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Sweet&Bitter  作者: みずの
番外編「ryoko」
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「とりあえず…入って。中で話そう」

 そう言って歩き出した私は、マンションの入り口のドアを押した。だけど数歩進んでも、後ろから修司がついてくる気配はない。そんな後方を振り返ると、修司が黙って立ち尽くしたままこちらを見つめていた。



「…修司…?」

「ん?」

「…入らないの?」

 尋ねた私に、あいつは小さく苦笑を浮かべる。そのどこか傷ついたような顔に、私は自分がどれだけ重大な言葉を口にしたのか今更気づいた。



「…今日は…帰るよ。冷静に聞けそうにない」

 後ろ手に持っていた鞄を持ち直しながら、修司は踵を返す。

「それ、いらなかったら捨てて」

 私の手の中に残したケーキの箱を指して、悲しそうな笑みを浮かべたままそう言った。



「修…」

「おやすみ」

 背を向けて歩いて行ってしまうその後ろ姿を、私が見送ったのはきっと初めてだった。だって、私はいつも修司の前を歩いていたから。年も上で社会人としても先輩で、私は後ろを振り向くことなく今まで走り続けてきた。振り向かなかったのは、修司がちゃんとすぐ後ろにいてくれていることが分かっていたからだ。きっと、あのいつもの人好きのする笑みを浮かべて…。




 弾みで別れを口にしたわけじゃなかった。でも私は、もう自分の言葉を後悔している。

 自分の言葉に自分で傷ついて…、修司の背中を追うことすらできなかった。




 戻った部屋は、真っ暗だった。

 一人暮らしなのだからそんなのはいつものことなのに、何故か今日は闇が深い気さえする。電気も点けず、暗い中を記憶通りにテーブルまでたどり着いた。そこで手にしていたケーキの箱を開けると、私の好きなショートケーキの白さが闇に映える。




「…甘…」

 指で掬った生クリームを一口舐めると、口内に広がった甘い香りと共に何故か一筋の涙が零れ落ちた。




******



 今までの私なら、プライベートで何があろうがそれを仕事に影響させることはなかった。でも今回ばかりはそうもいかず…何せ、仕事に対する姿勢も後輩や部下に否定されたところだったから。

 だからその翌日は、自分でも珍しいと思うほど「使い物」にならなかった。売り場に出ている時はともかく、事務所に下がった時には思わずといった感じにぼんやりしてしまう。



「ど、どうしたんですかね店長」

 前田さんが熊野さんに驚いたようにそう尋ねているのが頭の片隅のどこかに聞こえてくる。

「た、確かに…ちょっとおかしいよね」

 熊野さんも思わずどもりながら、そう返事をしていた。



 2人の会話をぼんやりと耳にしながらも椅子に座ったまま空を見つめていると、やがて頭を何か固いもので叩かれる。ポン、なんてかわいいものじゃない音をたてたそれに驚いて「いた!」と声を上げると、そこにいたもう一人の後輩が意地悪く笑っていた。



「諒子さん、ぼーっとするならもっと隅っこ行ってくださいよ」

 しっし、と手で追いやる振りをしてみせながらそう言ったのは、この店の副店長を努める寺島美佳だ。私の一つ後輩で、仕事に関しては何でも相談できる、一番信用している人物だ。



 ファイルの束で叩かれた頭を「痛いなぁ」と撫でながら、私はそれでも言われるまま椅子を隅に移動させる。空いたスペースに書類を広げながら仕事を始めた美佳を眺めて、私はまたぼんやりと呟いてしまう。

「隅っこ行けって…ぼーっとすることは怒らないのね」

「諒子さんはたまにはぼーっとするくらいじゃないとダメだと思いますよ」

 ファイルに視線を落としたまま、美佳はそう平然と言ってのけた。



「何かありました? 悩みがあるなら彼氏さんのところのジャズバーに行ってきたらどうです? 諒子さん前から、ストレス溜まった時はジャズ聴くと落ち着くって言ってたでしょ?」

「……その彼氏とちょっと…」

「…あらら、珍しいですね」

 心底意外そうな顔をして、美佳は小さく苦笑する。だけどそれ以上は気を遣ってくれたらしく、言葉を継ぐことはなかった。





 修司からあの後、連絡が入ることはなかった。元々こちらが切り出した別れだし、もうこのまま終わってしまうのかもしれないと漠然と思う。そう諦める気持ちがないわけじゃなかったけれど…でも、終わる時はこんな風にあっさり終わってしまうのかと思うとなんだか悲しかった。

 メールをするのも電話をかけるのも、無視された時のことを考えると実際に行動に移せない。今まで思うように行動してきた私にしては珍しく保守的だと思うと、自分でもため息が漏れた。



 …でも、こうしてばかりもいられない。

 このまま別れるにしろ別れないにしろ、自分の気持ちは全部話すべきだと思うから。その機会を作るために、私は直接会いに行くのが自分にとっても一番良い方法だと思った。顔を見ずにメールや電話で済ませるには、話が深刻すぎるはずだ。




「…ねぇ、今日また18時にあがってもいいかな…」

 早上がりしたいなんて私が口にしたことが初めてだったので、美佳は少し驚いたように目を見開いた。だけど、すぐにニッコリ微笑んで見せる。

「どうぞ?たまにはいいんじゃないですか。今日の諒子さんじゃいなくても影響なさそうだし」

「…う…っ、ごめん…」

 嫌味でなくて気を遣わせないように言ってくれたのだろうけれど、私は恐縮して身を縮めた。それを見てもう一度笑ってから、美佳は仕事に戻る。



 私は決意を新たに、18時までの後数時間をせめて真面目に仕事しようとようやく重い腰を上げた。




******



 修司がバーテンダーをしているジャズバーに、私は一度も訪れたことがなかった。…いや、正確に言うと大学時代は何度も来たことがある。私が所属していたジャズサークルのメンバーの行きつけの場所だったし、確かに居心地の良いバーではあったから。



 だけど修司がここでバーテンダーという夜の仕事を始めてからは、一度も来たことがない。ささやかな抵抗と、小さな反発心からだったのかもしれない。




 記憶にある通りの場所に店はたたずんでいて、地下への急な階段を降りるとシックなドアがある。重いそれを押し開くと、それと同時に流れてくるジャズのメロディーと、酒と煙草の匂い。仕事帰りの修司と同じ匂いがして、それだけで私は何となく胸がズキンと痛む気がした。



「いらっしゃいませ」

 修司より少し若そうな店員さんが、ニコリと微笑んで挨拶してくれる。それにペコリと会釈を返して、私は周囲を見渡した。仕事中に来たことなんて初めてだから…驚くだろうか。怒られないといいのだけれど、なんて思っていたけれど、肝心の修司がいない。



「…あの…」

 近くにいたその店員に尋ねようとした時、カウンターの方から「あれ!?」という声が聞こえてきた。

「諒子ちゃんだろ? 修司の彼女の!」

 気のいいマスターが、髭をさすりながらニコニコとこちらを見ていた。



「ご無沙汰しています…覚えてくださってたんですか」

 大学を卒業してからだから、もう6年くらいはここに来ていないというのに…。

「もちろん覚えてるよ」

 ニッコリ笑ったマスターは、確かにこちらの記憶にあるとおりの笑顔だ。

「今日はどうしたの? あ、ちょうど今日はカルテットのライブがあるから良かったら…」

 言いかけたマスターの言葉に曖昧に笑みを返して、私はもう一度周囲を見渡す。勧められたカウンターの一席に座りながら、鞄を置いてから再びマスターを見上げた。



「…あの…今日、修司は…」

「……え?」

 尋ねた瞬間、マスターの表情がフッとそれまでと変わったのが分かった。

 一瞬困惑したような…そんな顔。



「…?あの…」

「もしかして…聞いてないのかな…」

 台に手をつき、もう片方の手で顎をさするマスターは、少し言いにくそうに眉を寄せる。…ただ、嘘はつけないと判断したのか次の瞬間にはフッと息を吐いた。



「修司なら…辞めたよ、昨日」

「え……!?」

 続けられた言葉はあまりにも予想外で、私は大きく目を見開く。思わず失った声は空気に飲まれ、発することはできなかった。



 そんなこと一言も聞いてない…とか、様々な思いが駆け巡る。でも、聞かなかったのはきっと自分。

 昨日だって何かを言いかけた修司の話を遮ってまで別れを告げたのは私の方だ。




 …頭が、真っ白になりそうだった。

 マスターも気遣わしげに私を見つめていたけれど、かけるべき言葉が見つからないのかそれ以上は何も言わなかった。



 代わりに、私の後方…店内に入ってきた新たな客に「よぉ」と声をかける。それにつられるようにそちらを何気なく振り返った私は、思わず目を瞠った。



 そこにいたのは、座ったこの態勢からだと首を仰向けないと顔が見えないほどの長身。

「何やってんだ、諒子」

「…ユキ!?」

 驚いて声を上げた私に、ユキは隣にものすごい美人を連れて、小首を傾げていた。







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