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6月も半ばになり、私の住んでいる地域でも梅雨が本格化していた。降りしきる雨が、教室の窓を叩く。朝なのに空の色は灰色で、どんよりとした空気が漂っていた。だからか、梅雨はあまり好きじゃない。
「もうすぐ期末テストだね」
私の前の席に鞄を置きながら、茜が不意にそう言った。…そうだ。来週になればまたテスト前の試験準備期間に入る。中間テストと実力テストを終えたばかりだと思っていたけれど…学生の憂鬱は尽きることはないようだ。
昨日、HRで席替えをしたばかりだった。教室の真ん中の列の一番後ろという席を得て、しかも私の前は茜だ。由実や智子とは離れてしまったけれど、結構この席に満足している。
「あ、ねぇ和美。今日私化学で問題当たってるんだけどさ」
前の席でノートを出しながら、茜が顔だけ振り向かせて言った。
「やってきたんだけど…ちょっと自信なくて。教えてくれる?」
「うん、いいよ」
私もノートを出しながら、茜の答えと見比べる。もうすぐ朝のHRが始まるから、それまでにやってしまおうと思った。
「答えは合ってるみたいだよ?どこが自信なかったの?」
「あ、ここの化学式、結構勘で書いちゃって…」
「あ、そっか。ここはねぇ…」
茜が迷ったという部分を丁寧に説明しながら、私はノートにシャーペンを走らせる。一通り説明し終えたところで、茜が「なるほどー」と感心したようにため息を漏らした。
「すごい、和美。さすが化学部員」
ありがとう、とニコリと笑って言いながら、茜はそのまま小首を傾げる。そうして、下から私を上目遣いに見た。
「教えてもらったの?」
「……」
どこかからかうような茜の問いに、私は曖昧に笑って応じた。
確かに私も出された宿題に苦戦した。だけど答えを教えてもらえるわけはなく、出されたヒントで答えを導きだすのには本気で大変だった。…しかも、結構なスパルタだった気がする。一生徒だった時は、もう少し優しく教えてもらえていた気がするんだけど…。
「でも先生が彼氏だと色々と教えてもらえていいよね」
「…スパルタじゃなきゃいいんだけどね…」
茜の言葉に、私は今度は苦笑を浮かべる。付き合い始めてからの方が先生は色々と遠慮がなく厳しい気がするからだ。
「それだけ心を許してるってことかなぁ、和美に。本城先生って由実が言ってた通りSっ気ありそうだよね」
「…いやあれはSっ気というよりも…」
…言うなれば「ドS」だ。言葉を飲み込んで、私は代わりに肩を竦めて見せた。
しかもそんな先生がむしろ好きなのだから、私も相当変わっているとは思う。由実辺りに言ったら理解してもらえなさそうだ。
「ありがとね、和美」
ノートを持ち上げて言った茜が、再び前を向こうとする。…ちょうど、その時だった。
「見た見た見たーーーっ?」
教室に入ってきた2人の女子が、既に中にいた女の子たちに声をかけていた。なにやらものすごく興奮した様子だったけれど、それは話かけられた方も同じだった。
「見たよ!びっくりしたーー!!」
そう言えば、彼女たちだけじゃなく今日はいつもより教室内が騒がしい気がする。首を傾げながらそれらを見渡した私を、茜が「?」と同じように眉を寄せてもう一度振り返った。
「俺も見たぜー。1年とか3年まで騒いでたし」
「いいよね!なんか見る目変わったかもー!」
同じような会話が、周囲の色んなところから聞こえてくる。
「…なんだろうね」
茜がかわいらしい顔で唇を尖らせた時だった。
「和美ぃ!」
教室の後ろのドアから、弾丸のように由実が飛び込んでくる。
「聞いた!?見た!?本城が…っ!!」
「…先生?」
由実も興奮中らしく、私の肩をガシッと掴みながら前後に大きく揺さぶってきた。ガクガクと揺らされて、私はわけがわからず目を白黒させる。話の内容もろくに見当すらつかなかった。
「本城がさ!」
由実が、もう一度その名前を出して言葉を継ごうとした時だった。
ガラッと教室の前のドアが開く音がする。
入ってきた長身のシルエットに、一瞬教室内がしんと静まり返った。代わりに、始業のチャイムがスピーカーから鳴り響く。
「? 全員席着け」
教壇まで歩いて行った先生が、出席簿を手に教室をぐるりと見渡した。
「!?」
その瞬間、たった一瞬で私はようやく皆の言っていた意味を理解する。水を打ったように静まりかえった生徒たちを眉を寄せて眺めた先生は、だけどすぐに普段通りに名簿を開いた。
そしてそのまま、いつものように生徒の名前を呼び始める。
…その顔には、昨日まであったはずの髭が完全になくなっていた。
「……」
思わず、私までポカンと口を開いたまま呆けてしまう。たった髭だけれど、ないだけでかなり印象が変わってしまっていたからだ。
昨日までは…いつも通りだったのに。
「今日は6限がLHRだ。文化祭について話し合うから、実行委員は準備しておくように」
出席を取り終えた先生が、そう一日の予定を指示する。
「…ね、今まであんまり興味なかったけど、本城って髭なかったら結構イケてない?」
ボソボソと、左斜め前の女子がそう隣に囁いているのが聞こえた。
「若いよね!あれだったら私全然アリアリ!」
右斜め前の方でも、誰かがそう小声で話している。
「……」
むぅ、と眉を寄せると、肩越しに一瞬だけ振り返った茜が私の顔を見て苦笑いを浮かべた。
「以上だ。日直」
「きりーつ」
礼、の号令で生徒たちが一礼する。1限の授業の準備で散り散りに生徒たちが動き出した頃、先生は出席簿を再び持ち上げて教壇を下りた。
それから、もう一度顔を上げる。
「環境美化委員」
呼ばれて、私ともう一人の男の子が「はい」と短く返事をした。
「取りにきてほしい資料がある。一人一緒に来い」
言われて、「はい」ともう一度だけ答える。
それから同じ委員の男子に「私が行ってくるよ」と声をかけて、先に教室を出た先生の後を追った。先生が出て行った途端にまた教室が騒がしくなったのが、再び私を複雑な気分にさせる。
だから、教室を出て先生に追いついた後も顔はふてくされたまま直せなかった。
「…おはようございます」
そんな顔のまま改めて挨拶をすると、先生は横目でチラリと一瞥してから「何だその顔」と素っ気無く言った。
「生まれつきこういう顔です」
「へぇ」
私の答えに肩を竦めて、先生はそのまま構わず歩いて行く。
……つれない。
今度は唇を尖らせて、私は先生の半歩後ろを足早についていった。
「…先生、何で髭剃っちゃったんですか?」
拗ねついでに、八つ当たりまがいに尋ねてみる。先生の少し後ろを歩いているだけで、周りの生徒たちがコソコソと話をしているのがわかった。そのほとんどが女子から漏れる黄色い声だ。今まで先生は男子からも女子からも「怖い」と恐れられていたのに…。今更何を、と、思ってしまうのは醜い嫉妬心からだろうか。
「明日から三者面談があるから」
答えながら、先生は階段を下りて行く。
「教頭が剃れってうるさくてよ」
そこだけ、声のトーンを少し落とした。先生の声は元々大きくはないので、誰にも聞こえないだろうけれど。
「…それだけ?」
「そう。それだけ」
半ば面倒くさそうに答えたのは、私がうっとうしかったわけではなくて教頭先生の顔を思い出したからのようだ。いつまでたっても相性が良くないらしく、いつも教頭先生には目の敵にされているらしい。
その時ちょうどすれ違った女の子たちが、「かっこいい」という単語を出した時は本気で拗ねそうになった。ただ髭がなくなっただけで…こんなにも変わるものなんだろうか?
「先生、周りの視線、痛くないですか?」
まさか気づいていないということはないだろう。先生は、どちらかというと周囲の声には敏感な方だ。…興味はないのだろうけれど。
「別に。そのうち飽きるだろ」
「かっこいい」という囁き声も聞こえているはずだ。やっぱり何となくおもしろくなくて顔を歪めると、先生はまた微かに苦笑いを漏らしたようだった。
辿り着いた化学準備室。ようやく静かになって、私はホッと安堵の息を漏らした。
「…あれ、まだねぇな」
机の上の物をバサバサとどかして確認しながら、先生は小さく呟く。それに首を傾げて、「何か探し物ですか?」と尋ねてみた。
「お前に持っていってもらうはずの資料。苑崎先生が持ってきてくれるはずだったんだけどな」
先生と一緒に環境美化委員の担当をしている美術教師の名前が出る。
「まぁもう来るだろ。ちょっと待ってろ」
…そんなことを言っても、朝のSHRを終えてから1限が始まるまでは15分ほどしかない。そう言おうとしたけれど、今日の1限の担当教師がここにいるんだから問題はないかもしれなかった。
「そういやお前さ」
「?はい?」
1限の化学の授業の準備をしながら、先生は再び口を開く。それなりに整頓されている机から教科書と問題集を取り出して言葉を継いだ。
「今日のLHRなんだけどよ」
「…あぁ、文化祭の話し合いするって言ってたやつですか?」
尋ね返すと、先生は小さく頷く。いつもの定位置の椅子に遠慮もなく座った私を、まっすぐに見据えてきた。その目が…少しだけ不機嫌そうに細められる。
「何を頼まれても、引き受けるなよ」
「……え?」
言われた意味が分からず、私は目を丸くした。
……「引き受けるな」……?
…何、を?
聞き返そうとしたその時、部屋のドアが軽くノックされた。
「はい、どうぞ」
本城先生の応じた声に、静かにそれが開く。扉の向こうから姿を見せたのは、ちょうどさっき名前が出てきていた苑崎先生だった。
「遅くなってすみません」
言葉の割には悪びれた様子もなく、穏やかな笑みを口元に浮かべて苑崎先生は中に入ってくる。背はそれほど高くはないけれど、どちらかというと細身なのでスラッとして見える先生だ。物腰は柔らかで、生徒に対しても敬語を使う辺りどこかの「不良教師」とは大違い。男女問わず生徒に人気がありいつも周りを囲まれている印象があった。
「持ってこようとしてそこまで来て、机の上に置いてきてたことに気づいて引き返してました」
何でもないことのように言う苑崎先生。…たまに天然なところがあるとは聞いていたけれど…。
私は思わず笑ってしまったけれど、本城先生は慣れているのかさして気にした様子もなかった。
「あぁ、じゃあ白石さんこれお願いしますね」
苑崎先生に差し出されたのは、3枚の紙。
「今日の放課後の委員会までに、そこに書いてある通り記入しておいて欲しいんですけど…」
そう言えば今日は委員会がある日だ。「はい」とそれを受け取ると、苑崎先生はそのまま本城先生に向き直った。
「それで本城先生、ちょっとお願いしたいこともあるんですが…」
まだ続きそうだった先生同士の話に、私は椅子から立ち上がる。ここでこのまま聞いているのもどうかと思ったからだ。
「本城先生、じゃあ私戻ります」
「あぁ、悪いな」
いえ、とペコリと苑崎先生にも頭を下げて、私は化学準備室のドアを引く。
結局、先生のさっきの言葉の真意は聞けないまま終わってしまった。