8 side:Yukisada
貴弘を押しのけるようにして、靖子さんは部屋に入ってきた。外で話をしても近所の迷惑になるだけだし、由香子がいないならその方が都合がいい。そう思って貴弘も俺もそれに反対はせず、ただリビングへと戻った。
「…久しぶりね」
靖子さんは、どちらかというと由香子とは正反対の、男っぽい風貌と性格をしていた。短くなった髪が余計にそれを演出している。昔から落ち着いた大人な人だと思っていたけれど、数年ぶりに会えばそれは更に色濃くなっていた。
「…あなただったんですね、映画館で声をかけてきたのは」
今やっと繋がった、白石から聞いた話。俺が白石の彼氏かどうか確かめたという長身のボブカットの女。誰かなんて見当もつかなかったけれど、今なら分かる。
「ごめんね、彼女に声かけちゃって」
言葉とは裏腹に、彼女は悪びれた様子もなくそう言った。勧める前にソファに座り、俺と貴弘を交互に見比べる。
「でもこれでも由香子をなだめたんだから、感謝して」
「……?由香子は…今…?」
「誰かさんに怒鳴られたせいで家で泣いてるわ」
チラリと貴弘を見て彼女は言ったが、貴弘の方は関係ないと言わんばかりにそっぽを向いた。それに小さく苦笑いしてから、靖子さんは再び俺を見据える。
「由香子の話をしてもいいかしら、ユキくん」
「……そのつもりで来たんでしょう」
「…あら、数年たってかわいげがなくなったみたいね」
今度は声をたてて笑って、靖子さんは目を細めた。そしてそれから、話し出す。何かを思い出すように…低めの声で。
「由香子がどうして急に連絡してきたのか…びっくりしたでしょう」
「………」
俺は特に答えず、ただ彼女の言葉の続きを待った。
「今から3ヶ月くらい前かしら…急に…由香子の記憶が戻ったの」
「!……っ」
思わず息を飲んだ俺の肩を、貴弘がグッと掴んだ。何を聞かされてもその重みと衝撃に耐えられるように、だと思う。
「元々由香子の事故による記憶障害は一時的なものだろうって言われてたから…不思議なことじゃないでしょ」
私としては遅かったくらいだわ、と続けて、彼女は少しだけ唇を歪めた。
「記憶を戻してからの由香子は、荒れ放題よ。当然よね、だって好きだった人と別れて、別の男と結婚してるんだもの」
「…それはあの女の勝手だろうが…っ!!」
俺より先に、貴弘が食らいつく。それを一瞥して聞き流しながら、靖子さんは肩を竦めてみせた。
「ユキくんの記憶だけをなくした由香子は、自分はあの男の人のことが好きなんだと信じきって結婚したの。それが、ユキくんの存在を思い出したのよ?矛盾に病んでもおかしくないわ。眠ってる間に婚姻届を出されたようなものだもの」
「だからそれは…っ」
「黙って聞いて」
尚も抗議しようとした貴弘の言葉を、靖子さんは片手を挙げて制した。
「由香子は、すぐに彼と離婚したわ。ユキくん、あなたのことが忘れられないから」
「………」
「でも、さすがにそれは由香子の身勝手。私だってさすがにたしなめたわよ。でも、この前久しぶりに本城先生のお宅に遊びに行った時…由香子はやっぱりあなたのことを諦められないと思ったみたい」
「………」
「その数日後かしら、気分転換に由香子を映画に誘ったわ。…まさかそこで、あなたと彼女に会うとは思わなかったけれど」
足を組み直して、靖子さんは苦い顔をしながら続けた。
「由香子はすぐにあなたに声をかけようとした。だから、私が止めたの。代わりにあなたと一緒にいたのが本当に今の恋人かどうか確かめた。随分若い子みたいだったし、彼女じゃないってこともあるかもしれなかったから」
だけど彼女には随分怪しまれちゃった、と笑って、靖子さんは短い髪を指に絡めてクルクルと回す。
「その日は由香子を無理矢理連れて帰ったけど…余計に火がついたみたいね。それから、ひどいでしょう?由香子の電話」
「……知ってんなら、それも止めたらどうだよ…っ」
「もちろん何度も止めてるわよ。でも無理。由香子、完全に病んでるもの」
貴弘の言葉を何でもないことのように受け流して、あっさりと彼女はそう言った。
「あんたそれでも親友かよ?友達だったら何とかしろよ…!」
「だから、何とかしようとしたわよ。でも無理なの。由香子、何言っても聞かないもの。か弱そうに見えて実は頑固なところあるし、それに何より結局は私は由香子が一番かわいいから」
「……」
「だからね、ユキくん」
一度言葉を切って、彼女は改めて俺を見る。まっすぐなその目は冗談ではなく、本気で真剣な色を宿していた。
「彼女と別れて、由香子のところに戻ってくれない?」
「!?」
「あんた…っ!」
言葉をなくしかけた貴弘の声を無視して、靖子さんはまっすぐ俺を見つめていた。その目に、嘘なんてない。本気で彼女は言っているようだった。
「…ありえません」
はっきりと、そう言い切る。俺が由香子とやり直すなんて考えられない。
ましてや、白石と別れてまで。
「そう言うとは思ってたけど」
クスッと笑って、靖子さんは立ち上がった。
「言いたい放題言ってごめんね。それくらい由香子が本気ってこと、話しておきたくて」
「…無駄だって、伝えてもらえませんか」
「伝えてもいいけど、由香子を余計に炊きつけるだけだと思うわよ」
揶揄するような言葉に、俺は小さく舌打ちをする。
「大人しい女ほど、本気になったら何をするか分からないわよね」
「……」
「私も由香子が暴走しかけたら止めるつもりだけど…あなたも十分気をつけてね」
言いながら片手を後ろ手に振って、靖子さんは玄関へと向かう。
「和美ちゃんが傷つかないように、ね」
「!?」
「何で白石の名前…!」
背筋をぞっとさせた俺の隣で、貴弘が喚きかけた。それを手で制して、靖子さんは苦笑いを浮かべる。どこか複雑そうなその笑みに、悟った。
この人は、本気で由香子を止める気はないはずだ、と。
それだけ…親友である由香子を想っているんだろう。
それが間違った友情だとしても。
「じゃあね、ユキくん」
ヒラヒラと手を振る靖子さんは、静かにドアを開けて夜の闇に消えて行った。




