10
翌日目が覚めたのは、枕元に置いてあった携帯が低い振動を伝えたからだった。「うーん…」と寝ぼけたまま手を伸ばし、相手を確認すると由実だった。
「もしもし…」
いつもよりテンションもトーンも低い声で出ると、電話の向こうから少し呆れたようなため息が聞こえた。
『まだ寝てたん?』
言われて初めて室内の時計に目をやると、確かにもう「朝」というには日が高く昇りすぎていた。
「…どうしたの?」
段々と覚醒してくる頭で、私は髪をかき上げながら尋ねる。ベッドの上に上体を起こし、声のトーンは落としたまま。
『今からちょっと出てこれる?』
電話の向こうの由実が、私にそう聞き返してきた。
「どこに?」
『智子の家まで』
「どうかしたの?」
質問の応酬を互いに繰り広げて、私は首を捻る。智子の家まで…というのは、どういうことだろう。
『実はさ、詳しくは後で話すけど…智子がユキサダの家に行きたいんだって』
「…えぇっ?何で?」
『なんか色々と責任感じてるらしいよ。今回の和美とユキサダの一件に』
「……そんなの…気にしなくていいのに」
『まぁとにかく、本人の気に済むようにさせてやってよ。謝りに行くって言ってるから』
「先生はそんなのいいって言うと思うけど」
『まぁまぁ、和美はユキサダに会う日が一日でも増えたと思って喜んでればいいよ』
「…そう言われましても…」
『で?何時に出てこれる?』
こちらの言い分はまるで聞く気がないらしい。あっさりと話を引き戻して、由実はそう聞いてきた。
「…何時、というか…」
声を潜めたまま、私はチラリとベッドの隣に目をやる。そこで先生は、タオルケットに包まって静かに眠ったままだった。
「私、今先生の家にいるんだけど」
『なにぃぃぃ!?』
あまりの由実の大声に、私は思わず携帯電話を耳から離した。それでもその声は響いていたのか、電話を通り越して先生の耳にも届いたようだ。ゆっくりと目を開け、まだ覚醒しきらない瞳をこちらに向ける。「ごめんなさい」と目線で謝って、私はベッドから抜け出た。
『じゃあ、今から行くから!智子と茜と!』
「…いや、ちょっと待ってこっちの話を…」
『智子んちからユキサダのとこなら15分もあれば着くから。じゃあね』
「…ゆ……切られた」
一方的に切られた通話。手にした携帯電話を恨めしげに見つめると、後ろから先生が「…誰」とベッドの上で目を閉じたまま聞いてきた。
「由実です。今から皆で来るって」
「…どこに?」
「ここに?」
小さく首を傾げながら答えると、寝転んだままこちらに目線をやった先生は訝しげにその目を細める。
「何しに」
「…さぁ」
謝りに、とここで私が言っても先生は拒否するだけだろう。また由実に電話して押し問答したりここへ来た時に追い返すのも面倒だ。仕方なくとぼけて返して、私は急いで15分以内に準備することにした。
「……」
先生も諦めたのか、ベッドに上半身を起こす。寝起きの頭を掻きながら、ベッド近くのテーブルに置いてあった眼鏡をかけた。
「ったく、朝っぱらから…」
「先生、もうすぐお昼みたいですよ」
苦笑い気味に言うと、先生は部屋の時計を振り仰ぐ。そして時間を確かめると小さく肩を竦めて部屋を出て行った。
私もクローゼットの中にある引き出しを一段開けて、自分の服を取り出す。前に泊めてもらった時に、服やら何やらを一式置いていかせてもらっていて良かった。昨日のワンピースとは違うラフなシャツとジーンズを取り出して、パジャマ代わりに着ていたキャミソールを脱ぐ。
「コーヒーぐらい飲む時間あんだろうな」
リビングの方から、先生の声がする。
「15分で着くって言ってました」
「…最悪」
先生が普段から家をキレイにしているから、改めて掃除をする必要がないのがせめてもの救いだ。身支度だけでも15分はあっという間で。超高速で支度を終えた頃、予告通りにチャイムが鳴らされた。
「おはよー、和美。ついでにユキサダ」
「…ついでか」
元気良く挨拶して、由実は遠慮なく靴を脱ぐ。煙草に火を点けながら、先生は小さく応じた。
「お邪魔しまーす」
朗らかに言いながら、由実はリビングに入ってくる。その後ろに着いてくる茜が、私に大きな袋を渡してきた。
「朝ごはん。まだ食べてないんでしょ?残りものだけど」
「ありがとう!うわぁ、おいしそうなサンドイッチー。どうしたの?」
「今日智子の家に泊まったから、朝起きて皆で作ったの」
言って茜も部屋へ入りながら、先生に「おはようございます」と丁寧に挨拶する。茜はああ言ったけれど、恐らくこれを作ったのはほとんど茜だろうと思う。
「…あれ?ねぇ、智子は?」
「え?いない?」
2人の後に智子がついてこないのを不自然に思って、私は尋ねた。その声に振り向いた由実と茜が、「あれ?ホントだ」と首を傾げる。
「智子ー?…うわっ」
どうしたのかと玄関の外を覗くと、ドアを開いた辺りにちょこんと智子が小さくなって立ち尽くしていた。
「どうしたの、入らないの?」
聞くと、智子は合わせる顔がないという風に目線を逸らす。
「私…やっぱりちょっと…」
「いいから、とりあえず入ろうよ」
よっぽど責任を感じているらしい智子に思わず苦笑して、私はその手を引いた。
中に入ると、先生が由実に催促されてコーヒーを淹れていた。それを手伝おうとしてキッチンに入る私についてきて、智子は先生の前に立つ。
「…本城」
「なんだ。『先生』をつけろ」
ギリギリなんとか数のあったマグカップを出しながら、先生は無表情のまま応じた。
「…なんか色々と…ごめん。和美の不安を煽るようなことしちゃって…」
「してないよ、智子」
遮るように私が言ったけれど、智子は首を振る。
「裕貴も、気にしてた。和美に悪いことしたって…」
「……まぁ、気にすんな。何があったかよく知らねぇけど」
私からその辺の話を何も聞いていない先生は、何食わぬ顔でそう続けた。
熱いコーヒーをカップに注いで、由実と茜、智子に順番に差し出す。
「悪いのはすぐグチグチ考えるこいつだしな」
親指を向けて私を指し示す先生。
「えーっ、先生、昨日は『俺が悪い』とか言ってたじゃないですか!」
「そーだっけ」
「そうですよ!」
思わず食いついてしまった私に、すっとぼける先生。そんなやり取りを見て、智子はついにぷっと吹き出した。
「あー良かった。なんか謝ったらスッキリした」
「……たくましいな、お前」
「当たり前じゃん。そういや本城の部屋きれいだねー」
「『先生』をつけろ」
そこから智子たちは1時間ほどコーヒーを飲みながら居座り、やがて元気良く帰っていった。
「…何しにきたんだ、あいつら」
帰った後の片づけをしながら、先生は小さく呟く。
「謝りに来た…はずなんですけどね」
「いやあれは『家庭訪問』くらいの軽い気持ちだろ、絶対」
文句を言いながらも、先生はちゃんと相手をしてくれる辺り優しいと思う。そんな風に思ってふふ、と笑うと、先生は訝しげに首を傾げるばかりだった。
「…明日、クラスの奴らにミスコンの返事もしてやれよ」
ふと、流しでカップを洗う私に先生がそう言う。
「…いいの?」
「あぁ」
短く答えて、先生は近くの壁にもたれて煙草の煙を吐き出した。
「ありがと、先生」
「お前も大変だよな。ホントはあんまり出たくねぇんだろ?」
「……うーん…」
思いがけないことを言われて、私は思わず苦笑いを浮かべる。…やっぱり先生は、私の性格を良く分かっているらしい。こうして熱心に頼まれでもしなかったら、絶対に出ない。あまり目立つような場所に出るのは好きじゃないからだ。
「でも、クラスのために頑張ります」
スポンジを持ったままガッツポーズを作ると、先生は「あ、そ」と短く答えただけだった。
「先生は、もちろん投票してくれますよね?私に。さすがに一票も入らないと寂しいもん」
「そりゃーお前よりイイ女がいなかったらの話だな。いたらそっちに入れる」
「ひど…っ」
「心配すんな、修司ならお前に甘いから無条件で入れてくれるぜ、きっと」
「修司さん、来てくれるのかなぁ学園祭」
「お前がミスコン出るなら飛んでくるだろ」
「あはは、なんかお父さんみたい」
「…お前、そこは『兄』ぐらいにしといてやれよ」
はは、と珍しく声をたてて笑った先生につられて、私も笑う。だけどその瞬間、『お父さん』という単語が出たせいで「そういえば」と思い出したことがあった。
「…先生、この前の三者面談のことですけど」
「あ?…あぁ、まさか父親が出てくるとは思わなかったな」
「先生って、ああいう時も緊張とかしないんですね」
相手が知らないとは言え、彼女の父親を前にしているというのに…。普通は、手に汗握るくらい緊張するものなんじゃないだろうか。逆に私が先生のご両親に会う日が来たら、きっと食事も喉を通らないくらい固まってしまうだろう。何だか自分でも不思議なのだけれど、あまりにも平然としていられる先生にちょっと寂しさがよぎった。
「……」
そう思って言った言葉だったけれど、少し目を丸くした後先生は煙草を唇から離した。手近の灰皿にそれを押し付けて消しながら、肩を竦める。
「昔から顔に出ねぇとは言われてたけどな」
「…え?」
「緊張しねぇわけねぇだろ、あの状況で」
「…嘘っ、絶対してなかったもん」
「お前…っ、嘘ってなんだ嘘って」
だって、先生が緊張しているのって見たことがない気がする。あんなに大勢の前で演奏する時だって緊張どころか…むしろ楽しそうにしてるし。そう言うと、先生は思わずといった感じに苦笑を漏らした。
「ピアノとお前の父親とは全然違うだろ」
「そうかな」
「そうに決まってんだろ」
「良かった。先生にも人間らしいところあったんだ」
「…お前、たまに顔に似合わないびっくりすること言うよな」
言いながらも、先生は笑っていたので私もつい口元をほころばせた。
こんな軽い意味のない会話のやり取りだけで、幸せだなぁと思う。願わくばいつまでもこんな日が続けばいいけど、もしかしたらそう人生うまくはいかないかもしれない。
それでも、ずっと先生の傍にいたい。何があってもその試練を乗り越えて、より絆が深くなるくらいに強くなりたい。
…そう、心から思った。
「よし、飯食ったらテスト勉強するか」
「……うわ、今一気に現実に引き戻されました」
ガクリと肩を落とした私の一言に、先生は大きな声をあげて笑った。