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Sweet&Bitter  作者: みずの
降っても晴れても。
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2 side:Yukisada

「あれぇ?」

 妙に間延びした声が、不意に頭上に降ってきた。どれくらいの間ボーっとしていたのか定かではなかったが、その声でようやく俺は我に返る。ペンを手にしたまま意識を飛ばしてしまっていたらしい。

「いるじゃん、ユッキー。ノックしても返事ないんだもん」

 化学準備室に入ってきたことにも気づかなかった生徒が、いつの間にかすぐ傍までやって来ていた。

 3年の菅原だ。下の名前まではいちいち興味がなくて覚えていない。


「なんだ、何か用か」

 持っていたペンを放り出し、俺はぐっと伸びをした。そこでようやく時計を振り返ると、時刻は記憶にある時から10分ほど経過していた。

「別に、用はないよ。ユッキーに会いに来ただけ」

「……」

 ニッと笑って言う菅原に、俺は特に言葉も返さなかった。その代わり、目線も返さない。振り向きもせずに机の上の書類に再び目を落とし、菅原が出て行くか次の言葉を紡ぐのを待った。


 大体、この前からどうしてこいつが俺につきまとうのかが理解できない。去年までは、担任だったわけでもないしそれほど話す機会だってなかった。こいつが3年になって急につきまとってくるようになった。



「あれ?ユッキー、このリボン…」

 菅原の方は俺のリアクションにくじける様子もなく、平然と話を変える。その声につられて顔を上げた俺の前で、机の上にあった赤いリボンを指に絡めとって見せた。

 今日の午前中、調理実習を終えた白石からもらったシュークリームにつけてあったリボンだった。

「2年の白石さん、からのでしょ?」

「……」

 何でそんなことまで分かるんだ、と一瞬驚いたけれど、顔には出さずに済んだはずだ。菅原は少し勝ち誇ったように笑むと、手近の椅子を手繰り寄せてから断りもなしに足を組んで座る。その横柄な態度を注意する気力もなく黙然と見やると、菅原は指からリボンをハラリと落とした。


「さっきうちのクラスの都築がさぁ、白石さんって子からこれと同じリボンしたシュークリームもらったって言ってたんだよねぇ」

 都築とは、菅原と同じ3年で、俺が担当する化学部の生徒だ。実験で2人組を作る時には大体白石は都築と組むことになるので、シュークリームを渡したとしても不思議な関係ではない。

「私知らないんだけどさぁ、白石さんって超美人な子なんでしょ?」

「…さぁ。人の好みによるだろ」

「え、じゃあユッキーは?私と白石さんどっちが好みっ?」

「……さぁ」

 軽く小首を傾げてはぐらかすと、菅原は「ずるーい」と訳の分からない抗議を返す。それを無視して、俺は再び目線を机の書類に戻した。

 そんな俺から質問の答えは得られないと思ったのか、菅原は肩を竦めてわざとらしく吐息を漏らす。それから、「でもさぁ」と懲りずに話を改めてきた。



「白石さんって子、都築のことが好きなんだろうね」

「……は?」

 思わず、一拍分は余裕で返事が遅れた自覚がある。面食らったように顔を上げると、俺はさっきまで目を逸らそうとしていたはずの菅原の顔を正面から見つめ返してしまっていた。

「だってさぁ、普通好きじゃなきゃこんなのあげないよ。皆好きな人にあげたがるって」

 当たり前でしょ、と付け足して、菅原は俺を「そんなこともわかんないの」と少しだけ馬鹿にしたように見やる。

「都築にあげたいけど、バレるのも怖いからユッキーにもあげて、化学部でお世話になってる2人にあげた…みたいな風を装いたかったんじゃない?」

 推測するというよりは確信めいた響きをのせて、菅原の声が俺の耳に届く。

「……」

 無言のまま、俺は視線を菅原から机の上のリボンへと移した。それを目に留めた瞬間、あの時の白石の顔が脳裏をよぎる。



「ユッキー、かわいそうにー。カムフラージュに使われたんだねぇ」

 手を伸ばした菅原が、母親が子どもにするかのように俺の頭を撫でるフリをした。それを無意識のうちに避け気味になりながら、俺は「…お前」と小さく呼びかける。

「用がないなら帰れよ」

「用ならユッキーとお話することでしょー」

「そういうのを『用がない』って言うんだ」

 あしらうように言って煙草に火をつけようとしてから、俺は自分の胸がさっきよりも少し早鐘を打っていることに気がついた。それは…嫌な話を聞いた時に得る、少しの緊張感と焦燥感に似ている。そしてその後に来る…いいようのない不快感と苛立ち。


「ぶーっ」

 わざとらしく頬を膨らませて拗ねる菅原は、それでも帰る気配を見せなかった。だがさすがの菅原も、次の瞬間には重い腰を上げざるを得なくなった。俺の胸ポケットで、携帯電話が鳴ったのがわかったからだ。

「…はい」

 立ち上がりながらそれに応じると、菅原は遠慮をしたようにようやく椅子から立ち上がる。バイバイ、と言うように手を振るあいつに片手だけを挙げて答えて、俺は窓の方へ向かいながら意識を電話の方へと集中した。



『お、ユキ?』

 今日ばかりはこいつの電話で助かった。あぁ、と小さく答えながら返事を待つと、電話の向こうで貴弘は「良かった」と安堵の息を漏らしているようだった。

『まだ学校だろ?頼みがあるんだけどよ』

「頼み?」

『職員室の机の上に、重要書類を忘れてきちまってさぁ』

「……」

『お願い』

「……今どこだよ」

『家』

「………」

 大きくため息をついてから、俺は「…30分で着く」と静かに告げた。




******



 はっきり言って、貴弘の忘れたものは職員室の机の上にポンと置いておいていいような書類ではなかった。だからこそ回収しないとと思ったのもあるんだろう。あいつの希望通りそれを鞄にしまって、俺はすぐに学校を出た。

 裏門の方にある教師専用の駐車場から車を出し、走り出す。学校から貴弘の自宅まではそれほど距離はないので、宣言した通りの時間でも余裕で着きそうだった。



 しがない高校教師には不似合いな雰囲気の高級マンションのエントランスで、覚えてしまっている部屋番号を呼び出す。

『はい』

 貴弘のものではない女の声が対応して、「…俺だ」と短く返事をした。もちろんカメラもついているんだろう。女の後ろで貴弘が「おぅ」と答える声がする。それに一瞬遅れて、傍の重厚なガラス扉が左右に開いた。



 そこを抜けてエレベーターに乗り込み、5階で止まったそれを降りる。ある一室の前まで行って、面倒くさいと思いながらもエントランスから続いて本日2度目のインターホンを押した。

「はーい」

 いやに明るい声に出迎えられ、ドアが勢いよく開けられる。

「久しぶりですね、ユキ先輩」

 ドアを押し開きながら、その女…名取理沙はニッコリと笑った。俺と貴弘の大学時代からの後輩で、今は貴弘の妻だ。結婚する前からよく知っているため、俺は今でもこいつのことを旧姓の「拓巳」で呼んでいる。



「貴弘は?」

「いますよー、どうぞ」

 書類を届けに来ただけだから上がるつもりもなかったけれど、拓巳の雰囲気から断っても無駄だろうと悟った。促されるままに玄関で靴を脱ぎ、リビングへと通される。そしてその先には、この家の主がデカイ態度でソファに座っていた。


「おぅ、ご苦労さん」

 ニッと笑って言う貴弘の頭に、持ってきた書類をバスっと叩きつける。

「他に言うことはねぇのか」

「…ありがとう」

 観念したのか急に殊勝になって頭を下げる貴弘に、「はじめからそう言え」と言いながら俺は向かいのソファに座った。鞄をソファの横に置いた時に、素早く拓巳がキッチンから運んできたコーヒーを差し出す。…こういうところの回転の早さは相変わらずだ。



 俺の目の前で、貴弘は受け取った袋を開けて中身を確認していた。そしてそれを何度か見やった後、「ユキ」と呼びかけながら立ち上がる。

「すぐにパソコンに入力しなきゃいけないやつがあるからやってくる。ちょっと待っててくれよ」

 言われて、俺は目線だけを上げてあいつを見つめ返した。出されたコーヒーを一口飲んでから、小さく首を捻る。


「長居するつもりはねぇから、すぐに帰る。気にせず仕事して来い」

「えぇっ先輩、ご飯くらい食べて行ってくださいよっ」

 俺の言葉に、貴弘ではなく拓巳の方が驚いて声を上げた。

「…俺にお前の作った飯を食えってのか」

「何言ってるんですかっ、大学時代だって食べてたじゃないですか」

「…貧乏学生って時々すげぇよな、何でも食える気がする」

「どういう意味っ?」

 怒りながら笑うという器用な表情を見せつつ、拓巳は俺に向けて拳を振り上げるフリをする。そんな俺たちのやり取りを笑って眺めてから、貴弘はリビングを出て行った。



 …さて、これで結局足止めを食らうことは決定したらしい。


 どうせ何か用事があったわけでもないし、早く帰ったところで一人になれば思い出すのは嫌なことだろう。胸を掠めたあの時の不快感が蘇りかけて、俺はそれを苦いコーヒーで飲み下した。



 そんな俺の表情から、勘の鋭い拓巳は何かを読み取ったのだろうか。さっきまで貴弘が座っていた辺りに腰を落ち着けながら、「ユキ先輩は」と呼びかけてきた。

「最近、どうなんですか?新しい彼女できました?」

「……いや」

「じゃあ好きな人は?」

「まったく」

「なぁんだ」

 いきなりな話題を振っておいて、「なぁんだ」はどうなんだ。眉を寄せて、俺は拓巳を睨みつける。それでも動じる様子もなく、拓巳は同じようにコーヒーを啜ってみせた。



「ちょっと色恋を感じさせる憂い顔だったから、悩みでもあるのかと思ったのに」

「…どんな顔だ、そりゃ」

 肩を竦めて、俺は苦笑いを漏らす。

 胸を占めていたのは「不快感」であって、「恋愛」とはほど遠いというのに…。



 でも、そうだ…。

 さといこいつだったら、この言いようのない不快感の理由がわかるだろうか。貴弘に聞いても答えは出たかもしれないが、あいつにだけは聞きたくないという妙なプライドがあった。




「…イライラするんだ」

 ポツリと呟いた俺に、拓巳は少しだけ目を瞠った。

「この前から」

 続けた言葉に、あいつはまだ返事をしない。俺の話が一つ区切りつくまで、口を挟まないつもりらしい。


「理由はわかんねぇ。けど…」

「『けど』?」

 拓巳が、そこで初めて俺の言葉を復唱する。すると何故か、自然とため息が零れた。



 始まりは…そう、あいつが…白石が貴弘のことを色々と聞いてきた時だ。その後貴弘にも「イライラしてる」と指摘されたから…間違いない。

 そして、その後白石と話をして…互いの誤解が解けた時には少しホッとしたのも覚えている。だけどそれもつかの間、さっきの菅原の一言で…また振り出しだ。不快感と共に募る苛立ちは、留まることを知らない。



「………」

 かいつまんで話すと、拓巳はこの上ないくらいに間の抜けた顔で呆けていた。女だというのに口も半開きになっていて、「おい」と俺は思わず注意を促す。

「何だその顔」

 言うと、拓巳は今の自分のひどい顔に気づいたらしく、慌てて表情を整えて居ずまいを正した。それから、呆れたように俺に一言言う。

「重症ですね、先輩」

「……何がだ」

「いえ、分からないならいいんです」

 この前の貴弘と同じようなセリフを言い、拓巳はそれ以上は何かを説明しようとはしなかった。

「ま、それだけ分かってれば大丈夫です。そのうち収まりますよ、そのイライラ」

 根拠のないとしか思えない言葉を、無責任に口にする。




「ところで、先輩」

 答えを提示するという選択肢は拓巳にはないらしく、話を変えるかのように呼びかけてきた。手にしていたカップをテーブルの上に戻しながら顔を上げると、拓巳はニッと笑ってみせる。イイ年をして、相変わらず子どもみたいな表情だ。

「せっかく来たんだから、一曲弾いてってくださいよ」

 リビングの端を指差しながら、拓巳は俺にそう促した。



 そこにあるのは、一台のピアノだった。

 グランドピアノではなくアップライトピアノだが、質は結構良い方だと思う。手入れもされているらしく、埃一つなく磨かれていた。

 ピアノの為に部屋を防音にしたことも知っていたが、貴弘も拓巳もそれほど弾けるわけではない。持ち主に満足に弾いてもらえることがなかなかない可哀想なピアノだったからか、俺は気づくと促されるままにソファから立ち上がっていた。



 蓋を開き、椅子を引く。鍵盤を触るのは、どれくらいぶりだろう。



「リクエストは?」

「先輩が私の結婚パーティーで弾いてくれたやつ」

 ニッコリ笑って、拓巳はそう言う。記憶の糸を手繰り寄せるまでもなく、俺はその曲を思い出した。



 ジャズの、スタンダードナンバーだ。



 弾き始めると、拓巳が普段より少し高めの声でピアノに合わせて鼻歌まじりに歌い始めた。ピアノの旋律を邪魔しない程度の、控えめな歌声だった。



 テーマを終え、アドリブに入ると拓巳も歌をやめてこちらに聴き入る。重すぎず軽すぎず、滑らかな鍵盤を弾くのは久々なのに感触を体が覚えていた。コードをなぞる左手に合わせて、右手で「早技」と言われるアドリブを披露する。

 何コーラス分かを弾き終えて一曲終わると、拓巳と共にいつの間にかいたらしい貴弘が拍手をして寄越した。

「さすが、うちの大学のジャズ研実力者」

 からかうような貴弘の声に、俺は答えずにそっとピアノの蓋を閉める。



「私、この曲が一番好きだなぁ」

 未だ夢から覚めやらぬようなうっとりとした表情で、拓巳はソファにもたれかかってそう言った。

「歌詞がいいんですよねー。『降っても晴れても君を愛そう、ずっと一緒にいよう』みたいな」

 …極端な意訳だな、と思ったが、あえてツッコミはしなかった。ソファに戻ると、拓巳が新しいコーヒーを淹れ直しながら続ける。

「先輩は、今そういう風に思える人…いないんですか?」

「…?」

 眉を寄せて、俺は拓巳を見据えた。それが聞きたいが為に、こいつは俺にこの曲を弾かせたのだろうか?



「あいにく、そこまでロマンチストじゃないんだ」

「そうですか?男の人は意外に女よりロマンチストですよ」

 からかうように言うと、拓巳は話をそれきりにして立ち上がった。夕飯の用意でもするのだろう、カウンターキッチンの向こう側に消える。



「…何が言いたいんだ、あいつ」

 顔を顰めてそれを見送ると、貴弘が苦笑いを寄越してきた。そのままこちらへ近寄ってきて、さっきまでと同じように俺の向かい側に座る。

「前に俺も言っただろう、『分からないなら考えろ』ってことだ」

「…は?」

「……お前をそこまで頑なにさせるのは何なんだ?教師と生徒だからっていうモラルか?」

「何言ってるんだ、お前」

 本気で眉をひそめると、貴弘は今度は苦笑いを消してため息を漏らした。それから小さく、首を横に振る。

「誰にも本気になったことのない奴が本気になるとやっかいだな、って話だ」

 貴弘の言葉はますます意味がわからず、俺はただ顔を歪めて首を捻るしかなかった。






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