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Sweet&Bitter  作者: みずの
夢の終演
63/152


「…おかしい…」

 夏休みも8月に入った頃、私は教室で呟いた。今日は化学の補習がある日だ。成績で強制的に参加しなくてはいけない由実に付き合って、智子と茜も自主的に補習に参加しに来ていた。

 私は言わずもがな、元から出席する意志満々だった。



「何がおかしいって?」

 補習の昼休憩中に、由実が私の言葉に反応して首を傾げた。それを受けて、私は眉を寄せて腕組みをする。広げたお弁当はちっとも食べ進んでいない。



「先生の様子が…ここのところおかしいんだよね」

「ユキサダ?」

 目を丸くして、由実はおにぎりの残り一口分を口に放り込んだ。

「何がどうおかしいの?」

 茜も私の隣で尋ねてくる。



「なんか…うまく言えないんだけどね…」

 教室の隅っこだから、すぐ近くには他の生徒はいない。それを確認してから私は言葉を継いだ。

「ここ数日…なんかやけに優しい気がするんだよね」

「………はぁ?」

 私は至って真面目なのに、由実と智子が思い切り呆れたような顔をした。



「前なんてメールも電話も向こうからはなかったのに、ここ数日毎晩電話くれるし」

「…はぁ」

「私がこうしたいああしたいって言ったことは、大体聞いてくれるし」

「………なんだ、ただのノロケか」

「ち、違うよ!ノロケじゃなくて私は真剣に…」

「はいはい、ユキサダが和美に甘いのなんて前からじゃん」

 あしらうように言って、由実は「ごちそうさま」と両手を合わせた。



 確かに、前から私の希望はかなり聞いてくれると思う。だけどそういう時、先生は必ず「文句を言いながら」ということが多かった気がする。この前の映画の時だって、結局はホラー映画にしてくれたけれどその前に随分反対してたし…。



「でもそうだとしたら、噂とは逆だね」

 不意に智子が、由実と私の会話にそう言って割って入った。

「噂?」

 小首を傾げて、私は智子の方を向く。



「うん、さっきF組の子たちが言ってたんだよね。ユキサダここ数日機嫌悪いって」

「…え…?」

「うちらA組は今日から補習だけど、学年の後半クラスは3日前からだったじゃん?その間機嫌が悪かった…っていうか体調悪そうだったみたい」

「そう……なの…?」

 ここ3日ほど、確かに先生の方が補習が始まるから会ってなかった。でも電話では元気そうだったし、いつも通りだと思ったのだけれど…。



「体調悪いのかな…先生」

「うーん…でも和美が気づいてないなら、F組の子たちの気のせいかもねー」

 そう締めくくった智子の言葉に重なるように、チャイムが鳴る。午後の補習が始まる合図を示すそれに、私たちは自分の席へと戻った。




******



 午後の補習の間先生をマジマジと観察してしまったのは仕方がないと思う。それでもいつもと違う風は一切見受けられなかった。顔色だって悪くはないし、体調が悪そうには見えない。

 またコンタクトの洗浄を忘れたのか眼鏡をかけていたけれど、その奥の目にも体調の悪さは感じなかった。



「……うーん…」

 F組の子たちの気のせい…だと思いたい。だけど何となく放っておくこともできなくて、私は補習を終えてすぐにある部屋へ向かった。



「ここに来るの久しぶりだなぁ」

 前は頻繁に訪れていたのに最近来ることがなかったドアの前に立って、私は上のプレートを見上げる。『数学準備室』の文字を目に止めてから、軽くそのドアをノックした。


「はい」

 低めの声が返ってきて、私は「失礼しまーす」と言いながらドアを引く。中にいたなっちゃんは丁度何かの書類を書いていたところらしく、「何だお前か」と顔を上げて言った。

「仕事、忙しい?」

「いや、今は大丈夫」

 答えてなっちゃんは、私に近くの椅子を手振りで勧める。なっちゃんのすぐ斜め前のその椅子に座りながら、私は手にしていたチョコレートの袋を差し出した。

「食べる?」

「何しに来たんだ、お前」

 苦笑いしながら、なっちゃんは袋に手を伸ばす。個包装されたものを一つ摘み上げてから、「サンキュー」と呟いた。



「ねぇなっちゃん」

 包み紙を取ってチョコレートを口に放り入れるなっちゃんを前に、私は話を切り出す。「ん?」と短く聞き返してから、なっちゃんは私を見つめ返した。



「先生のことなんだけど…」

「ユキ?」

 軽く頷いて返す。黙ったなっちゃんは私の言葉の続きを待った。



「F組の子たちが、最近様子がおかしいって言ってるみたいなんだけど…なっちゃんもそう思う?」

「…は?誰の?」

「だから、本城先生の」

 目をわずかに丸くしたなっちゃんが、眼鏡越しに私をまじまじと見つめる。何となく居心地が悪くて小さく首を捻ると、なっちゃんは小さく肩を竦めた。

「いや、何も気になんねぇけどな…大体、お前はどう思うんだよ」

「私は…全く気づかなかったんだけど…」

「だったらそいつらの気のせいじゃねぇか?俺とお前が気づかなくてそいつらが気づくなんて考えにくいし」

「…そう…だよね…」

 確かに私はともかく、鋭いなっちゃんが気づかないはずはないと思う。大体先生とは長い付き合いだし、大抵のことはお見通しだろう。



 でも……。



 納得しきれない顔で眉を寄せているのが分かったんだろう。なっちゃんが小さく息をついたのが分かった。

「んじゃあ、こういうのはボーっとしてるように見えて意外に鋭い人間に聞いてみようぜ。それが一番手っ取り早いだろ」

「…え?」

 聞き返したちょうどその時、タイミングよく部屋のドアがノックされた。

 どうやらなっちゃんはこの時間に約束があったらしい。なっちゃんが「どうぞ」と返事をすると静かにドアが開かれる。



「失礼します」

 そこにいてこちらに入ってきたのは、美術の苑崎先生だった。年は30代半ば…といっても全然そんな風には見えないんだけど…で、どこかの不良教師2人とは違って生徒に大人気の先生だ。

 なっちゃんのクラスの副担任を務める苑崎先生は、今日も何らかの書類を持ってきたようだった。

「名取先生、これお願いします」

 そう言いながら差し出したそれを受け取って、なっちゃんは「どうも」と短く応じた。そしてそれから、「苑崎先生」と呼び止める。

「ちょっとお聞きしたいんですけど」

「はい?」

 なっちゃんに呼びかけられて、苑崎先生は少しだけ眉を持ち上げた。口元に手を当てて小首を傾げるようにして、振り返る。



「ここんとこ、ユキの様子が変だと思います?」

「…え?」

 苑崎先生が、聞き返しながら一瞬チラリとこちらに目線をやった。そしてそれから、なっちゃんがあえて私の前で話しているんだと分かったからかその目線を逸らす。再びなっちゃんの方に向き直りながら答えた。



「様子が変…というよりは、大分お疲れみたいですけど」

「……え?」

 尋ねた張本人のなっちゃんも、まさか苑崎先生からそんな言葉が返ってくるとは思っていなかったようだ。私も同じように目を見開き、苑崎先生を見つめた。




 確かに苑崎先生は、口数の多い先生ではないけれどその分洞察力がありそうで…。教師の中では本城先生ともそれなりに仲良くしているみたいだし、異変に気づけても不思議じゃない。


 それでも…私もなっちゃんも気づかなかったのに…?




 ただ確実に、F組の子たちだけでなく苑崎先生までもがそう口にしたことで、私に少しの動揺が生まれたのは事実だった。




******



 その日の帰り、私は家に戻らずまっすぐに先生の家へと向かった。


 電話やメールじゃ分からない。先生の異変は会って話をしないと気づけそうになかった。

 もし本当に体調が悪かったり疲れているなら、そうっとしておいた方がいいのかもしれないけれど、気になって仕方がなかったので、私はいつもの駅で電車を降りてそのままアパートへ向かった。



 先生は今日は補習だけだと言っていたから、きっとそんなに帰りは遅くならないはず。

 合鍵を貰った時に一応いつ来てもいいと言ってもらっているので、そこは甘えることにした。着いたら、勝手に来てしまったことを連絡しておこう。そう思って私は、辿り着いたアパートでいつものドアに鍵を差し込んだ。




「………」

 ドアを開いて、一番に私は目を見開くことになる。数日前に来たばかりのその部屋は、見間違いかと思うくらいに物が散乱していた。

 泥棒に荒らされた…とか、そんなんじゃない。ただ生活している人が乱雑に物を扱っているような…そんな感じ。



 一人暮らしの男の人なら、多少物が散らかっていても不思議には思わない。でも先生は、マメだなと思うくらい今まで部屋がキレイだった。

 だから、意外だったんだ。




「………」

 ベッドの上と床に散乱した服を、拾い上げる。

 着た形跡もないのできれいに畳んでクローゼットに戻した。





 一体、どうしたんだろう…。朝用意に手間取って急いで出ていった…というわけでもないみたいだった。たった一日でこれほどひどくなるとも思えないから…。



 リビングのテーブルの上に出しっぱなしのビールの缶と、煙草の灰が残された灰皿。

 それらも片付けようかと手を伸ばしかけた時、床に置いてあった何かに躓いた。

「い、たた…」

 小指をぶつけてしまって一瞬言葉が出ないほどの痛みが走り、涙目になる。そうして躓いた何かを見下ろすと、そこにあったのは分厚い雑誌だった。



「……え…」

 それは、書店で売っている賃貸物件の雑誌。どうしてそれがこんなところにあるのか…瞬時には分からずに、私は目を瞠った。



「……」

 パラとめくると、ところどころ先生がやったのだろう折り目がついている。それはどれも、ここからかなり離れた場所にあるマンションやアパートの間取り図だった。



 ドクン、と、胸が高鳴る。鼓動は緊張よりも、嫌な予感を感じ取って震えた。




「…っ」

 手にした雑誌を思わず取り落としそうになったその時…、玄関でガチャリと音がした。先生が帰ってきたんだ。メールすらし忘れていたことに今頃気づいて、私は思わず息を飲んだ。







 鍵を開けて入ってきた先生は、玄関にある私の靴と、リビングに座り込んでいた私自身を見つけて大きく目を見開く。それから、何でもないようにいつもの無表情に戻った。

「なんだ、来てたのか」

 靴を脱いで入ってきながら、そう言う。迷惑そうでも嫌そうでもない表情を浮かべてから、先生は少しだけ苦笑いを漏らした。



「悪ぃな、今部屋散らかってんだろ」

「…珍しいですね」

 何と言っていいかわからなかったので、曖昧に言葉を返す。そうしてリビングへやってきた先生は、私が手にした雑誌を見て一瞬硬直した。

「……」

 だけどすぐに、態度を戻す。さすがにそれを私が見逃すはずはなかった。




「……先生…引越しするの…?」

「ん?」

 知らないフリをしようかとも思った。一瞬とはいえ硬直したということは、聞かれたくないかもしれないと…。でも黙っていて不安を生むのも嫌だったので、そう尋ねる。先生は小さく首を捻ってソファに座ると、「来い」と言うように私に手招きした。



「ここじゃ学校近いからな、この辺に住んでる生徒も多いだろ。お前が来るならもうちょっと遠い、知り合いのいねぇような場所の方がいいんじゃねぇかと思って」

「……それだけ?」

「あと、そろそろピアノ買おうかと思ってる。ここじゃ置けねぇし」

「……」

「それに、再来月アパートの更新料払わなきゃなんねぇし」

 隣に私を座らせながら、先生は言った。それらが積み重なって、ちょうど良いタイミングなんだと…。



 そう言われたら、私は何も言えなかった。

 それ以上問い詰めたら、先生が手の届かない遠いどこかへ行ってしまいそうな予感がしたから。





 そう、この時私の胸中は、嫌な予感だけが占めていた。先生の態度にどこか違和感を抱かざるを得なかった。



 その異変は、恐らく今朝までの私なら気づかない微かなものだった。でもF組の子たちや苑崎先生の言葉があったからこそ、気づけたんだと思う。





 そう思うと…何となく理解できる。

 なっちゃんや私が気づかなかった先生の異変に、同級生や苑崎先生が気づいたわけじゃなかったということを。





 本城先生の方が…私やなっちゃんに気づかれないようにしていたんだ。






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