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Sweet&Bitter  作者: みずの
夢の終演
74/152

14 side:Yukisada


「ユキ、まだあの子に最後まで手を出してないんでしょう」







『あの可憐な顔からそんな下世話なセリフが出てくるんだ』

 どこか感心したような不思議な声で、携帯電話の向こうで修司が言った。



 ノートパソコンの前で胡坐をかいていた俺は、電話を持ち直しながら首を竦める。もちろんその仕草は修司に見えるはずもなく、あいつは続けた。

『で、結局話はついたわけ?由香子さんに会って』

「…いや、全く」

 小さく返して、俺はため息を漏らした。



 それからふと、自分の後方にある寝室を振り返る。時刻は午前1時を回ったところだった。仕事があると言った俺より先に白石がベッドに入ったのが一時間ほど前だから、もう寝ているだろうとは思う。だが念のために、立ち上がるとベランダへの大きなガラス窓を開けた。



 真夏でも真夜中にもなると、幾分か涼しい。加えてその日は少し風の強い日で、ベランダへ出た瞬間に冷ためのそれが頬を撫でていく。後ろ手にそのガラス戸を閉めながら、俺はもう一度息を吐いた。





 あの日由香子に半ば脅されて会いに行った時、結局何の話もつかなかった。俺は今まで由香子のことを「病んでる」と思っていたけれど…どうやらそれはあながち間違えてもいないように思う。恐ろしいほどのまっすぐさと思い込みは、何をどう言っても聞き入れてくれそうにはなかった。



『つまり由香子さんは…まだユキが自分のこと好きだと思ってるんだ?』

 酒でも飲みながら話しているんだろう。修司の方からそんな言葉と共にグラスの中で氷が音を立てるのが聞こえた。

「…みたいだな」

 由香子からしたら…4年前のあの時、別れを突きつけられたのは「俺」の方で。嫌で別れたわけじゃないから、きっと再会すればその時の感情を思い出すはずだと思ったようだった。




「ユキは…あの子と付き合い始めた責任感から、自分が本気であの子のことを好きだと思い込んでるのよ」




 会った時にそう言った由香子の言葉を、思い出す。それを言いながら小さく舌打ちをした時、修司が少しだけおかしそうに笑った。

『責任感で付き合って好きだと思い込んでる相手なら……手を出さずに理性総動員させるまでする必要ないよなぁ』

 揶揄するような声は、それでもどこか感心しているようにも聞こえる。バカにされているわけではないことは分かるから、俺は「ふん」と鼻であしらうだけで留めておいた。



『で、実際問題、何でまだそんな理性的に堪えてるわけ?手出して和美ちゃんに嫌われるのが怖い?』

「……まさか」

『だよね』

 電話の向こうで、修司が苦笑いを浮かべたのが分かった。



『…もしかして、教師と生徒じゃなくなるまで手出さないつもり?』

「………」

 沈黙をどう取ったのか、修司は「…ふーん」と何か納得したように勝手に相槌を打った。





 …何も「高校卒業するまで」とか、「教師じゃなくなるまで」とか、期間を定めて義理立てているわけじゃない。

 ただ…「今じゃない」と思うだけだ。




 たとえばこの先何かあった時、俺は別にいい。一応どうとでも責任は取れる年だから。ただ、あいつはそうはいかない。26にもなる俺が「きっとこの先、他に好きな相手なんてできないだろう」と予感するのとは違い、高校生のあいつにはまだ無限の可能性がある。

 もし向こうに気持ちがなくなって別れが来たとして、他の男を好きになったとしたら…?



 そう考えると、いつか後悔するようなことは「今」させたくなかった。




『深い愛情だけど…随分とらしくないなぁ』

 口にはしないこちらのそんな思いを読み取ったのか、修司がそう言う。

『和美ちゃんにとっても、この先好きになれるのはユキだけだと思うけど』

 それは、きっと白石もそう言うだろう。だけど俺が言いたいのは、そういう今の「感情」の問題ではなくて。現実としての「可能性」の話だ。



『俺なら和美ちゃんみたいな彼女が目の前にいたら耐えられそうにないけど』

と笑って言うと、修司は少しそこで声のトーンを落として続ける。

『で、結局由香子さんの方はどうだった?会って少しくらい懐かしさと一緒に何か感じた?』

「…そんなわけねぇだろ」

 由香子が何と言おうと、あいつの顔を見た時、俺の胸には何の感情も沸かなかった。好きだった気持ちを思い出すなんてこともなく、懐かしさを感じることすらなく。むしろ、嫌悪と憎悪のような負の感情も抱かなかったことの方が自分では意外だったくらいだ。



 ただ、わずかに感じたのは欠片ほどの「畏怖」。過去への執着から人間はここまでできるのかと思うと、少し恐ろしくなったのは事実だった。



 …そう、由香子と会って俺は確信したことがある。あいつは何も、俺のことを今でも好きなわけじゃない。ただ自分が記憶をなくしていた空白の時間を埋めたくて…過去に執着しているだけだ。そうしないと、自分の犯した「罪」を認めてその重さに苛むだけだからだ。




『和美ちゃんにそれをちゃんと言えばいいのに。多分、その辺気にしてるんじゃない?ユキが、由香子さんに会って揺れちゃうんじゃないかって』

「聞かれてもないのにこっちからか?…おかしいだろ」

『……おかしいか』

「おかしい」

 はっきり言い切って、俺はベランダの壁に背を預けた。



 大体それじゃ、やましいことがあるのを先手を打って言い訳しているようにしか聞こえないだろう。特に白石は、そういう性格だ。

「今のあいつには何を言っても無駄だ」

 由香子に何を言っても無駄なように、白石も同じだ。恐らく俺がどんなに白石のことだけが好きだと言っても、由香子の影が周りでチラつく限りその不安は拭えないだろう。

 それは、俺を信用してないからとかじゃなく…。

 人間なんてそんなものだから、仕方がない。言葉なんてものはいつだって陳腐で正にも負にも受け取りやすい。



『損な性分だねぇ、ユキ』

 また苦笑いを浮かべたような声で、修司は小さくそう言った。




「ところでお前、何か用があって電話してきたんじゃねぇのか?」

 かけてきたと思ったら由香子やら何やらの近況を一番に聞いてきたので、電話の用件を聞けずにいた。そう話を戻すと、修司は瞬間黙り込んだ。

 でもそれは刹那のことで、すぐにいつも通りの明るめの声を出す。

『いや、一人で酒飲んでたから誰かと話したかっただけ』

 そうは言うけれど、その一瞬の沈黙を俺は見逃さなかった。



「何だよ、何かあったんじゃねぇのか?」

 重ねて聞くと、修司は向こう側で再び黙り込む。少し考えたような間の後、「うーん」と何かを渋るような声を出した。

『…やっぱり、今日はいいや。また今度聞いてもらうよ』

「……あぁ」

 修司がこういうことを言うこと自体が、珍しい。普段はあまり自分の話はしないし、何か悩みがあっても大体自分の中で消化してしまう。だから恐らく何かがあったことは事実なのだろうけれど、今は言える段階ではないということなんだろう。

 それが分かったから、俺もあえてそれ以上の追及はしなかった。




 それから2,3の他愛ない話をして、どちらからともなく通話を終わらせる。その携帯電話を閉じる時に、そういえば今日は由香子からの電話攻撃がないなとふと思った。

 今日、白石に会いに来たと言っていたから…それで気がすんだとか…? 不意に浮かんだそんな考えに、「まさかな」と自嘲に似た笑みを浮かべると、俺は部屋の中へと戻った。



 ローテーブルの上に残された、パソコンと書類の束。やらなければいけないことは山積みで、今はその方がありがたい気もした。今日は静かな携帯をテーブルの上に置くと、俺はため息まじりに再び仕事の山に向き直った。




******



 その日のうちに終えたい仕事がひと段落したのは、午前3時を回る頃だった。パソコンの前で大きく伸びをして、不意に手元の携帯電話に視線を落とす。結局、今まで真夜中だろうがなんだろうがお構いなしだった由香子からの着信はその日一度もなかった。



 昨日俺と結論の出ない話をしただけで、引くとは思えない。白石と直接話して気が済んだとはもっと思えない。何となく嫌な予感が胸をよぎったけれど、俺はそれをごまかすように頭をガシガシと掻いた。できるだけ考えないようにして、パソコンの電源を落とすとゆっくりと立ち上がる。



 そのままソファで寝てしまおうかとも思った。恐らく自分のためにはその方がまだいい。だけどそれでは、きっと朝起きた時白石がまた余計な勘違いと思い込みをするだろう。それが分かっていたから、寝室のドアを静かに開いた。




 広めのベッドの片側をきちんと空けて、仰向けに眠る姿。ため息をつきたい心境にかられながら、修司のさっきの一言を思い出しては舌打ちしたくなる。


 …とっくに、俺だってこれ以上耐えるのは限界に近いっていうのに……。


 好きな女を前にして何とも思わない男がいるなら、目の前に引きずり出してきてほしいくらいだ。




 せめて、この暑さの中汗すらかかずに静かに眠る白石の髪に、手を伸ばしかけた。だけどその一動を許してしまえば自分の中で箍が外れる気がする。引っ込めた手を吐息まじりに引き寄せながら、俺はそのままベッドの空いたスペースに滑り込むと背を向けた。




 余計なことを考える前に、寝てしまえばいい。どうせ平穏だったのは今日くらいで、またすぐに由香子からの電話に悩まされる日は来るに違いないんだ。



 今のうちに安眠を貪ることにして、俺は大きな欠伸を一つ漏らした。






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