、桜を見上げても俺の胸は痛むことはなかった。感じる季節に、4年前の『ある出来事』を思い出すところまでは例年通りだったが、だからと言って泣きたくなることもない。今年も思い出した分、この痛みから解放される日に近づいたと思えたからだ。
「全員、プリントは行き渡ったか?」
放課後の化学実験室、化学部の実験前に俺はグルリと室内を見渡した。白衣のポケットに手を突っ込み、実験器具を前にした生徒たちに確認する。
「じゃあ、各自始めてくれ」
俺の言葉を合図に、2人組になった生徒たちがカチャカチャと器具を忙しそうに動かし始めた。時折質問にくる生徒の相手をするために教壇に立ったまま、俺はそれを見下ろす。今日の実験はさほど難しくはないので時間もかからないだろう。
「白石ちゃん、こっちおいでよ」
教室の一番後ろの端、3年の鎌田が白石に声をかけているのが見えた。
「都築、委員会で遅れてくるんでしょ?それまでうちらと実験始めてよう」
鎌田は姉御肌というか…面倒見の良いタイプで、周りによく気を遣える。白石もそれが分かっているからか、「…はい」とニコリと笑って頷いた。
「……?」
また、だ。妙な違和感を覚える。
今日の朝から、どうも白石の様子がおかしい気がしていた。…と言っても、朝のHRでしか顔を見ていないからその途中は分からないが…。
元気がない…と言えばいいのだろうか。とにかく、笑っていてもいつもの笑顔ではなくて。昨日シュークリームを手渡された時はいつも通りだった気がするので、昨日の放課後にでも何かあったのだろうか?
「…白石」
自分でも考えるより早く、その名前を呼んでいた。
「…っ」
ビクリと、呼ばれた白石が肩を震わせる。やがて「はい」と小さく返事をしながら立ち上がったので、俺は「ちょっと」とこちらへ来るように促した。
ゆっくりと歩み寄ってくる白石に、隣の化学準備室を顎で示す。ついてきてその部屋へ踏み入った白石は、パタンと静かにドアを閉めた。それから、何かを堪えているかのように眉を寄せた表情で…決して俺の方は見ないようにしているのがわかった。
「お前、今日様子おかしいけど…何かあったのか?」
いつも通り煙草に火を点けながら、俺はそう尋ねる。
「……いえ」
短く答える白石に、俺は小首を傾げた。どう見ても何もないという表情ではないけれど…。
「まぁ、言いたくないんなら仕方ねぇけ……」
ど、と続けようとした俺は、ライターを胸ポケットにしまいながら再び顔を上げて、思わず言葉を飲み込んだ。目線を上げて見た白石の目から、大粒の雫が零れ落ちてきていたからだ。
「どうした?どっか痛いのか?」
自分でも珍しいほど少し焦りながら、俺はそう尋ねる。ブンブンと勢いよく首を振った白石は、「…すみませんっ」とだけ言い残すと先刻とは違うドアから廊下へと飛び出して行ってしまった。
「………」
残された俺は、しばらく茫然とそこに立ち尽くしてしまう。煙草は口からポロリと落ちかけ、慌てて火傷しないようにそれを受け止める。
「…なんだ…?」
一瞬、頭がついていかない。だけど、どうするべきか…自分がどうしたいのかはクリアに判断していた。
火を点けたばかりの煙草を灰皿に押し付け、白衣を翻して俺は勢いよく床を蹴る。廊下を走り出しながら、俺は白石の後を追った。
白石がどっちの方向に行ったのか全く見当もつかず、俺はかなり校舎内を走り回った。やがて、中庭…もう誰も来ないような場所に、ポツンと立って泣いている姿を見つける。立ち止まって、俺は見つけた安堵感から胸を撫で下ろしながら見やった。
それから、中庭に踏み出しながら声をかけようと名前を呼びかける。
「白…」
「白石!」
俺の声をかき消すほどの大声で、反対方向から白石にかかった声があった。驚いてそちらを見やると、向こうの校舎の方から彼女に走りよる影が見える。委員会で部活に遅れてくると言っていた…都築だった。
そして瞬時に思い出す、昨日の菅原の言葉。
『その白石さんて子、都築のこと好きなんだろーね』
『カムフラージュに使われたんだね、ユッキー』
ザワザワと、胸を何かが騒ぎ立てる予感がする。泣いている白石を見つけて慌てて駆け寄った都築が、慰めるようにその頭を優しく撫でているのが見えた。そして俺の時とは違い、白石も都築の前から逃げ出そうとはしない。
「………」
ズキ、と、俺の中のどこかが痛む。
それ以上見ていたい光景であるはずもなく、俺は白衣を翻して校舎の中へと戻った。