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Sweet&Bitter  作者: みずの
夢の終演
73/152

13


『3日だけ和美ちゃんに考える時間をあげる。その間は私もユキに電話したりするのはやめるわ』


 最後にそう言った由香子さんの言葉は、どこか遠くで響いた気がした。まるで、自分には関係のない他人事のような声。半ば真っ白になりかけていた頭のどこかで、そんな言葉を聞いた。




 ショックだったのは…先生に嘘をつかれたからじゃなかった。きっと何か理由があったと思いたかったし、そう信じたい気持ちがあったから。

 ただ彼女に言われた言葉の一つ一つに、どこか身に覚えのある事実は確かにあった。そのことの方が、私にはショックだったんだ。




 そして何より、初めて会った「由香子さん」を前にして払拭しきれない思いがあった。

 初対面の彼女は、私じゃなければ女の人ですら見惚れてしまうに違いないほど魅力的で…。いつか修司さんが言っていた、『男なら誰でも守ってあげたくなるようなタイプ』という言葉が納得できた。

 こんなにかわいらしい人に再会して、先生は昔の感情を欠片も思い出さなかっただろうか。…それは、無理なんじゃないだろうか。会わずにいた今までならともかく…彼女を前にしたら、また私に出会う前の感情が蘇ってもおかしくはないんだ。



 そう実感させられる。全ては結局、私自身の自信のなさに起因している嫉妬に似た感情だったのだろうけれど。






「…っ、何だお前、びっくりさせんな」

 膝を抱えてうずくまっていた私の頭上に、明るい照明の光とそんな声が同時に降ってきた。



 先生の家のリビングで膝に顔を埋めていた私は、そこでようやく目線を上げる。「おかえりなさい」という声は、どこか白々しく響いたように自分でも思えた。




 まさか私が来ているとは思っていなかったらしい先生は、それでもすぐに持ち直したように「ただいま」と苦笑いしながら部屋に入ってくる。

「何やってたんだ、電気ぐらい点けりゃいいのに」

 そう言って奥の部屋に鞄を投げ置く姿を見つめながらも、言葉を返す気にはなれなかった。



「…なんかあったのか」

 そんな私の様子に、先生がようやく真顔でこちらを振り返る。

 8月の暑い部屋に扇風機すらつけずに座っていた私の異常さに気づいたのか、ネクタイを緩めながらエアコンの電源を入れる。

「白石?」

 顔を覗きこまれて、私はゆるりとそちらを見上げる。その見据えるような目に少し瞬きを繰り返した先生は、ローテーブルを挟んで私の正面に座った。胡坐をかくような態勢で座り、ネクタイを取りながら首を捻る。



「…先生」

「何」

「今日泊まっていい?」

 一番聞きたいことを避けてそう尋ねると、先生は少し意外そうに眉を上げた。核心を逸らした質問だと気づいたんだろう。



「また両親は夜勤と出張か?」

「ううん、今日は家にいます。でも智子の家に泊まるって言っちゃった」

「……俺の許可取る前に決めてんじゃねぇか」

 おかしそうに苦笑する先生は、それからふっと表情を緩めた。

「いいけど…俺今日家で仕事しなきゃなんねぇから、あんまり構ってやれねぇぞ」

 先生の言葉に、私は軽く頷く。最近ただでさえ忙しそうだから、持ち帰った分も多いのは事実だろう。



「じゃあとりあえず飯食いに行くか」

 立ち上がりながら、先生は奥の部屋へ向かう。歩きながらまたこちらを振り返った。

「あーでもこの時間だと、さすがにお前は夕飯食ったか」

「…いいえ、まだです」

「そうか。じゃあ何か食いたいもの…」

「先生」

 続きかけた言葉を、低めの呼びかけで遮る。少しトーンダウンした私の声に、先生は足を止めて体ごとこちらを振り返った。



「どうして嘘ついたの?」

「……?」

 言った瞬間、先生の表情が変わったのが分かる。

 だけどそれは「まずい」とか「バレた」とか気まずそうな顔じゃなくて…。ただ、何のことを言われているのか分からないように眉間に皺を寄せていた。



「昨日、電話に出なかった理由…」

 途切れ途切れの声で言うと、先生はようやく目を瞠る。その場に立ち尽くしたまま、ただ私を見下ろしていた。

「着信に気づかなかったって…言いましたよね?」

「………」

「…由香子さんに…聞きました。先生が私からの電話に気づいてたけど出なかったって…」

「会ったのか!?」

 そこでようやく言葉を返した先生が、珍しく声を荒げる。すぐ傍に膝をついて、ぐっと私の肩を掴んだ。



「……今日、学校まで来ました。私と話がしたいって…」

「何を……」

「先生と別れてほしい、って」

「っ……」

「どうして嘘ついたの!?どうして電話に出なかったの!?どうして…っ」



 そもそも、どうして彼女に会ったりしたの?




 最後の問いは、言う前に涙が零れて口にはできなかった。






「…悪かった」

 私の肩を掴んでいた手を緩めながら、先生は小さくそう言う。伏せ目がちに目線を逸らして、代わりに自分の手で拳を固く握りこんだ。



「余計な心配かけるだろうから、本当のことを言わない方がいいと思った」

「……」

「電話に出なかったのも、由香子を説得するのに時間がかかってたからだ。…ごめん」

 言って先生は、「でも」と言葉を続ける。

「…本当に、お前に言い訳しなきゃいけないようなことは何もないんだ。由香子がお前に言ったことも全部…気にすんな。考えなくていい」

 先生が、私の首に腕を回した。ぎゅっとそのまま抱きしめられながら、私は開いたままの目から涙が流れ続けるのを感じる。




 先生の、言いたいことは分かる。

 嘘をついたのも電話に出なかったのも、きっと私のため。本当のことを知ったら不安になると分かってるから…そうしてくれたんだろうってことも。




 でも、それならどうしてあの人に会いに行ったのか。



 会った瞬間、本当に欠片ほどもあの人の笑顔に懐かしさやそれ以上の感情を想起しなかったのか。




 きっと私は、この時泣いて怒鳴ってでもそこを問い詰めれば良かったんだ。そうすれば…先生の腕の温かさも、その愛情すらも微塵も疑わずに信じられたかもしれないのに…。





 だけど先生をそれ以上困らせたくなかったから……ううん、ただ私は嫌われたくなかったから。






 この時私は、全てを理解して全てを許したフリをして「イイ子」になってしまった。






 それが後悔してもやり直すことのできない、重大な過ちだと気づいてはいなかったんだ。




******



 その後は互いに、夕飯を食べている間も家に戻って話をしている間も「彼女」のことは話題に出さなかった。


 無理をしてでもお互い普通を装っていたけれど、不思議と私はだからと言って帰る気にはならなかった。こういう時だからこそ…一緒にいないと全てダメになる気がしたからだ。気まずさから逃げていたら、このまま終わる気がしたのかもしれない。




「明日ケイコがライブやるらしい。お前も見に行くか?」

 先生がそう言ったのは、仕事があるという先生より一足先に私が寝ようとした時だった。

「メグミたちも見に行くらしいんだけど、お前連れて来いってうるさくてよ」

「行きます」

 笑って答えたその時の表情は、それまでよりはぎこちなさは減っていたはずだ。先生も微かに笑って返して、「おやすみ」と言うと私の頭にポンと大きな手を乗せた。



「おやすみなさい」

 そう答えると、先生はそのまま部屋を出て行く。リビングのローテーブルにノートパソコンと書類を広げていたから、そこで仕事をするんだろう。それを見送ってから、私はベッドの中に入る。先生がいつ戻ってきてもいいように手前側を半分空けておいたけれど、それがやけにベッドの広さを感じさせて寂しくなった。




「…寝よ」

 眠れば、少しはすっきりするかもしれない。こんなに卑屈で嫉妬深いのも、寝不足で機嫌が良くないせいかもしれない。自分の奥に渦巻く感情をそんな単純なものだと言い聞かせるようにしながら、私は布団にもぐりこんだ。







 結局、いつ寝付けたのか記憶はなかった。ただ真夜中に一度目が覚めた時、隣に先生はまだいなかった。リビングの方から明かりが漏れていることと、キーボードを叩く音がするのでまだ仕事をしているようだ。




 薄暗い中時計を確認すると、夜中の3時を回る頃だった。こんなに遅くまで仕事をする先生が少し心配になったけれど、その瞬間、向こう側で微かにパソコンの電源が落ちる音がする。

 ようやく作業を終えてこちらに戻ってくるのではないかと思って、私は慌てて目を閉じた。…別に、この時寝たフリをする必要はなかったはずなのに。




 しばらくしてから、やはり部屋のドアが静かに開いた。先生がほとんど物音も立てずにこちらに歩み寄ってくる気配を感じる。

「………」

 寝たフリをしてしまったことからか、何となく緊張で胸がドクドクと高鳴った。




 ベッドが少しだけ軋む音がして、先生が隣に入ってきたのが分かる。その間も私は仰向けになったまま微動だにせず、目を閉じていた。



 動けないまま、どれほど固まっていただろう。長いその重い空気の後、恐る恐る目を開く。

 伺うように先生のいる方に視線を移すと、その私の目に映ったのは横になった先生の広い背中だった。



「…っ」

 思わず泣きそうになった声を押し殺したのは、由香子さんの言葉から生まれた言いようのない不安感が瞬時にぶり返したからだ。どうしてだろう。先生の後ろ姿を見た途端に、何故か空気が遮断された気がしたんだ。

 壁のような何かを、そこに感じたのかもしれなかった。

 こんなに近くにいるのに、どうしてだろう、すごく遠く感じられる。




 寝たフリをしたのは私の方。

 だけど、それでも寝ている私に言い訳でも何でもしてくれればまだ何かを信じられたかもしれないのに…。



 自分勝手だと分かっているけれど、そんな気持ちが胸中でどす黒く渦巻いているのが分かった。






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